
8/18
早朝雨音で目が覚めた。ベッドの中でウトウトしながら、車のタイヤが赤いドロドロの土に絡まって動けなくなる様子が思い浮かんだ。朝ご飯を食べて、家を出発する頃にはもう雨は止んでいた。
アスファルトの道路から、サントドミンゴ村へ繋がる土道の通りに入ると、所々深く道が陥没して、車内が上下に大きく揺れた。
小さな家を何軒か過ぎたあと、ミタイ基金の学校が現れた。
車から降りると生徒たちが一気に駆け寄り、代表の藤掛さんに抱きついた。ミタイの学校は1995年に設立され、日本のスタッフと現地のスタッフが手を取り合いながら、村作りを支援している。
今日は、生徒たちへ新しい学用品をプレゼントする式が行われる。校舎の前にある、凸凹の芝生に生徒たちがイスを並べ、国歌斉唱から子供達のダンス、学用品の贈呈が行われた。
生徒半分以上の親は、市場へ働きに出ていたため、全校生徒の約半分の20人ほどしか集まっていなかった。1日働くのと働かないのでは、彼らの生活は随分と違って来る。
生徒たちは贈られたジャージにすぐ着替えて、芝生の上を走り回った。
昼食は、昨日立ち寄った、ドミンガさんのお父さんの誕生日パーティーに招いてもらった。
美味しいサラダに入っていたレタスは、日本人の協力隊が現地の人達に作り方を教えたものだと、ドミンガさんはとても嬉しそうに目を細めて笑った。パラグアイには昔、野菜がほとんど作られていなかったそうだが、日本人が農業の手法を伝え、今ではごぼうや生姜、ねぎなど手に入らない野菜はないほどである。
午後からは村を歩き、家を訪ねながら人々の生活を見せてもらった。
私が一人で歩いていると、やせ細った男の子が距離を保ちながらついてきた。5才くらいだろうか。
しばらくして話しかけると、あちこち指を指しながら場所の説明をしてくれているようだったが、グアラニ語だったので、彼が“ロバタ”くんという名前だということしか理解出来なかった。
現地のミタイのスタッフと話しをしていると、この村というよりパラグアイでは男性の権力が強く、女性に対して労働的にも性的にも、動物のような扱いする男性が非常に多いということを知った。
ミタイでは女性が家の外へ出て、彼女のたちのやってみたい、興味のある活動の支援もしている。
『パラグアイの人にとって大切なのは、家族と教育なのよ』と、現地スタッフのノルマさんは話した。パラグアイの教育時間数は世界で一番少なく、たくさんの親たちは、自分の子供達が勉強できる機会を与えることに必死である。
村で暮らす人達のほとんどが、小学校3年で働きだし、学校を離れる。
自分の子供達が大学へ進学するということが、家族にとって一番の喜びであるそうだ。
『私たちパラグアイ人は、どんな小さなことでも、何か良いことがあった時は、家族や周りの人達と一緒にいっぱい喜ぶの。そういった面では私たちは幸せいっぱいだと思うわ』彼らは本当に幸せそうだった。
南米に来てから、毎日必ず何度となく“幸せ”、“満足”という言葉を耳にする。
その言葉は、彼らの心に現れた、生きているというシンプルな喜びの感情を互いに共有し合うように発散させているかのようである。
夜はゴイリスさんのお母さんの家がAsado(BBQ)に招待してくれた。
今日は1日に2回Asadoを食べるという最高記録も達成した。
ERIKO