7/8(火)は抗がん剤治療の日。
日帰りになって2回目である。
とにかく長い日なのである。
血液検査とレントゲンは現状維持。
良かった。
今回の抗がん剤治療までの空き時間は暇つぶしにアピタに行ってきた。
夫婦でスタバ!
帰りは前回よりも遅く17時頃終了。
当日はまだ気持ち悪くないみたい。夕食はくら寿司へ。
長女と次女も揃った。
家族揃っての外食はとっても嬉しい。
7/8(火)は抗がん剤治療の日。
日帰りになって2回目である。
とにかく長い日なのである。
血液検査とレントゲンは現状維持。
良かった。
今回の抗がん剤治療までの空き時間は暇つぶしにアピタに行ってきた。
夫婦でスタバ!
帰りは前回よりも遅く17時頃終了。
当日はまだ気持ち悪くないみたい。夕食はくら寿司へ。
長女と次女も揃った。
家族揃っての外食はとっても嬉しい。
初診の後の初めての通常診察の日。
この日は義従姉が来てくれて、一緒に診察室に入ってくれた。「主治医の圧」への対策である。
仕事の合間に?わざわざ来てくれたのである。
その義従姉のおかげで?、
この日の主治医は普通。
初回が強烈すぎたのかな。
ま、しかしながら妻は今も、主治医のちょっとした言葉に気持ちを振り回され続けているので、
やはり義従姉のおかげであろう。
またこの日は初めて、妻を車イスに乗せた。
病院の中を移動する際に。
これも義従姉に勧められて。
「病院なんだもん、患者なんだもん、しんどいんだもん、遠慮したらかんよ」
あぁ、妻は車イスに乗っていいんだ
というか、やっぱり妻は車イスに乗るくらいしんどいんだ
と、この時に改めて思ったのである。
車イスは、
身体的に明らかに不自由がある人
高齢者
しかダメなのではないかと思っていた。
というか、
車イスは私には遠い存在だった、今までは。
それはなぜか。
ひとつはもちろん、
現役世代の私たちが「まさか」という思い。
もうひとつは、
昭和な優先席表示問題もあると思う。
なんのこっちゃかというと、
昔の優先席表示は、ヘルプマーク関係の人は対象外だったんですよね。
そのイメージもあったりしてね。
古い表示
(高齢者と身体に障害がある人と妊婦子連れのみ)
新しい表示
(がん患者は真ん中の人に該当しそうでしょうかね、
あとヘルプマークと)
あとこの日はALK陽性を伝えられ、アレセンサを初めて処方されました。
「よかったですね」
と言われた記憶があるが、
何がよいやねん!肺がんやぞ!
と思った記憶があります。
その時は、よかったという意味が分からなかったのだが、確かに神様アレセンサ様ですね。
あとあと、突然出てきた義従姉さんですが、大変お世話になっております。感謝してもしてもしきれないです。
その方のお話はまた別途。
7/6は次女の吹奏楽部演奏会だった。
次女は中3。
おそらく夏の大会は観に行かない為、演奏を観る最後の機会でした。
この日の為に事前に入場申し込み。
夫婦で無事に観る事ができました。
しかし当日の妻はやや辛そうで、暑いのもあるのかな。
次女の中学校の順番は遅く、休憩を挟んで後半。
休憩時は一旦外に出てベンチで休憩。
分かってたら後半から来ればよかった
次女の中学校まで観たら帰ろうかな
などなど言ってましたが、最後まで観て帰りました。
最後の大合奏は、いつもの「宝島」じゃなくて、
「青と夏」でした。
宝島の方がよかったのにな。
ま、とにかく、次女の吹奏楽を観れてよかった。
うちの子じゃないけど雰囲気で。
23年6月16日以降、出社できておらず、テレワークで在宅勤務。
テレワークというものが一般化されたおかげで助かっている。
これだけはコロナのおかげである。
6月26日の病院の次の日の27日、
部長に報告。部下にも報告。
テレワーク越しに話した。泣きながら。
今もそうだが、妻の病気の事はなかなか他人には話せない。
辛すぎるからである。
涙が止まらなくなるからである。
この時はテレワーク越しだったからまだましだったかも。
対面で話してたら、もっと辛かったかも。
これもコロナのおかげ?
しばらくテレワーク勤務。
そして、
両親と義両親からのサポートを受け始めた。
当時は全く家事をやらない生活をしていた私は、生活が一変した。
まず最初は、両親と義両親からサポートを受けた。毎日、朝昼晩、のご飯。
両親は近くに住んでいる為、よく来てもらう。
義両親は隣市からの為、頻度は下げる。
フルサポートで開始した為、当然無理が来る。
毎日なので、両親はすぐに疲れ果ててきたのだ。
大丈夫だよって言ってるのに来るって言うからな。
ま、頼んだのはこっちなんだけど。
また問題はもう一つ起きていた。
うちの母の料理はまずいのだ。
それも極めてまずい。
父の高血圧の為なのか、とにかく薄味で塩分をほとんど入れないらしい。
父も、
「草食べてる感じ」
なのだが、まさに味がない。
しかし、カレーライスもハンバーグもまずいって、どういうことかな。
ということで、
妻が食べられなくて、ますます痩せていく。
病気で食べられないのではなくて、まずくて。
次女も嫌がって食べない。
両親は、毎日来てくれるが日に日に疲れていく。
そして我々は、日に日に食欲が落ちていく。
義両親のご飯は美味しいので助かってたんだけど。
あとさ、両親も義両親も、料理もってきてくれるだけならまだしも、食材も持ってきてくれるんだよね。
料理ができないって言ってるのに食材持ってきてくれてもさ、使えないしね。感謝なのだが。
おかげで冷蔵庫が満タンになって、
ゴミの日に毎回全ての食材を捨てるという、
この頃は、悲しいムダ家事が増えていたのである。
6/26(月)は初めてのがんセンター。
全体的な記憶はあいまいになっているのだが、
先生との初対面は、強烈な記憶として残っている。
ひと通り説明されたが、基本的には中央病院と同じなのだが、やはり話が入ってこない。
そんな中、ナイフのような先生の言葉が次々に飛んでくる。
「治る事はありません」
「余命は通常伝えていませんが伝えましょうか、データあるので」
「聞きたいですか?どっちですか?お伝えしましょうか?」
「ご主人にだけお伝えしてもいいですよ」
追い込まれて固まってしまう感じ。
圧迫面接を受けた感じ。実際に受けた事はないけど。
初めて、過呼吸を経験した。
息ができなかった。
以降毎回、
特に妻は、先生のナイフに斬りつけられるのである。
言葉のナイフについては、また別途書きたい。
妻が適応障害になった一因でもある。
がん患者、がん患者家族にとっては、
なんでもないような言葉もナイフに変わる。
そして午前中の診察の後、午後から検査。
何かに異様に待たされた気がする。
妻は座っているのも辛くて、長椅子で横になっていた。
そして、なぜか肺活量検査待ち。
肺がん患者だから肺活量検査をするのか?
普通の呼吸も苦しいのに肺活量検査をさせるのか?
疑問と不安だったが、やはり?手違い?みたいでやらなくてよかったみたい。
待たされて疲れ果てた妻。と私。
看護師さんから
「車いすをお持ちしましょうか」
と声をかけられた。
「大丈夫です」
と二人して断ったのだが、今思えば、大丈夫ではなかった。
妻は、車いすが必要な状態だった。今思えば。
だけど、車いすに助けを求めるという概念がなかった。
救急車の時と同じである。
どんな時に助けを求めてよいのか、分からないのである。
とにかく長い1日だった。
帰宅すると、私の両親が来ていた。
がん告知されたあの頃はしばらく、
私の両親、妻の両親に、家事等を手伝いに来てもらっていた。
妻は動けない。私は料理ができない。からである。
しかし今は頼んでない。あまり交流がない。
両親、義両親の件は、また別で書こうと思う。
また別途。