原発問題の解決を考える前に、原発の特異性を理解する必要がある。

まず、原発の実態は、これまでメディアを通じ広まった認識や
一般の人々が持つイメージとはかなり乖離したものであり
非常に不安定な技術、運用体制、社会情勢の中で
利用され続けてきた、という点である。

よく言われるように、原子力技術は「未完成」である。
通常の工業製品を作る技術、その学問領域は「工学」であり
「エンジニアリング」である。

原子力のエンジニアリングは貧素である。
なぜなら、失敗ができないからである。

エンジニアリングは理論体系を中心とする一般的な理系学問と異なり
経験則から得る知識の占める割合が大きい。
この経験則は「実験」という「試行錯誤」から得られるところが大きく
当然ながら「失敗」を繰り返し、その中で正解を見つける。
その履歴を記憶することで、「失敗しない方法」を体得する。

その「実験」が影響のないレベルなら良いが、そうでないレベル
例えば今回の原発事故のような「危機的状況」を試すことは
社会的に見て許されないものである。

とある権威ある学者が柏崎の原発事故に対し「代え難い貴重で歴史的な実験」と言い
マスコミにたたかれてしまったが、裏を返せば、
技術者にとっては失敗とはそれほど貴重な体験であり
原子力技術の抱える根本的な問題であるのだ。

「実験」できない原子力発電は「試せない理論」と他の分野からの「借りてきた知見」
そして「数えるほどしかない失敗事例」により技術体系を構築する他はないのである。


今回の事故は国際原子力事象評価尺度でレベル5~6というが
おそらく今後1ヶ月内にレベル7まで行くだろう。
しかし、L.7の事故はこれまでチェルノブイリ1件、L5まで含めても数件程度である。
それも数十年前の事故である。
数十年間も、安全性に対する実効性を十分に確認できないまま進めてきた
それが原子力技術なのである。


他方、時々爆発事故や汚染問題を引き起こしたり
有害物質、アレルギー問題などで目の敵にされやすい化学産業などは失敗が多かった分
プラントの安全管理やその運用管理技術は非常に高い水準である。
※それら失敗は必ずしも許容できるものではないが。
早期に公害問題を発生した鉄鋼業界、紙パルプ業界なども同様に高い環境管理技術を有する。

原子力も、他の技術と同様の開発条件が揃えばそれなりに確かな技術になり得るだろうが
その条件を難しくしているもう一つの技術的課題が「放射能除去問題」である。

放射能は放射線(アルファ線、ガンマ線、ベータ線など)を出す能力を指し
その能力を持つ物質を放射性物質と呼ぶ。
この放射線はより強い光ののようなもので、物質が崩壊したり
分裂したりする際に漏れでてくるゴミのような存在である。

放射線を大量に発生させる高エネルギー状態の物質である
ウランやプルトニウムを扱うにもかかわらず、その放射能を除去するということは
その崩壊効率を制御する、つまり核反応の物理法則を変える必要がある
大変な作業である。

また、一昔前に騒がれた常温核融合であれば、確かに放射能は少ないだろうが
低分子量になるだけ崩壊確率もその崩壊量も減るわけで
それはつまり通常の核反応ほどのエネルギー密度を達成できるとはとても思えない。
※通常の核反応とことなる物理法則である、というのなら別だが。

結局、現在の放射能の処理とは、放射性物質の遮蔽程度であるが
これは物質の遮断というより、熱を遮断する作業に似ている。

放射性物質を遮る事はなんとかできるが、さえぎったそれは熱がたまる様に蓄積し
徐々に放射能が増していく。
遮蔽物自体にも限界があり、それが続けば熱が伝わるように外部に漏れ出るし
かといって遮蔽物を除けば、熱が漏れるように拡散する。
結果、遮蔽物をどこかに保管し、放射性物質からの放射が収まる半減期を待つしかない。
しかも、早くて数十年~数百年のオーダーである。
※ヨウ素と同じくして観測されるセシウム137で20-30年程度

人間活動の周期を考えれば、それがいかに長いスパンかわかる。
今回の原発事故では被害範囲は数県に及ぶ。
その土地が利用不可能になる経済的損失だけ見ても
原子力によって得た経済的価値は吹き飛んでしまうだろう。

自分の下の始末もろくにできない技術が、果たして「完成された技術」であろうか?
原子力こそ次世代を支えるエネルギー技術だという技術者は
果たして今すぐ使える技術なのかどうか
もう一度その点を良く考えるべきである。


ちなみに放射線は太陽からも大量に発生しており、宇宙空間ではあたりまえ。
しかし、紫外線レベルにも耐えられない脆弱な有機系生物にとっては死活問題であり
それを防いでいるのが地球の大気である。

その大気組成を変化させることで問題となっているのが地球温暖化やオゾン層破壊であるが
地球規模でみれば大気層は非常にうすく脆弱で、その組成変化は当然ながら放射線問題にも影響する。
いわゆる「宇宙線」による被爆である。

しかしながら、一般的な環境影響評価では放射能問題は全くの別枠である。
公害から地球温暖化、果ては種の保存、そして経済性評価まで
環境影響の統合が試みられている状況にあっても放射能問題は別枠である。
にもかかわらず、日本では原子力はクリーンエネルギーとされている。

非常に過保護な技術なのである。
震災、そして原発事故。
未曾有の災害であり、東電や政府の行為はもはや悪意があるようにしか見えない。
しかし、実態を冷静に分析すればするほど、当事者が無能なだけではないか
という結論に至る。

情報公開のタイミングも、問題への対応も、全てが後手になりすぎている。
これが国民の不信感を招くとともに、対応の遅れを招き、状況を悪化させている。
現在の官僚体制、政治体制が非常時に機能しないことを
政府、政党、官僚、大企業の首脳は謙虚に認識し、猛省すべきである。

歴史的にみればどのような繁栄を成し遂げた国家であれ
遅かれ早かれその枠組みそのものが疲弊し
いずれ大変革の時を迎えることは避けられない。

それは仕方が無いことだとしても、日本で生まれ、当事者としては
それを黙ってそれを見ているのは非常に忍びない。
ただ、個人でできる事は限られており、力のなさを痛感し
なにかできないかと考えあぐねる日々である。

そこでまず、第一歩として、日本の将来に対する自分の考えを整理するために
ここに書き留めておこうと思う。


まず、今回の震災がこれまと異なる、最も特徴的な問題は
大規模な原発事故が発生してしまった、ということに尽きるだろう。
その対応は困難を極め、結果として震災対応に混乱が生じ
遅れてしまっている印象を受ける。

しかも、日本国家体制の悪い面が全て出てしまったように思う。
民主政権しかり、野党自民党しかり、東電しかり、官僚しかり、マスコミしかり。
日本の指導層のかかえる問題は、彼らの視点が「現実世界」という実態から
乖離してしまっているがために、緊急時に本当に必要な判断ができてない。
ゆえに効果的な対策が打てない。

このような乖離はなぜ生じるのか?
それは、日本が長らく安定期を経過した結果と思われる。

安定期において、指導層に求められる能力は「持続性」であり
持続的でない対策は良くも悪くも敬遠される。
※ここで言う「安定期」とは慣性としての安定期であり、定常的な成長・衰退期も含む。

つまり、指導層の対策が「効果がない」ことこそが求められ
「効果のある対策」を打てる者は指導者になり難い、ということを意味する。
危機管理時において「指導力」のある人材が指導層から淘汰されてしまうのである。


「日本は人材不足」という言葉を良く聞くが、そうではないだろう。
「有能な人材」が指導層からは淘汰されていて目立たない、ということである。
どの国でも「有能な人材になる素質」を持った人間はある程度の比率で存在する。
それを発現させる体制が整っているかどうか、が問題である。

ワンマン会社が急成長できるのは、小さなスケールの会社では
この自然淘汰の力学が働かないからであり
逆に大企業や官庁などはその力学が非常に強く働く。
「負の人材自然淘汰」とでも言うべきか。

その点、民主主義、というよりも選挙制度は、政治家を定期的に入れ替えることでるため
安定化社会における政権体制内での負の人材自然淘汰を弱める作用がある。

しかし、政権が変わろうとも、官僚体制は変わらなかった。
いや、変えられなかったのだろう。

一つは民主党の人材不足。
二つ目は自民党の人材不足。
三つ目は官僚の人材不足。
四つ目は経済界の人材不足。


もちろん、現政権担当者の民主党の力量不足は嘆かわしい限りだが
現実的な話をすれば、官僚体制の変革は数年以上はかかる問題である。
有能な指導者が指揮しても、明確な効果が現れたとしても1~2年
それまでは過渡期であろう。

この1年数ヶ月を見る限り、意欲に燃えた民主党の政治家は
自分が思うほどの力量、知見がないことにようやく気づいた
そんなところであろうか。
新人社員がそうであるように、挫折感を覚えているはずである。

そんな新人を襲った大災害。
もはや、右往左往するしかない。


では、自民党ならうまくやれたか?
いや、有能な人材が淘汰されている自民党とて同じである。
情報隠蔽が稚拙で分かりやすい民主党より
より上手に情報の隠蔽ができる
その程度の差しかないだろう。

民主党支持者も、自民党支持者も
政治家がなんとかしてくれる、という幻想を抱いているなら
捨てるべきである。

なぜなら、国を動かしているのは未だに官僚であるからだ。
そして、それを煽て、自分達(だけ)の都合の良い方向に
持って行こうとする経済界。

本来、官僚の上に立つべき政治家は、長い自民党時代に官僚の傀儡と化し
それを防ぐべき選挙制度自体が負の人材淘汰を行うものと成り果てた。
民主党は自民の官僚至上主義をかえるべく期待されはしたが
そのような選挙制度の中で結局選ばれる人材がどのような種類か
また、そのような人材に官僚制度を改革できるかどうか
結論を言うまでもないだろう。


本来、上層に立つ人間は、その役割を果たさねばならない。
人間の細胞は、目にあれば目に、手にあれば手に
口にあれば口になるように、その立場にあった役割がある。

人間の遺伝子が全て同じであるにもかかわらず
必要な場所で必要な機能を持つよう
自分の乗り物である細胞の形を変化させるように

人間により形成される社会も
それが正しく機能するためには
置かれた立場に相応しい働きをすべきである。

そうでなければ、その固体の機能は失われ死滅してしまう。

現在の官僚、経済界のトップは
果たして自分の役割を本当に理解しているだろうか?

そうでないなら、それは癌細胞に他ならない。

その立場にあるものは
その職責を果たせないことに対し
言い訳はできないのである。

自らの本来の役割を認識し
過去の失敗を真摯に受け止め
国民に謝罪をすべきである。

そしてその後、未来へ取り組む意欲を
国民の前でしっかりと示すべきである。