Centro Nikkei Paraguayoの広い敷地内

 アスンシオンの郊外にある、Centro Nikkei Paraguayoを訪ねた。
副会長のカワタタダシさんと前会長のマルティンさんに広い敷地内を案内してもらった。パラグアイへ日本人が初めに移住をしたのは
1936年。
去年で
75周年記念を迎え、現在日系4世代目に当たる。
Centro Nikkei Paraguayoの敷地内には、日本からの寄付によって建てられた、ミニゴルフ場やプール、宿泊施設、診療所など、かなり充実した施設がある。日本大使館からの援助でアスファルト化された建物の前の通りには、Avenida Japon(日本通り)という名前がついている。

 パラグアイの日系人は流暢な日本語を話す人が多いのは、一世の方たちが日本語教育に対してとても厳しく、ほとんどの家庭で日本語以外は話すのを禁止していたからだそうだ。
マルティンさんは中学、高校、大学で、スペイン語の授業を理解するのに大変苦労したと言った。
『子供の頃、家では日本語、外ではグアラニ語だったから、学校でスペイン語を勉強した時は勉強についていくのに必死だったよ』パラグアイの日系人の方々と話をしていると、日本人という人種に対しての強い誇りのようなものを感じる。



                                  Plaza Dr.Kunito Miyazawa


 Centro Nikkei Paraguayo
を訪ねた次の日、日本人が一番初めに入植した、コルメナ移住地を訪ねた。
アスンシオンの町を出ると、生い茂った緑に囲まれた牧場の風景が続いた。『あの丘はコルメナ富士と呼ばれているんだよ』と付き添いをしてくれるラモンさんが指をさした。
確かに形も似ていて、緑に恵まれた富士さんという感じの丘だった。
コルメナ移住地は首都のアスンシオンから
135km離れた所にある、日本人が作った町である。
日本人とパラグアイ人が手を取り合い、町で生活を共にしている移住地は、ここにしかないそうだ。
町はとても静かで、通りに面して建つ家の前では、輪になってイスに座りながらテレレ(パラグアイの冷たいマテ茶)を回し飲みする家族の姿が目立った。


          左:根岸さん 中:後藤さん

 
日本パラグアイ文化会館の前に到着すると、協会の会長さんである、根岸さんと後藤さんが通りに立って待っていてくれた。
『こんにちは、どうも』頭を下げるだけの久しぶりの日本式挨拶である。
根岸さんはコルメナ生まれで、後藤さんは成人になってから移住してきた方である。



        田中秀穂博物館の写真 入植当時


 記念碑のあるPlaza Dr.Kunito Miyazaka(ミヤザカクニトウ広場)を案内してもらったあと、休館中だった田中秀穂博物館をわざわざ開けてもらい、移住に関する貴重な資料を見させてもらった。
お昼ご飯は
FUJIMI HOTELというホテルで日本食をごちそうになった。
後藤さんたちと普段の生活などついて話した。
後藤さんはステビアの仕事をしていて、パラグアイが大好きだと話した。『一度日本で、仕事から帰ってきた旦那を冷たくあしらう家族を見たことがあってね。ご飯はチンしてね!なんて・・・ここじゃ考えられないね。家族はいつも仲良しだし、いつも一緒だよ』
私が食事代を払おうとすると、『あんたのことだいぶ気に入ったからおごってやるよ!なかなかないんだからな!』と子供みたいに笑った。

 第一次移民の方に会わせてあげると言われ、金沢とよさんという方のお宅にお邪魔させてもらった。
とよさんは、小学校
3年生の時、岩手県水沢市から両親と共に1937年にパラグアイの地へ住み着いた。
『パラグアイには、鶏の卵も食べ物も土地もたくさんある夢の場所だと憧れて来たんだけど、着いたら本当に何もなくて、寒い時期に短いズボンに裸足で学校に通っていたわ』
とよさんの周りには孫、曾孫が走り回っていてかなり賑やかだった。
曾孫のようすけくんが私の膝に乗り、ほっぺにキスをすると、『本当に女好きでごめんなさいね』と笑った。

 とよさんの家を去ったあとも、他のお宅にお邪魔させてもらった。
数ヶ月前に日本からコルメナに移住して来たという若い若者もいた。
本当に色んな人がいるもんだ。随分時間が経ったなぁと思い、ふと時計を見るとまだ
3時過ぎだった。
パラグアイの時間は子供の頃に感じた時の流れに似ている。
1日はこんなに長かったっけ。


           左:金沢とよさんと曾孫たち

ERIKO