「自分は何のために生まれて来たのか

 繰り返し問え!」

 

 

これは、

僕の「人生のマスタープラン」

書き残した言葉。

 

 

 

ほかにもこんなことも書いている。

 

「あたかも今、2度目の人生を生きており、

 1度目の人生では、今、まさにしようとしているのと

 同じあやまちばかり犯して来たかのように生きよ。」

               ビクトール・フランクル

 

 

次のような質問も書いている。

 

「自分の銀行口座に20億円以上あり

 あと10年しか生きられないとしたら

 今やっていることをやり続けるだろうか?」

 

 

人生の意義についても

次のように、、、

 

 

「人が追求せずにはいられない幸福の形

 それは意義の追求だ。

 自分の最も得意とすることを知り、

 それを自分よりも大きな何かのために活かすことだ。

 意義は私たちの生活や意識の中心に置かれることになる。

 自分自身の内側から人生に意義を立てることでしか

 それを見出せない。」

 

 

 

「人間のおもな関心事とは、喜びを得ることでも、

 痛みを避けることでもなく、

 自らの人生に意義を見出すことなのである」

           ビクトール・フランクル

 

 

 

こんな言葉を振り返りながら、

僕は、毎朝「人生のマスタープラン」を見直している。

 

 

 

「人生のマスタープラン」とは、、、

 

僕の人生という”舞台”が

どのように終演するのかを書き記した

言わばシナリオのようなもの。

 

僕は、僕の人生において主役であり

脚本家であり、演出家でもある。

 

 

どんな舞台にするのか自分自身で決める。

自分自身の世界観を創造してゆく。

 

 

「人生のマスタープラン」

何を書くかは自由だ!

 

 

制限はない!

 

 

そして、、、

 

そこに書いた内容は

必ず叶うと信じて書く。

 

 

 

 

今日、誕生日を迎え

あらためて「人生のマスタープラン」全体を

見直してみた。

 

 

 

そしたら、、、

 

 

 

左脳的に、

現実的戦略を考えている自分がいた。

 

 

知らず知らずに自分に制限を与えていた。

 

 

また、

「こうあるべき!」という

思い込みもあった。

 

 

ちょっと小さく纏まって、普通すぎる。

「良い子」が書いた聞こえの良い

「理想の目標」みたいになっている。

 

 

もっとぶっ飛んでも良いと思う。

 

誰に、見せるわけではないので、、、

 

 

 

 

アンディー・ウォーホールは次のように言った。

 

「普通の人が理解できないことをやらなければならない

 やる価値があるものは、それ意外にないのだから」

 

 

 

 

 

ちょっと枠や制限を外して

もう一度、書き直してみようと思う。

 

 

 

 

僕が人生のマスタープランを書き始めたのは

4年前の3月ごろだった。

 

最初に書き始めた時は、A4サイズの紙に

数行しか書けなかった。

 

 

その後、パソコンの”Word”で書いて

修正したり書き足したりして来た。

 

氣付きや共感した文章を書き記したりして来たので

現在、37ページにもなる。

 

 

 

 

書いて来た内容を、

振り返ると、、、、

 

 

 

 

 

結果的に、書いて来た方向性へ

人生は飛躍的に変化して来た。

 

 

 

左脳的に書いた内容は、

その通りにならなかったものもある。

 

 

 

「それは本当にやりたかったことでは

 なかったのかもしれない。」

 

 

後から氣づいた。

 

 

 

すでにいろいろ取り組んで来たけど

僕が精力的に動き回れるのも、

あと10年ぐらいだと思う。

 

 

 

その10年で、

どんな意義を人生に見出すのか?

 

 

 

もう一度、真っ白な氣持ちで

書いてみようと思う。

 

 

 

そして、今日から僕の人生の

新たなる舞台の幕があがる

 

そんな氣持ちで

我が人生をスタートさせようと思う。