親鸞は聖徳太子を崇拝していたという。『勝鬘経義疏』(しょうまんぎょうぎしょ)は小生にとってじつに難解な本である。二回読んでも理解したとはとても言えないが、あきらかにこれはすごい思想家によって書かれたものであることは分かる。 聖徳太子が仏典『勝鬘経』を講じたのは、推古天皇が鞍作鳥に命じて、例の国産初の金銅仏を法興寺に納めたのと同じ年、619年(推古19年)であった。 続いて太子は『法華経』を講じ、天皇から播磨国に水田百町を賜り、そこからの収益でもって法隆寺を建てたと聞く。 今あらためて思うことだが、今われわれが読めるわが国の本でもっとも古いのは『古事記』ではないということだ。太子が著した三冊の仏教思想書は『古事記』より古く、また法興寺や法隆寺建造は伊勢神宮より古いということである。ついつい忘れがちなこの事実の意味するところは何か。民族は他者を受け入れ模倣して初めて己の何たるかに関する自覚と追求を可能にするということなのだろうか。太子が三義疏を書いたのは当時の漢文をもちいたのであろう。『古事記』が書かれたのは、それからちょうど百年後である。そして、『古事記』は、縄文・弥生の昔より祖先たちが育んできたいわゆる〈やまとごころ〉を表記するのに漢文を以てして可能であろうかという深刻な問題意識をもって書かれていることを、宣長が発見したのは、それからさらに千年後であった。こうは言ってはいけないだろうか。聖徳太子という思想家が衝撃を与えたことによって、民族の無意識の深い古層が亀裂から顕れてきたと。 にほんブログ村
昔男の流
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