
アルパ奏者のルシア・塩満さんと
8/23
パラグアイ最終日の今日は、Centro Paraguay Japonesの24周年のイベントに参加させてもらった。
地元のバレエ団の踊りや、ルシア・塩満さんのアルパの演奏など盛りだくさんの内容だった。
Centro Paraguayo Japonesの建物は、アスンシオン市が提供しているもので、すべて日本の寄付から作られている、大変立派な施設である。
今夜のイベントには、神谷大使ご夫妻を始め、アスンシオンの市長なども参列されていた。
今回は所長であり、文学博士のEmi Kasamatsuさんにお誘い頂いたのだが、最後の最後に訪問が実現できて良かった。
今日で半月に及んだパラグアイ滞在を終えようとしている。
到着前は予定していたスケジュールも多く、忙しく時間が過ぎていくのかと思ったが、パラグアイのゆっくりと流れる時間の中で、逆に旅の疲れが随分癒された。時間というものはこんなにゆっくり過ぎていくものなのか。
実際の日数を省けば、この旅で一番長く感じた滞在だった。
パラグアイに入国する前は、周りの人達から、“パラグアイは治安が悪い、水や食べ物には十分気をつけろ”などと、口酸っぱく言われてきた。
確かに気をつけることに越したことはないが、アスンシオンは水道の蛇口から水を飲んでも平気だったし、田舎で食べた野菜は日本で食べるより新鮮で美味しかった。
パラグアイに来て驚いたこと一つに、各家庭の子供の多さがある。
昔の日本のように、平均すると大体5~7人ととても多い。
子供の母親はシングルマザーである場合が多いが、周囲の大人たちが子育てに積極的に手を差し伸べてくれるので、孤立し負担を感じることは少ない。子供の数が多い根本的な理由を、田舎の村を訪れた時に感じた。
パラグアイはマチスモ、マリアリスモが大変強い国である。
マチスモ思想から影響する、子供の数が男性強さを示すという価値観を少なからず受けている。
周囲の国とは違う独特の社会性や、パラグアイ人のゆっくりとした気質の大きな要因は、1989年まで35年間続いた、ストロエルネスの独裁政権による影響とも言われている。
そしてもう一つは、スペイン語よりグアラニ語が使用されているということ。首都のアスンシオンでは、スペイン語で問題なく会話できるが、首都を離れると、とたんにグアラニ語の世界となる。
カンポで暮らす人々は、スペイン語を聞き取り、理解することは出来るが、話す機会が少なく、流暢に話せない人も多い。
パラグアイへ来る前は、一部の場所でしか使われない言語だと思っていたら、全くの正反対だった。
親日国のパラグアイには、5つの日本人移住地が存在する。
旅をするまで、日系という言葉の意味すらよく知らなかった私だが、各国で実際に日系社会に触れていく中で、日本人が築いた移住の歴史や苦労や生み出したものを知ることは、日本を知ることに必要不可欠であると感じる。
特にパラグアイでは、困難な時代を乗り越え、パラグアイの国民は移住者を通じて、勤勉さや誠実さを学び、日本人は信頼における国民として、高い評価を得ている。
どの国もそれぞれに特色のある文化や習慣を持っているが、パラグアイはその中でも他国とは似ても似つかない、独特の空気を内包している国であると、長くいればいるだけ感じる。
それは温かい気候のせいなのか、グアラニの血が流れる人々のほっこりした気質がそう感じさせるのだろうか。
パラグアイの豊かな赤い土壌、懐かしい田舎の味のする食べ物、そして誰にでも心を開いて接してくれるパラグアイの人達。
今もなお、日本からこの土地へ移住をしてくる人々は、パラグアイの懐かしい空気感に、どこかに置き去りにした心情を重ね合わせるのかもしれない。
この地に向ける世界の目が、発展途上や貧困であったとしても、緑の生い茂る赤茶けたパラグアイの豊かな大地の上を裸足で駈けていく子供達を私は忘れないだろう。
そして私がこの地を去った後も、パラグアイの人達は互いに親指を立て合い、太陽のような笑顔で彼らの生活を続けていくだろう。