教えてもらったことを、
何度も頭の中でなぞっている。
これは大事な話だから、
迎合せず、
できるだけ現実に沿って考えたい。
亡くなった人の声が
本当に外から聞こえていたわけではない。
そして、
それを感じた自分が
弱かったわけでも、異常だったわけでもない。
この二つは、同時に成り立つ。
配偶者を失った直後から数か月、
人はときどき
声が聞こえたように感じたり、
夢と独り言の区別がつかなくなったりする。
助言や、励ましや、
見守られている感覚。
それは心理学では、
亡くなった人の人格が
心の中で再生される
ごく一般的な悲嘆反応だと言われている。
まだ一人で生きる準備ができていない心が、
支えを必要として、
それを「声」という形にする。
やがて、
悲しみが少し進み、
依存的な支えが要らなくなり、
現実と自立が戻り始めると、
心はふと気づく。
――この声は、自分の一部だったのだと。
そのとき、
切り離しが始まる。
怒りや、拒絶や、
極端な否定が出てくることもある。
ガイドのようだったものが、
突然、憎しみに反転する。
それは悪化ではなく、
回復に向かう途中で起きること。
そして、
声が聞こえなくなる。
それは、
外に仮託していた支えが
自分の内側に戻ったということ。
もう「声」という形を
取る必要がなくなっただけ。
大事なのは、
それを霊的なメッセージだと解釈しないこと。
意味を拡張しないこと。
追いかけないこと。
そこに踏み込むと、
回復ではなく、固定化になる。
今の状態を言葉にするなら、
悲嘆の急性期を抜けて、
現実に戻る途中。
生活は回っていて、
判断力も残っていて、
自分で考えようとしている。
それは、健全な側だ。
もしまた、
明確な声が聞こえたり、
命令や攻撃的な内容が続いたり、
日常の判断に影響が出るなら、
専門家に相談すればいい。
それは弱さではない。
早く頼った方が、楽な領域がある。
私は壊れていない。
取り憑かれてもいない。
何かに操られているわけでもない。
こうして
落ち着いて言葉にできていること自体が、
現実に戻ってきている証拠だ。
スピリチュアルについても、
正直、わからない。
統合失調という診断で
説明できる部分があることも否定しない。
でも、
それだけで切り捨てるには
粗すぎる体験があるとも感じている。
すべてを神秘にもしないし、
すべてを病理にも押し込まない。
世界のすべてが
スピリチュアルだとは思わない。
でも、
人間の体験のすべてが
完全に説明し尽くせるとも思わない。
説明できることと、
無意味であることは、別だ。
否定しきれない「何か」があるとしても、
それに
魂や霊という名前を
つけなくてもいい。
それは、
人が自分自身を超えた感覚に
触れたときに生まれる余白。
愛や、喪失や、
深い集中や、
祈りに近い状態。
宗教やスピリチュアルは、
その余白に
名前を与えようとした
試みの一つにすぎない。
だから私は、
決めなくていい。
あるとも、ないとも、
今は言わなくていい。
体験を
意味づけしすぎなくていい。
ただ、生きて、
感じて、
言葉にできるところだけ
言葉にしている。
それで、十分だ。
