週末の日曜、お昼は家族でLa casa del Cambaというサンタクルスの料理をブッフェで食べられるところへ行った。サンタクルスのレストランはほとんどが週末営業のみで、たくさんの人達で賑わっていた。土日は家のお手伝いさんがお休みのため、外食に出かけるのが一般的らしい。

 

私はマニと呼ばれるピーナッツのスープや、ソーセージ、サラミの入ったご飯マハディートなどを食べた。どれも美味だった。

 

 今日はトモエお母さんが親しくしている、ボリビア第一次移民者の平良さんに会いに行った。もう80才になるとは思えないほどハキハキしていて、見た目は全くのボリビア人だった。

 

平良さんは大阪生まれで、お父様が沖縄の出身である。

1954年、まだ沖縄がアメリカ支配時代、南米の地での農業開拓の夢を胸に抱いて、キサダネ号という船に乗り2ヶ月かけてボリビアへ渡った。

一世帯50町歩(15000)がもらえるという約束で海を渡ったが、用意されていたのはウルマという地のジャングルの真ん中にぽつんと建つ土壁だけで出来た屋根のない家だけだった。

食料不足、未だに名前も分からない病気の蔓延、インディオの攻撃、ライオンや豹など。まさに過酷という言葉だけでは表現に足らない状況の中、400人いた移民者で、病気にもかからず生き残ったのはわずか25人。平良さんはその生き残ったうちの一人である。

しかしのちに、現在のサンフアン移住地、オキナワ移住地と、日本人移住者は農業開拓を進め、現地の人達の手本になるまでとなった。

平良さんは13年前に移住地を出て、サンタクルスの町で印刷工場を営んでいる。現在経営は主に2人の娘さんに任せている。

 

私は平良さんに、日本へは帰ろうと思わなかったのか聞いてみた。激動の人生を送ってきた彼は今をどう感じているのか知りたかった。

平良さんは言葉に命を吹き込むように丁寧に、“ボリビアに来て良かったとつくづく感じる”と言った。

どうしてかと聞くとこう答えてくれた。

『ここでは1日のうちにAmable(親切)という言葉を何度も交わすんです。
バスで席を譲った時、何か人に優しくした時。
そうであればそうであることを素直に言う。私はボリビアに来てから人間の
面性を感じたことが一度もありません。ここの人間の心の美しさに価値を感じている』

そう話す平良さんは日本人でありながら、心のよりどころはボリビアにある。

またお手伝いさんでも社会から身分の低いと見なされている人でも、友達でもいつでもUsted(目上の人に使う話し方)しか使わないという。


『親切や優しさは、まず自分がそうすることで初めて得ることが出来る』

平良さんはコーヒーのおかわりを入れてくれて、私の家族が迎えに来るのを一緒に待ってくれた。
ロシアへ戦争に行っていた私の祖父もそうだが、“
風の中で育った木は根が強い”と言うように、困難を乗り越えた人間からはなんとも言いがたい芯の強さを感じる。


今日初めて知ったことがある。スペイン語には“ぼける”という単語がない。

日本でよく耳にするその症状を説明すると、それは何だ?と不思議そうに質問された。

人と人とが毎日家族のように密接に関わり合い、生きるということに真剣に向き合っている彼らには、ぼける暇なんてないのだ。


ERIKO