日系3世 アナ・フランシスさん



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 長男のブライアンが朝教会に行くというので一緒について行った。
教会は昨日魚を買いに行ったアパートの隣のアパートの
3階にあり、部屋の一室に椅子と牧師が立つ場所が置いてあるだけの簡素なものだった。
ブライアンは家族で1人だけプロテスタントを信仰しており、お父さんのハビエルさんはヨルバを信仰している。
キューバでは
Yoruba(ヨルバ、ヨルワ)※奴隷時代はLucumi(ルクミ:ヨルバ語で友達の意味)と呼ばれる宗教が盛んである。ヨルバはカトリックとアフリカの民族ヨルバが融合したものである。

 友人から紹介してもらった日系人のフランシーを訪ねるためアバナへ向かう。ハビエルさんが通行人と交渉し、クック(外人用通貨)をキューバペソに替える。誰が両替人なんだかまるで見分けがつかない。
昔の映画に出て来そうなアンティーク調の車に相乗りする。初日に
35ドル(約3400円)かかった道のりは20ペソ(約70円)ほどで済んだ。
町の中心まで行って自転車のタクシー(ビシタクシー)に乗り換える。
10ペソと言われて安心して乗ったら支払いの際、10CUCだと言われた。
その金額はキューバ人の1ヶ月分の給料に値する。クックで払う気は早々なかったので、『
30ペソで受け取らないなら払わないと』言うと、ふてぶてしそうに受け取った。後で知ったのだが、私が乗った自転車のタクシーはCUCで支払いを受け取るのを禁止されていた。

 フランシーとお母さんの定美さんは
30分以上遅れた私にも不満な表情一つしなかった。キューバに日系人がいると知ったのは、先週ドミニカで会った西尾さんと会ったときだった。
中米で日本人が一番初めに入植したのはドミニカ共和国だと思っていたが、キューバの日系人移民の歴史は今年で
115周年を迎えようとしている。




    荒川定美さんのお父さんが書いた戦争中の日記


 荒川定実さんはキューバ生まれの日系2世。フランシスさんは彼女の娘である。定実さんは箱に入ったお父さんの遺品を見せてくれた。
『これが父のパスポートです』
そこにはあんじゅ丸で大正捨
44月甘参日キューバへ渡ったと書いてある。『1500人位ですかね、最初にここに入植したのは』
その後第二次世界大戦が始まり、日系人男性はキューバの
Isla de la Juventud(青年の島)※前Isla de Pinosという島に収容された。

『私はその当時6才でしたが、ある日新聞に首から番号をぶら下げた父の写真が貼り出されているのをみました。スパイと勘違いされていたのです。それを見た母は私達の前で初めて涙を見せました』

 定実さんのお父さん、荒川伍平さんは4年間島の収容所で過ごし、終戦後変わり果てた姿で家族のもとへ戻ってきた。
伍平さんが書いた第二次世界大戦が始まってからの日記と、入監者の名前や食べた物が書かれた紙、当時日本からお金を送金していた時の記録書や昔の日本円など、どれも博物館に置かれていてもおかしくない物ばかりを見せて頂いた。
『戦争中の生活は本当に苦しいものでした。忘れないで頂きたいのは、日本で苦労された方はもちろん、日本の外でも苦労した人達がたくさんいるということです』
さっきまで陽気だった定実さんの顔が急に日本人の顔になった。娘のフランシスさんは、去年
JAICAの研修員として日本へ3ヶ月滞在している。

『日本で印象的だったのは、時間や人、物を敬うという心を持っていることでした。例えばヨーロッパやアメリカでポイ捨てをしないのは何かしらのペナルティーが課せられるからで、日本人のように自然が破壊されるからとか尊敬する心からではありません。そう言った部分にはとても驚きました。でも、色んなことが整い過ぎている分、窮屈に感じたり、人間関係の温度差に寂しい思いもしました。隣のアパートに住んでいる人のことも知らなかったですから』

 私はアパートから顔を出して大声で挨拶し合う滞在先の近所の人達の風景を思い出した。時間はあっという間に過ぎていった。定美さんは近くのジョンレノン広場まで送ってくれた。



                  ジョンレノン広場


タクシーに乗って家の近くの停留所へ着くと、デニルソンとブライアン、彼らの友達6人が待っていてくれた。
Eriko~!Somo guardaespaldas!!』(エリコ!僕たちボディーガードだよ)
アパートの前に着くと競い合うようにしてどの家からも音楽が流れている。家の扉を開けるとサルサを踊るハビエルさんが出迎えてくれた。今夜も長い夜になりそうだ。
    


             サルサ全開のハビエルさん


ERIKO