藤子不二雄 マンガ考察
「あのロボットをうて」
作品情報
収録:『藤子・F・不二雄大全集 初期SF作品』藤子不二雄, 2012, 小学館, p211~244
★完全にネタバレあり、作品を読んだことを前提に書いています★
【疑問点が目立って気になる…】
収録されている他作品と比べて、あれ、つまらないな〜という印象。疑問点や引っ掛かる点が目立つ。まず、
①なぜロボットは人間に対する破壊行動に出たのか?理由が気になるが描かれていない
②そもそも博士はなぜ、あんな大量破壊兵器を作って、しかも個人所有してたのか?
(ロボット島が“呂保(ロボ)博士の”と言われていたことに加えて、ロボットの反乱が起こっても、博士が直接知らせに行くまで日本本土の軍部が知らなかった様子からそう判断される)
原因は博士にあるのに、博士は責任追求されず、それどころか作戦参謀の扱い
③原子力ロボットをダイナマイトで破壊するなんてとんでもない!放射線はどうするの??
他にも、
④小〜中学生くらいの主人公が、子どもだけでヘリコプターを操縦している
(操縦桿を握ってるっぽいので自動運転ではないよね?)
⑤博士が個人所有の(軍所有なら博士が乗る必要はない)戦闘機に乗って、子ども二人を乗せたままロボットと戦う
⑥ヘリコプターの破壊、戦闘機と船の破壊、に巻き込まれても主人公たちはかすり傷一つない
などなど。子ども向け作品なのであんまり気にしすぎても、とも思うのだけど…。↓
【物語の整合性について】
自論として、一般に物語中の整合性については、
「よく考えたらおかしいけど、物語の重要な流れには影響がない(むしろ一役買っている)」場合と、
「明らかにおかしい所があるせいで、物語中で何を描かれても感情的に入っていけない」場合との2パターンあると考えている。
要は実際に理論的に、どれだけ整合性が取れているか(もちろん、度を越した矛盾はどんな語り方でもごまかせないけど)よりも、ストーリーテリングの巧みさに掛かっているのだろうな〜、と。
一つ一つの要素ごとに、どれくらい物語の主軸に絡んでいるか、どれくらい「常識的にありえない」(と受け手に思わせる)か、という度合いが違ってくる。違和感の数が多いほど、また、たとえ一つの違和感であっても、物語の重要な要素を破壊するほど度合いが大きい場合、読者(視聴者/受け手)は感情移入できずにしらけてしまう。ちゃんと誤魔化さずに描いた方がいい要素と、そうでない要素との見極めが、作者の力量そのものなのだと思っている。
【この作品の最大の違和感はどこか?そしてなぜ?】
この作品、子どもが読んでも絶対気になる点…なぜロボットは反乱を起こしたのか?を物語から外してしまったのが残念。作者は、描きたいテーマとは関係ないと思ったのか?あるいは、あえて理由を明かさないことで、よりロボットに対する恐怖感を増幅しようと考えたのか?
前者の場合、反乱の理由が重要ではないと思ったのは、作者だけではないだろうか。反乱の理由によっては、主人公含め、人間側がロボットと戦う理由も変わってくる。素直に作品を読んだだけでは、単に人間の自衛のための戦い(勧善懲悪とも取れる)、ということになるだろう。だが例えば博士が、何らかの破壊計画のためにロボットを秘密裏に開発していた…とか、博士が軍部から依頼されて戦争用の兵器を作っていた(上でも書いたように、ロボットの襲撃を軍部は知らなかったので、その可能性は低そうだが)…とかだったら?その場合、倒されるべきはロボットだけで済まないだろうし、ロボットとの闘いは単なる自衛あるいは悪との戦い、ではない事になる。主人公や、特に博士や軍人が、どういう気持ちでロボットと戦っているのかが見えてこないので、必然として読者の感情移入が阻まれる。
後者の場合も考えられるが、その場合、物語の「語り」としては失敗している(要するに伝わってこない)。なぜかといえば、他の要素があまりにも安易(主人公と博士にとってのイージーゲーム)だから。この記事の最初に上げた違和感の数々から、いわゆる“ご都合主義”の作品であることは否めない。そこに敢えて「未知の知能(=ロボットの頭脳)による理由不明の反乱」という深刻なテーマをぶち込んだとしても、どうもそぐわない。(そこまで考えて無さそうだな〜と読者に思わせる。)
実際読んでいて、ここに書いたほど詳細に考える人はあまりいないだろうが、はっきり意識しなくとも、こういったことがぼんやりとした(言語化される以前の)違和感として上ってくる。結果として読者は「なんか、面白くない」という反応になる。
【良かったところもあるよ!】
不満点が先に目につくのでそれから書いたが、面白いなと思った点もあった。
❶藤子不二雄がロボット反乱もの!?
藤子不二雄のロボットといえば、もちろんドラえもんがまず頭に浮かぶが、この作品「あのロボットをうて」では、ロボットの反乱が描かれていて少し驚いた。SFとしてはもちろん、ロボットの反乱は典型的かつ古典的テーマなのだけど(※1)。ドラえもんみたいな、人間に親切でかつ便利な、人間のパートナーとしてのロボットを描く作者でも、ありがちなロボット反乱ものを描くのだなと。「ドラえもん」と、こちらの「ゴーレム」との描かれ方の違いはどういうわけだろう?
『ドラえもん』の連載開始が1969年なので、「あのロボットをうて」はその10年前(1959)の発表ということになる。航空隊でも歯が立たない巨大ロボットを、主人公の少年が命がけの機転で倒す…というヒーロー物語を描くために、(安易に)ロボット反乱ものに乗っかった、とうのが本音だろうと推測する。この作品でのロボットは、主人公が倒すべき敵としての道具立てに過ぎない。
ロボットが反乱を起こした理由が描かれないのは、この作品の主軸がヒーロー物語であって、ロボットの反乱の理由は、作者にとって重要ではなかったからだろう。『ドラえもん』までの10年間で、作者にロボット観の変化(※2)があって描き方が変わった…というよりは、単に物語内での役割の違いから、描かれ方が違うのではないか。「ドラえもん」は、主人公のび太と同等に物語の主軸となるキャラクター、一方こちらの「ゴーレム」は単なる役割としての道具、ということ。
❷腕だけで自律型ロボットに!
2つ目は、巨大ロボットの腕だけが自律して行動し、巨大な図体では入れない研究所の内部に侵入して来るところは、ちょっと「おお〜」と感心。体の一部だけが動き回って、しかも安全と思われる圏内で後ろから襲われる…これは怖いな〜と思わせてくれた。(ホラー映画とかでこういうのあるよね?)
❸原子力燃料を求めて行動するロボットって…ゴジラ?
ロボットの燃料が尽きて自動停止するまで、時間稼ぎをする…という作戦を立てたものの、ロボットが燃料のウラニウム(=ウラン)を求めて原子力研究所を襲う、というのはSFっぽく、納得いく展開。そりゃ〜ロボットだってまずは動力源確保だよね!この展開って『ゴジラ』もだよな〜と頭に浮かびました。ゴジラも動力源が核エネルギーなので、燃料確保のために原子力施設や廃棄物を求めて襲いに来てたはず。
「あのロボットをうて」総評: ★★★☆☆
ストーリーもキャラクターもあまりに安易だが、逆にいえば、描きたいことはシンプルで分かりやすい。知育という面も含めて、当時の子ども向けとしては合格点ではないかと。アクションシーンは痛快で、分かりやすくかつ上手い絵になっている。
(注釈)
※1「ロボット」という言葉の生みの親となった、チェコの作家カレル・チャペックの『R.U.R』(1920)でも、ロボット(金属とコンピュータで出来た今の「ロボット」のイメージではなく、むしろ生体から作られた人造人間)は人間に対して反乱を起こす。『フランケンシュタイン』の時代から『ターミネーター』まで、西洋の作家が描くロボット(あるいは人造人間)は、とかくプロメテウス的なテーマが多い。どこかで聞きかじった話では、「人間を作っていいのは神だけ」「魂を持つのは人間だけで、それ以外の生き物に魂はない」というキリスト教的価値観が根底にあるのだとか。人間が“知性を持つモノ”を作ること自体が罪悪であり、やがてはしっぺ返しを喰らう(天罰)、ということらしい。そういわれると、これってロボット(人造人間)が絡む物語では、本当によくみる展開だよね?
※2 今後、藤子不二雄作品を読み進める中で、他のロボットに出会う機会があれば、作者がロボットをどう捉えているかについて、もっと何かわかるかも…?