興味深く見ました。ODAダム撤去訴訟。

日本の政府開発援助(ODA)によるコトパンジャン・ダム建設で生活基盤を失ったとして、インドネシア・スマトラ島の住民8396人が、日本政府などにダムの撤去勧告や総額約420億円の賠償などを求めた訴訟。

昔から、バラマキと悪評の高かったODA。
お金だけ出せば良いといった日本の態度、と言われたODA。

このダムに使われた公費、実に300億。

個人的にはODAがどうのこうのと言うつもりはありません。
ある人にとってはとてもありがたく、ある人にとっては今回のようにとても迷惑になることだろうし。

援助をしたことで訴えられる。当時の日本は考えても見なかった事態。
でも援助を受けた住民は現実的に住むところを追われて困惑してる。
援助をした日本は満足してる。少なくとも良いことをしたと思っている。

1つの側面から見ると良いことでも、1つの側面から見ると迷惑。
援助や助ける、といったことには必ずついてまわる問題。

中途半端に助けることは長期的に、助けられた人のためにならない。
少しでも助けることは短期的に、助けられた人を救うことになる。

どちらが正しいか?どうあるべきなのか?
今回のコトパンジャン・ダム訴訟は、そんな根本的な問いかけをした裁判だったと思います。

判決自体にはあまり興味がないのですが、訴訟をおこしたこと自体にもの凄い価値があると思います。

考えるキッカケになったと思います。

恐らくここから言えるのは、もっと考えてあげるべきだったということ。
もちろんこのダム建設を重宝した人たちもたくさんいたはず。
でも訴訟をおこした人たちには理解が得られなかったということ。

様々な利害関係がある中で、そこに関わる人たちのことをもっと考えてあげれば、少なくとも対話ができ、理解が深まったはず。

今回の件に限らず、対話が少ないことで、コミュニケーションが取れない。お互いにとって良かったことでも、すれ違いが起きる。

日常生活でもこんなことはたくさんあるわけで、国レベルになったらもっともっと相手のことを考え、対話をするべきなんだろうね。

日常生活で毎日顔を合わせるくらい近くにいても対話できないこともあるくらいだから、国を越えていくと確かに大変。でも遠くからでも想うことはできるはずだし、先を見越して考えることはできるはず。真剣に相手を想うことはできるはず。

今回はそこが抜け落ちていたことによるすれ違い。
自分から何かをするときの参考に、大きな問いかけを受けたニュースでした。

P.S.
シンジュ君、無事小学6年生になったよ!
でも今回の件でちょっと不安になりました。
迷惑になってないだろうか?彼のためになっているんだろうか?と。
いつか会うことができたら聞いてみようと思います。