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詩が生まれ出るとき、詩人はおのずと音楽家になっている。高橋氏のことばを借りれば、「詩は音楽になる以外にどんな通路も持っていない」し、「詩を読むということは(自身が)音楽の状態になるということ」なのだ。詩と音楽は一つと言っていい。
 音楽的詩論集である本書は、萩原朔太郎、北原白秋、中原中也ら、音楽を愛し、自ら楽を奏で、詩に音楽を宿らせた10人の詩人をとりあげる。アマチュア音楽家としての側面にも光をあてながら、詩人の楽興から真のポエジーが「沸騰したやかんの湯」のように溢(あふ)れ出す場面の数々を、その場に居合わせるかのように体験させてくれるのだ。体ごと引きこまれる。
 例えば、ベートーヴェンの「皇帝」を聴いた宮沢賢治の体からは「霊的な雰囲気」が漂い出し、音楽の中に幻想的な表象を喚(よ)び出しつづける凄(すさ)まじい「音楽的デーモン」と化したという。その心象風景は『春と修羅』に結晶する。あるいは、バッハの協奏曲を聴いたとき、「真向から音楽が世界を鳴りとよも」した高村光太郎の心の動き。この曲を材にした詩「ブランデンブルグ」で紺青の空高く飛翔(ひしょう)した詩人は、智恵子との「言葉なきうた」の境界をついに超え、「元素智恵子」を書くに至った。著者はそう感じる。
 光太郎とは百八十度違う光景をバッハに聴きとり、それを詩にした詩人もいる。「バッハの夕空」を書いた尾崎喜八だ。「ドイツ・ロマン派ふう」と著者の評する憂愁のバッハ。むしろ向日性の明るい作風をもつ尾崎の「詩人以前の人間的生地」を高橋氏はそこに読みとる。氏には、彼らの詩だけでなく、その人間性の中にさえ、音楽が聞こえるようだ。こうしたヒューマニスティックな視点が詩論 を心地よくふくよかにする。本書にあげられた大詩人たちを大詩人たらしめていたのは、「音楽 」への愛だったのだと、読み終え て気づいた。
 詩の中の音楽 とはなんだろう。著者が探し求めてい るのは、詩、音楽、絵画 、あらゆる芸術に普遍の、人の心をゆさぶる元素のようなものなのではないか。