渡航前より外務省の方などに話を伺っていて、是非足を運んでみたいと思っていた。
今日、ついに移住地へ訪問するチャンスが出来た。結論から言うと、両方へは行けず、行けたのはサンフアンだけだった。
朝、ISHIMAの島袋さんが車を出して下さり、サンタクルスを出発して、ひたすら長い一本道を約130km進み、午後サンフアン日本人移住地へ到着した。
出迎えてくれたのは、サンフアン日本ボリビア協会会長の石沢登志雄さん。
サンフアン移住地へ移住した日本人のほとんどが長崎県を始めとする九州から来た人達である。石沢さんも背が高く見るからに九州男児という雰囲気だ。
ちょうどお昼だったこともあり、日本食屋さんへ行った。出てきたメニューはほとんどが中華だったが、久しぶりに食べる味で嬉しかった。
石沢さんは小学校2年生の時にボリビアへ移住して以来、ずっとサンフアンに住んでいる。
今の日系社会について伺うと、2世がこれからの日系社会を引っ張って行く中で、昔のような団結力を現在の若者からはあまり感じず、個人がそれぞれに豊かさを求めている傾向にあると話していた。
石沢さんは、昔とは違う考えを持つ若者達を理解するため頻繁に話し合いの場を設けていると言った。
食事の後、広大な農業地帯を案内して下さった。しばらく続く畑の景色の中に時折見える家々はどれも豪邸というにふさわしい立派なものだった。
最後に小さな資料館を拝見させてもらった。
入植からの歴史と、当時使われていた道具などが展示してあった。そこは私にとって少し特殊とも言える空間で、展示されている物の一つ一つから、当時の人の思いや何か熱いものが胸に込み上げてきた。人々の苦労が伝わってきたというよりも、どこかに人間の温かさを感じた。
外には移住協定を結んだ当時のボリビアの大統領、ビクトルパスエステンソロと、入植の歴史が掘られた彫刻や、前総理大臣の小泉純一郎氏から送られた石碑などがあった。
ありがたいことに石沢さんは、私が今日サンフアンに宿泊すると思って、部屋を用意してくれていた。私がサンタクルスへ帰らなければならないことを伝えると、少し残念そうな表情を浮かべた。『また来ます!』元気にそう石沢に伝えると笑って答えてくれた。
私にとってサンフアンは、温かい空気の流れているのどかな場所であった。
サンフアンを後にし、オキナワへ向かう途中、デモで道路が封鎖していた。
これではオキナワへ行けないどころか、サンタクルスにも帰れない。
私たちはとりあえず家へ帰る別ルートを探した。
デモ整備をしていた警察たちは、別な道はないと答えたが、諦めず探すことにした。
小さな村々を訪ねて道を聞きながら、道は悪いがどうにか帰れる回り道が見つけることが出来、無事サンタクルスへ戻ることができた。
そんなこんなで結局オキナワへは行けなかったが、きっとこれにも今は気づかない訳があるのかもしれない。