アグスティーナ・ミランダ・ゴンザレス女史の存在を知ったのは、(社)日本パラグアイ協会の事務局長を務める、岡山嘉成さんと会った日であった。

 待ち合わせた新宿の喫茶店は、昔ながらのタバコの臭いが充満して、昼休憩のサラリーマンが個々にコーヒーを飲んでいた。
旅の協力の打ち合わせをさせてもらうため、企画書を出し、説明をすると、すぐに快くいい返事をしてくださった。
その後すぐに岡山さんが話してくれたのが、このミランダ女史のことだった。

 ミランダさんは、
1916年、パラグアイのイチビミ県というコルメナ移住地の近くで生まれた。
日本人が大好きだったミランダさんは、
25歳でコルメナ第128高等小学校の校長を務め、その後は大統領府官房副長官として、ストロエスネル政権崩壊までその職にあった。
クーデター後も、パラグアイ日本協会事務局長を努められ、
2005730日の絆の日に亡くなられるまで、その生涯を日本人のために捧げた、パラグアイの女性である。
コルメナ移住地を訪問した際に訪れた、田中秀穂写真館で、ミランダさんの昔の写真をいくつも拝見した。
写真の中の彼女は美しく、たくさんの日本人に囲まれて、大変幸せそうな顔をしていた。
パラグアイの日系人は今でも日本語を日本人のように流暢に話し、日本の文化を引き継いでいる。
その大きな理由として、日本が
1941年に太平洋戦争に突入した際、ラテンアメリカ全域で、日本語禁止令が出された。
日本人の移民者は孤立してしまうような状態にあったのだが、この時、ミランダさんはパラグアイ国文部省と折衝し、非公式に日本語教育の継続を図った。
この時に、日本語教育継承の大きな土台が築かれたといっても過言ではない。
1992年には、日本を訪問し、天皇皇后両陛下に拝謁されている。

 岡山さんはミランダさんの人生を話した後、こう言った。
『パラグアイへ行ったら、彼女のお墓参りをしてきてください』

 ラ・パチョの花びらが風に舞う晴天の空、レコレタに眠るミランダ女史のお墓の入り口で、娘さんのメルセデスさんが待っていてくれた。
セメンテリオ(墓地)を奥へと進み、突き当たりの手前で、男性がミランダさんのお墓の扉を開けて待っていてくれた。お墓には、ミランダさんの写真が飾ってあり、お花と線香が立ててあった。
『彼女は日本人が本当に大好きだったから、こうして若い子が日本から来てくれるなんて、母は本当に喜んでると思うわ』
メルセデスさんは、ミランダさんがどれだけ日本人に近い心を持って、愛していたかを話してくれた。
『今日は母のために、あなたの時間を使ってくれてどうもありがとう』
ミランダさんのお墓に感謝の気持ちを伝えた。天候のせいだったのだろうか、白く温かい光に包まれた優しい時間だった。

 

岡山さんへ

 ミランダさんのお墓参りに行かせて頂くことができました。
岡山さんから聞いていたお話は、滞在中、現地の日系人からも耳にする機会が多く、ミランダさんがどれだけたくさんの人から愛されていたのかを実感しました。
メルセデスさんは、岡山さんが今でもパラグアイ、そしてミランダさんのことを忘れず覚えていてくれていることにとても感謝していました。
『遠いけど、心は一番近い国』
パラグアイの人の心には、日本人に対しての信頼の気持ちが宿っています。その土台作りに大きく関わった、パラグアイ人のミランダさん。
両国に生まれた絆が、今の親日国へと繋がっているのかもしれません
。忙しい中、岡山さんの時間を割いて下さり、パラグアイについて、そしてミランダ女史について話をして下さったこと、こうして今日もまた感動の1日を終えられることに感謝します。ありがとうございました。



         ミランダさんの娘のメルセデスさんと










コルメナ移住地の5月15日広場にあるミランダさんの記念碑




                                              Augustina Miranda Gonzalez


※お知らせ
先日取材を受けた、eco cultura TVのインタビューがyoutubeにUPされました。
今回は、サントドミンゴ村のミタイ基金を一緒に訪問した、横浜国立大学の藤掛洋子教授と出演です。

eco cultura interview

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