結婚もしてないし、したこともないえりもが、



やたら「離婚」という言葉を耳にしました(;´▽`A``



 昨夜遅く、姉から



旦那と離婚するから、えりの家に明日からしばらく世話なるよヽ(`Д´)ノ


いいけど、子供は厳しい~ヽ(;´Д`)ノ



 という話があり、まあいつもの夫婦喧嘩なんだけど、姉は酷い鬱病で震災以降はすごく不安定だから、病院で点滴打って結局地元でゆっくりするらしいDASH!


 そして、今日の英会話で、仲良しのS先生が



親が離婚するって(´・ω・`)


マジ・・・きついねぇ・・・こんなときにヘバっててゴメンね~(私も会社を病欠中)(/TДT)/


父親の前の妻と連絡取ったりしてるみたい(´・ω・`)


え・・・前の妻?!(´Д`;)


ウチの親、バツイチ同士の結婚だから(´・ω・`)



 英会話が時間延長で、いつもお互いの人生相談になるんだけど、ディープな悩みよね・・・ダウン



大丈夫、ウチも離婚してるし、最初はしんどいけど、きっと気分が上が日は来るよあせる



 と、とっさに言ったけど、ウチの場合は死別による離婚だから、だいぶ違うけど・・・汗



 今、日本の夫婦の3組に1組は離婚する時代・・・でもさ、最近思うのは



あれこれ手に入るようになったから、みんなあれもこれもと、欲望が尽きなくなってるよねぇ・°・(ノД`)・°・



 私も、東京で何でも手に入る便利さに、慣れるどころか怖くなっちゃって、未だに質素な生活で郊外のジャ○コみたいなところにばっか行って田舎の休日気分を満喫してるし、



何でも手に入るから、自分が何が欲しいのかわからなくなっちゃったり、何かを得た時の満足感が十分じゃなくていつも満たされなかったり。(´д`lll)



 だからみんな、結婚しても他にもいい人はたくさんいたり、やりたいことがたくさんあったり、完璧な人とか、完全な満足なんてもうないのに、いつまでもいつまでも、求め続けて離婚するのかなぁ・・・なんて、合ってるかわからないけどねダウン



 えりもはカッペで東京になんて憧れなかったし、いつまで経ってもカッペはカッペうり坊ここ東京で子育てとか、考えられないしできる自信もないし、全然順応できない・・・精神的に窮屈・・・みんなそうなのかなぁ叫び




        日々邁進

自分らしくあれば、収まるべきところに収まるo(^▽^)o



 これ、私の信念と言うか、生きる道しるべみたな言葉恋の矢最近、私の人格否定があちこちですごくって(大殺界?)、かなりクヨクヨして、性格直そうかとかも思ったりもしたけど、



やっぱり私は、自分らしさが人生で一番大事( ̄▽+ ̄*)



 自分らしさを失ったら、死んだ方がマシドクロ濃い~~~オバちゃんになりそうだけど、納得いかないことは直す気ないし!!納得いったら直すけどクラッカー



 仕事がうまくいかなすぎて、もう逃げ出したいけど、自分らしさだけは死守するグー




     日々邁進

 えりもの周りには、何人か起業を夢見る人がいます目



起業ってそんなに流行ってるの!?たまたまえりもの周りに多いだけはてなマーク



 様々な職種があって、服飾系、遺伝子系、セラピスト系、衛星系・・・えりもは衛星系しかお話はこないけど、



他からも、何かしら相談されたりするんだよねヽ(;´Д`)ノ


政治経済とか超弱いのにさぁドクロ



 ただ聞いてほしいのかなぁ、そういった



起業すんだぜ( ̄▽+ ̄*)



って話をされやすいタイプなんだろうかあせるでも、えりも、社会の流れとかうといから~ナゾの人


 将来の旦那さんも、一般企業とかじゃなくて、不安定な生活の人になるのかもなってね・・・でも、最近は安定志向も消え去り、



今が楽しければいい、後悔ないくらい楽しみたいヾ(@°▽°@)ノ



 って思えてて、人生はゲームって感覚で(危ね~)、あれこれやっちゃうかもあせる



えりもなら、大丈夫(´∀`)




     日々邁進

 えりものことを古くから良く知る人ならご存知かもしれないけど、えりも、



勉強や仕事に関しては、挫折知らずでした(*^▽^*)



 27才まで、よくこれたねって感じだけどね恋の矢


・小学~大学まで、得意の数学と理科と、強運を武器に、

・ストレートでいい大学出て、

・衛星なんか作ってTVや新聞にコンニチワして、

・今の会社なんかスカウト同然の入社してさ・・・

・今年、皆が憧れる親会社の某部署に出向になって・・・


 改めて書くと、色々苦労もあったけど輝かしい経歴ね・・・



ここで、人生初の挫折をしそうなのガックリ出向先(出世街道)から、出向元の会社へ、辛さから逃げ帰ろうと思うビル



 原因は色々あるけど、



人間関係や環境とあまりに合わなかった叫び


自分らしさを押し込められる環境に入れられたY(>_<、)Y



 というのがあって、体調を壊してしまって、なかなか本調子で復帰できず、薬漬けの日々になってしまって、



何のために仕事しているのか、わからなくなってしまったの。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。



 やっぱ、色々考えたけど、えりもに決定的に不足していて文句言われたりしたのは「謙虚さが足りない」だけど、



納得いかないことは、したくない(◎`ε´◎ )


人への思いやりを持ち続けたい(人の痛みを無視して平気な人になりたくない)・°・(ノД`)・°・



 とかいう、自分らしさを何よりも大切にしたいって思って、今の環境からは離れることにしましたDASH!

出向は、えりもにとっては滅多にないチャンスで、行きたいところに運よく行けたって思いがあったから、なかなか決断できなかったハートブレイクでも出向先での配属がまずかった・・・ダウン



運が悪かったドクロ




 でも、出向した半年くらい、色々得たものはあったひらめき電球



衛星にこだわりがあったけど、何よりも大切なものは、自分らしさなんだってことに気付けたドキドキ


英語が必須になってしまい、個人レッスンの英会話で、すっごくウマの合う先生と巡り合えて、友達にまで発展して、視野や考え方がググッと広まって、人生に対する糧となるものが、かなり得られた合格



 先生から得たものは、このブログにうまくまとめてけたらなって思います音譜



 そう、色々得たからもういいんだよ、ねダウン大チャンスを棒に振るようだけど、いいんだよ、ねゴルフ




    日々邁進

 このテーマも最後になるが、少しでも人のためになるといいと思い、タイプします。

過去記事が4月くらいで、すっかりサボっててごめんなさいねあせる


 化学療法で完全寛解までなれなかった父は、骨髄移植の治療を取ることにした。まずはドナー探しから。ここで驚いたのは、ドナーは病院でもなく、自分自身や家族で探さなければいけない。そこで私達は、HLA研究所と言うところとコンタクトし、白血球の型を調べるキットを手に入れた。しかもこれはタダでもなければ、保険がきくとかそういうのでもなかった。


HLA研究所

http://www.hla.or.jp/



 限られた人数で、いかにヒットするか人を厳選し(メンデルの法則だし)、スワブという大きな綿棒のようなもので口内の細胞を採取し検査依頼に出した。幸運なことに、叔母と従姉のHLAが、父のHLAと一致していた。性格には従姉HLAは父のと良く似ていて骨髄移植OKというものだった。ウチの姉妹はヒットしなかったが、私と姉のHLAは一緒だった。



 父にはドナーが二人いた。叔母とは合致しているが、年齢的には従姉の方が若いので良い。結局、父も高齢だし合致した型の骨髄をということで、叔母の骨髄を移植することになった。骨髄移植とは、手術とかではなく、全て点滴のようなもので行われる。まずは、父の造血細胞を抗がん剤で完全に殺す。父は自力で全く造血できなくなるため、輸血で生活をする。もちろん無菌室で。そうして、移植の数日前から叔母が入院をして、健康診断を受けたり、健康管理を万全にする。



 移植当日、叔母から800ccの血のような髄液?を採取する。それをそのまま、無菌室の父の部屋へ持っていく。無菌室は、立ち入り禁止になった。医者と複数名の研修医で、800ccの液を父に入れる。父の造血細胞は、叔母の造血細胞になり、父の体は叔母の血を造るようになる。移植は成功した。



 移植後は、他人の血が体中をめぐるため、あちこちで拒否反応が起きる。幸い父はそこまで拒否反応はひどくなく、肝臓がちょっと調子悪くなったのと、体中が湿疹まみれになった程度で済んだ。



 父の容体も安定し、退院した。これは父の白血病が寛解したことを意味する。父は体力も衰え、家でゆっくり過ごした。再発に少し怯えながらも、父にとっては最後の自宅でのくつろぎを楽しんだ。



 そして、1か月たつか、それ以上か忘れたが、白血病が再発した。もう、打つ手はなかった。



 しばらく、延命治療が行われた。医者からは、「生存率」ではなく「寿命」を言われるようになった。その寿命は、3カ月、1カ月とどんどん短くなっていった。そして、父は肺炎を起こした。肺炎が風邪のウイルスの物なのか、癌細胞の転移なのか、その検査をする体力すら父にはなかった。父は、だんだん呼吸ができなくなり、ついにはモルヒネを打っていた。



 何度か、電話で「父が危ないから」と呼ばれることがあっては駆け付け、そういうのが何度か続いていた。



 ある朝、仙台のアパートから大学へ出勤するところで、電話が鳴った。「お父さん、死んじゃったから、妹を連れてこっちに来なさい」


 私は、出勤するその格好(赤の半袖、白のスカート)ですぐに妹を連れて駆け付けたが、紅白で行ったことを後に後悔した。



 一時間強の道のりを、妹と私は冷静に「今後どうなるのかな?」なんて話をしながら、車で向かった。



 ベットには、点滴も生命維持装置もない、すっきりした父が寝ていた。病院の服ではなくて、Gパンにシャツで、長い苦しみから解放されて、ゆっくり静かに眠っていた。なんだかビックリし過ぎて、涙すら出なかった。父のほおを触った。夏なのにひんやり冷たかった。叔母からもらった血は、もう流れていなかった。



おわり