昨日、遂に成人式を迎えました!と言っても3回目ですが(笑)
 

子供の頃は、還暦と言うとお爺さんのイメージでしたが、まったくもって元気です。
腕立て伏せをやってみましたが、35回!
まあ、それなりに立派ではないでしょうか。
家族もペロを含め(まあ、寝たきりですが)、皆、元気です。

仕事で多くの50代、60代のエグゼクティブ、マネジメントの皆さんとお会いしますが、活躍されている方々の特長はマインドが若く未来志向の人ではないでしょうか。
当然、良い目をお持ちですし、体への気遣いも怠っておられません。
経験、知識、人脈の豊富な50代、60代が若いマインドを持って健康であれば、“最強”だと信じています。

さて、これから4回目の成人式に向かってどの様に生くべきか?(後、20年は生きていそうな気がします(笑)を考えてみました。

その為に、英語とは全く縁が無いと決め込んでいた物理大好き人間が、最後は外資系企業のお手伝いをさせて頂いた今までの60年を振り返ってみました。

1回目の成人式まで。

奈良の田舎(近くに何あるの?って聞かれて、答えていたのが “法隆寺”です)で生まれ育ち、県立高校(勉強は兎も角も(?)、夏は水泳部、冬はラグビー部、陸上部とスポーツ三昧、生徒会活動、学園祭、体育祭など最高の仲間と楽しい事ばかりでしたので、この3年間は最高でした!)を卒業後1回目の成人式の時は同志社大学機械工学科の2回生(2年生とは言いません)でした。

今と比べて優れていた点は、体力(持久力と反射神経)、それとまあ、数学と物理でしょうね。半面、無かったのは、経験と英語力(自分の人生とは全く関係ないと信じていました(笑)

2回目の成人式まで。

大学卒業後、人事部長に口説かれ入った大阪の小さな会社で生産技術者としてスタート。
小さな会社なので色々な仕事をさせて頂くチャンスを頂き、技術士先生の指導の下、生産技術者としての基礎、エンジニアとしての基礎を徹底的に鍛えて頂き、3年目にアメリカ出張、会社初めての駐在員としてヒューストンに豊田通商さんと合弁で設立した販売会社へプロダクトマネジャーとして行かせて頂きました(給料も決まっていなかったのですが社長から“池島君、まあ悪いようにはせんから行ってこい”って言われて、、、待っていたのは英語の地獄、、、)。
こんなチャンスを頂いたのも、小さな会社のお蔭。大企業に入っていれば、無かったでしょうね。

更には、ECC天王寺校で教えて頂いたT先生のお蔭です。
何を思ったのか、フラッと入ったECCで出会ったのがこの先生。
英語検定1級、アメリカ留学経験、、、神の様な英語でした。
受験英語に嫌悪感を持っていた私が、会話英語に出会い、面白さに気づきました。

帰国後、退職、結婚し、親戚の会社を1年半お手伝い(なんと深夜トラックの運転手!、、、労働時間は月450時間、、とにかく年間休日が元日の1日でしたから今でいう過労死レベルを遥かに突破!)。が、学生時代に痛めた腰が悪化し入院の羽目に。

その後、回復し、“いつまでもこんな事やってられんなあ”と決心し、キーエンスへ。
ここが、(他の人の事は解りませんが私にとっては)天国の職場!生産技術出身の私にとってセンサー、測定器営業は楽しくて、楽しくて。長いと言われていた労働時間も、深夜トラック運転手に比べれば何のことは無い。

入社1年後にキーエンスアメリカでNJにコントローラーとして赴任。しかし、どうしても営業がやりたく上司に直訴しロス支店長として西部11州を担当。
なんと、初めての部下がアメリカ人!
英語もまともに出来ない日本人上司と働く彼らは(今から思うと)気の毒でしたね。

4年後、上司から“そろそろ帰国やで”の電話が、、、アメリカの魅力に取りつかれた私は辞表を出しに帰国。
当然、上司は激怒!!!
しかし、最後は送別会を開いて頂きました。

再び豊田通商さんで5年間お世話になり、ロスをベースにトヨタグループの現地調達比率アップのお手伝いの為、アメリカ中のプリント基板メーカー、半導体メーカーを探し回り、トヨタグループ各社のエンジニアの皆さんの通訳をさせて頂きました。

当然、ご接待も入って来るので、高級レストラン、ブロードウェイ(全員、熟睡されます(笑)、博物館(シカゴで人体標本のカットを見た後、晩飯をスキップしたのも懐かしい)、美術館、ユニバーサルスタジオ(仕事として20回は行きましたね)をお供させて頂き、役得! 
しかし、あの頃の英語力は何処にいったのでしょうか、、、、(笑)

30代はアメリカの時代でした。
個人的には29才で結婚、30才で長男誕生、32才で次男誕生。

3回目の成人式まで

40台に入り、日本に帰国し名古屋の北の小牧にあるセンサーメーカー(今は上場も廃止し、社名は消えました)の海外営業部長に。面接で常務から“池島さん、あなたの前には真っ新なカンバスがあります。自由に海外戦略を描いて下さい!”なんて言われて入社したのですが、松下電工さんに吸収合併される事になり、社長、役員、そして海外営業部長のポジションにも来られ、無念の内にヨーロッパ松下電工があったミュンヘンへ!

いや~~最初は嫌でした。周りは全員親会社の駐在員、、、竹千代の気持ちが良く解りました。
ところが、それまではアメリカバカだったのが、ヨーロッパの素晴らしさに出会えた4年半。

更に、我が家の新しいメンバーにミニチュアダックスのペロがやってきた~~~!
ミュンヘン中のペットショップを探したのですが、何処にも犬が居ない!!売っているのは犬関連のグッズだけ!そうです、ブリーダーに行かないとダメでした。
ペロと出会ったのがミュンヘンから200キロ近く離れたボーデン湖近くの田舎にある広大なブリーダー。沢山のワンコが広々とした敷地内を走り回っていました。ペロ、ようこそ我が家へ。

朝はマイナス20℃まで下がる事もある寒い冬を嫌がる人も居ましたが、スキー好きの私には1時間でオーストリアのスキー場に行ける環境は最高でした。
という事で、冬場の土曜日は毎週スキー三昧。
8時から12時までの半日券で休みなく滑り、クタクタになって帰る、というパターン。
その後、34日間、筋肉痛に苦しむ、、、、

帰国後、戻るポジションも無い40代後半の私に声を掛けて下さったのがスウェーデンの外資系企業。人事担当だった副社長には今でも感謝です。ここで、飲料製造装置販売の営業部長と紙容器のマーケティング本部長をさせて頂きましたが、気付かされたのが、日本企業と外資系企業の人財投資金額の大きな違い!何とまあ、多大な時間と費用を掛けてマネジメント育成をするのか?

今までは、“まあ頑張れ、何とかしろ!”が多かったのですが、きっちり教育されました(この経験と知識が今の仕事で資料作成の時など大いに役立っています)
同時に感じた強烈な危機感が“このままでは日本企業は負ける”という事です。この危機感が今の仕事に結びついています。

その後、ドイツのセンサーメーカーの営業部長と代表をさせて頂いた後、最後にお世話になった会社もスイスの外資系企業でした。

アメリカでMBAを取った強烈なスイス人オーナー社長からのご依頼内容がターンラウンド!
早い話が、何としてでも赤字を黒字にしてくれ!って事。
毎日、ネガティブな人達との格闘で、何人も降格、退職勧告、、、大変でしたね。しかし、今から思うとこの経験が今のワークショップでも役立っていますね。少々ネガティブな受講者が居ても“大したことない”ってね。(笑)
兎に角、立て直しの為、営業政策、マーケティング政策、人事政策、ありとあらゆることをやりました。既得権益にドップリ浸かっている社員には、鬼の様な存在だったでしょう。

ここで出会った、立て直しに苦しんでいた私を助けてくれたのが、私のエグゼクティブコーチであるコーチングの師匠(インディジョーンズによく似た日本に住むニュージーランド人)でした。
彼の教えが、大きく今のコーチングの基礎になっています。

3回目の20年は、ヨーロッパの時代!

独立して4年。
50代最後の大きなプレゼントは、長男夫婦が授かった初孫でしょう。
ペロも去年の9月から動けなくなり介護状態ですが、60才の誕生日まで頑張ってくれています。彼ももうすぐ16才。頑張れ。

最初の成人式の時は、何の経験も無く、知識もなく、人脈もなく。
それに比べると、経験、知識(内容は違いますが)、人脈は大きな財産です。
まあ、トラックの運ちゃんを経験したグローバルビジネスパーソンも少ないでしょう(笑)

最初に書いた様に、健康で元気な50代、60代は最強です!

これを活かせば、20才=>40才の20年間よりも、60才=>80才の20年間の方が楽しそうではないですか?
簡単な事です。戸籍年齢から40才引けば良いだけですから。

こんな事をワークショップ、コーチングでも話しています。が、キョトンとされる方と、 フムフムと頷かれる方に分かれます。

初めての外資系企業で感じた強烈な危機感を共有して頂けるエグゼクティブ、マネジメントの皆さんとの繋がりが少しずつ広がっています。
こんな皆さんの少しでもお役に立てればと思う、今日この頃です。

という事で、同年代の皆さん、これからの20年も楽しく生きていきましょう。