今川義元を破った信長は破竹の勢いで都に迫り遂に上洛を果たした
桶狭間では驚異的な戦果を挙げた織田打球隊であったが、戦を重ねるごとに打球隊の戦果は下がっていった
敵に飛んでくる火の球の正体が知れ渡ったためである
信長は打球が攻撃の為の兵器ではなく単に娯楽であると悟った
決めれば行動の早い信長は打球隊を解散し、その兵力のほぼすべてを鉄砲隊へと移した

打球隊は解体させたが、娯楽としてのゴルフはますます信長を魅了していくのであった
ゴルフが兵器ではないことが分かった信長は、かの南蛮人が自分に隠し事もしてなく、嘘もついてないと彼を完全に信用し、且つ彼の意見には真摯に耳を傾けた

ポルトガルから来た南蛮人、名前はジャガー・ウッズと名乗っていた
ジャガー・ウッズからポルトガルでのゴルフ事情を聞いた信長はゴルフコースを作りそこでプレイしようと決めた
場所は比叡山の麓、早速ジャガー・ウッズにコースの設計図を書かせ、比叡山に協力を申し込んだ
設計図は出来たが比叡山の僧侶たちは頑なに信長の申し込みを無視し続けた
業を煮やした信長は遂に比叡山延暦寺に焼き討ちを掛けたのであった、1571年のことである

比叡山麓に3ホールのコースが完成したのは翌年のことであった
秀吉や光秀などの家臣と共にジャガー・ウッズのコーチを受けながらしばしばこのコースで楽しんでいた
その4年後長篠の戦で武田家を破った信長の地位はいよいよ盤石のものになっていった

信長は飛距離も出たがピンしか見ないイケイケドンドンのゴルフでスコアを乱すことも多かった
秀吉はあまりゴルフが好きではなかったのだろう、コツコツと尺取虫のプレイ
光秀は今で言うコーズマネージメントに長けていたようで、無難にスコアをまとめていた

1582年6月、信長と光秀は比叡山麓のコースでプレイしていた。信長のキャディは森蘭丸であった
この時秀吉は中国地方へ遠征していた
この日は1打差で光秀の勝ちであった
いつもなら「光秀にやられたわ、次は儂が勝つぞ」と笑って終わるはずなのだが・・・この日は違った
「最後のホールの2打目、打つ直前に球が動いただろう、2打罰だから儂の勝ちじゃ」信長がこう言った
「動いておりませぬ」「いや動いた」「動いていませぬ」「いや動いた」
信長の気性をしりながらも、なぜか光秀もひかなかった
信長は非を認めない光秀に罵詈雑言を浴びせながら蘭丸を伴ってコースを後にした

気が済まないのは光秀だった、動いていないものを動いたと言われ、挙句罵詈雑言を浴びたのだから
常日頃から信長の横暴さに嫌悪感を抱いたいた光秀の堪忍袋の緒が切れた
夜中に手勢を集め、信長の宿舎本能寺に討ち行ったのは翌朝早くのことだった
信長48歳の時である

光秀謀反の報せを聞き急ぎ戻った秀吉によって光秀は打ち取られ
ゴルフが好きだった信長も光秀も死に、あまり好きでなかった秀吉が残った
秀吉がゴルフをすることは2度となく、信長が作ったコースもいつしかその形跡をなくしたのであった
こうして伝わったゴルフは350年後の明治まで日本の歴史から姿を消したのである

ジャガー・ウッズは本能寺にほど近いイエズス会の教会にいたために難を逃れ、その後帰国した。

                                           完