1回アメリカSGI各部合同記念研修会の

 

池田大作氏のスピーチより

 

 

 

 

 

1987.2.7 スピーチ(1986.11)(池田大作全集第68)

 

 

 

 

 さて海難事件で有名なのは、イギリスの豪華客船・タイタニック号の遭難である。その遭難事件は、当時、世界に大きな衝撃を与えたし、今なお、さまざまな形で語り継がれている。

 

 

 

 それは、タイタニック号が当時、科学技術の粋すいを結集し不沈艦といわれた客船であった。また、千五百人が一度に死亡するという、当時では想像もできない海難事件であったことにもよるだろう。さらに、生死の危機に直面した人間のおう悩、救助の時の人間性の美醜、藤など、数々の人間模様を描いた事件であったからでもあろう。

 

 ここで私は、こうした「生」と「死」の激しき人間ドラマを、仏法の眼からとらえ、話をしておきたい。

 

 

 

 

 

6  豪華・完全を誇ったタイタニック号が、イギリスのサザンプトン港を出港したのは、一九一二年四月十日の午前十一時四十分。まず最初の港・フランスのシェルブールに、同日午後七時に入港する。そして、シェルブール港を同日午後九時に出港。翌十一日の午後零時半に、アイルランドのクイーンズタウンに入港。同港からニューヨークへ向けて、大西洋へ運命の航海に出発したのが、四月十一日の午後二時であった。

 

 

 

 それは楽しく、優雅な処女航海であった。しかし、北大西洋上を三分の二ぐらい進んだ、ニューファンドランド島沖(北緯41度46分、西経5〇度14分)のところで、氷山に衝突。四月十五日午前二時二十分、千五百人の乗客らとともに沈没したのである。それは、処女航海の途について、五日後のことであった。

 

 

 

 

 

7  タイタニック号の所属会社は、イギリスのホワイト・スター汽船会社であった。またタイタニック号の建造規模は、総トン数が四六、三二九トン、全長二六九メートル、船幅二八メートル。船底より大煙突までの高さ五二メートル。三基で五五、〇〇〇馬力の機関をもち、二五ノットの高速で航海することができた。最大の自慢は、二重船底と十五の耐水隔壁をもっていたことで、不沈艦ともいわれた。

 

 それゆえか、救命用のボートは十八隻しか備えておらず、それでは乗船定員の半数にしか及ばなかったという。油断といえば油断であった。定員人数分の〇ボートを積むことが義務づけられるようになったのは、この教訓からである。

 

 

 

 さて、沈没の原因は、海面に出ている部分だけでも長さ約一〇〇メートル、高さ約四〇メートルもある最大級の氷山との衝突であった。このような大きな氷山は、この季節には珍しいものであった。氷山との衝突で船体に裂け目を作ったかあるいは穴があいたと考えられている。それは自慢の防水壁が役立つには、位置が高すぎ、そこから浸水が始まったとされてきた。

 

 

 

 

 

8  ところで、タイタニック号には、航海の途についた四月十日、思わぬ出来事があった。

 

 それは、お祭り騒ぎの中、サザンプトン港を出港したが、ドックを離れた直後、アメリカの定期船ニューヨーク号と、あやうく接触事故を起こしかけた。あたかも、未来の大惨事を暗示するかのようであった。

 

 サザンプトン港で、タイタニック号に乗船したのは、上級(一、二等)船客のみであった。そしてフランスのシェルブール港と、アイルランドのクイーンズタウン港で、移住者などの三等船客が乗船する。

 

 乗船者の内訳は、一等船客三百二十二人、二等船客二百七十七人、三等船客七百九人、乗組員八百九十八人の合計二千二百六人であった。

 

 このうち、遭難の犠牲者は、一説によれば千五百三人で、生還者は七百三人。生還者のうち、船客四百九十三人(全体の四〇%弱)、乗組員二百十人(全体の約二〇%)で、上級の婦女子や名士ほど多く助かった。三等船客では子供七十六人のうち救われたのは二十三人であったという。

 

 

 

 

 

9  タイタニック号は、当時としては、史上最大の巨船であり、世紀の豪華客船であった。ゆえに、ナポレオン一世の栄華を映すような贅沢ぜいたくな作りの寝室や、英国王朝風の船室には、数多くの名士や富豪がおさまっていた。

 

 そして、乗船客は沈没など予想だにしなかった。氷山との衝突が起きた時も上等船客の中には、飛び散った氷片を水割りウイスキーに浮かべて楽しんだ者もいたともいわれている。

 

 

 

 

 

10  人生には、いつ、どのような運命が襲うか分からない。交通事故や山での遭難など、長寿であるべき人生が不慮の死に出あうことも多い。