昨日までの2日間、亡くなった妻の祖母、つまり私にとっては義理の祖母のお通夜とお葬式に参列してきました。

 

祖母とは10年以上前からお付き合いがあり、私が10代の頃からとても良くして頂きました。

「よう来てくんなさったね」

「野菜がようけ採れたで、よかったらもっていってちょうだい」

「もう私も身体が駄目やで、なんもおもてなしもせんとすみませんなぁ」

 

お別れの儀式を通して、様々な記憶がよみがえってきました。

 

 

仕事柄、担当させていただいた多くの方々とお別れをし、その都度、故人とのを偲んできましたが、近親者との死別はまた一段と深く考えさせていただく経験となりましたので、乱文ではありますがまとめてみたいと思います。

 

 

祖母は享年88歳で、ここ数年は毎年のように夏頃になると熱中症のような症状で危篤状態となり、私たちが訪ねていっても誰か分からないぐらいに認知機能が一時的に低下していました。

それでも数ヶ月でまた元気に復活され、また畑仕事に精を出すような方でした。

年々、認知機能の低下と足腰のふらつきが目立ち、畑でよく転んでいたことを覚えていますが、同居する義父母も

「そこまでしてやりたいのなら、好きなだけさせてあげよう」

と、畑に行く道中の見守りや、時間帯、休憩時間なども試行錯誤しながら、ずっと見守り続けてくれていました。

 

本格的に介護が必要になってからも、排泄だけはトイレでとの祖母の願いを汲み、義父母が前後で支えながら、最期の最後まで歩いてトイレへ連れて行かれていました。もうじき3歳になる息子はその姿を見て、祖母の押し車を準備したり、それを一緒に持ちながら歩いていたという話を妻から聞いて、気持ちがホッコリとさせてもらった事もいい想い出です。

また、妻からは義父が懸命に介護する義母に対して、

「いつもすまんな。ありがとう。」

といった言葉をよく言うようになったとも聞いていました。

(私の知る限りでは、そんなことを言うようなタイプの父ではなかったと思うのですが。それほど、母が懸命に祖母を介護されていたのでしょう。)

祖母の介護という大変な経験を通して、夫婦の絆が深まったように感じました。

 

 

今回の入院は肺炎によるものでした。

かなり重度な状況であると主治医から説明を受け、私は今までの様子もふまえて、入院直後から延命治療についての意思確認を義父母に行い、また義父から二人の兄弟とも相談してもらいました。

幸いにも(?)、三兄弟の意思は

「今まで十分頑張ってきたから、なるべく苦しませたくない。」

との意思統一がなされ、また主治医もその想いに添って治療を進めて下さることとなりました。

結果として、約1か月半の治療期間を経て、祖母は安らかに永眠されました。

 

これまでも何度も書いてきたように、延命治療には正解・不正解はありません。

子供がまだ小さい、家族として少しでも長く生きてほしい、孫が成人するまでは何としても生きていたい。

積極的な延命治療を選択する理由は、人それぞれであり、命は何よりも重く、そしてかけがえのないものです。

最終的には本人とその家族が納得できる道を選ぶことが唯一の正解であり、そこに他人が口出しするものではないと考えます。

私たち医療従事者の役割は、本人と家族が納得する答えを出すために必要な情報提供を行い、なるべくなら本人の意識がハッキリしているうちに希望を聞いておくことです。

そして例え辛い決断をされても、本人家族にそっと寄り添い、その選択を最大限肯定することでなないかと考えています。

 

ちなみに、いちど延命処置を選択すると後から撤回することはできないとされてきましたが、ここ数年で医療の現場には変化が起きているようです。

NHKクローズアップ現代 【延命中止という新たな選択】

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3985/index.html

 

葬儀までの間、三兄弟が交代で祖母に付き添ってくれていたようです。

通夜の終わりに叔父と会話する中で、

「あまり眠れていないでしょう? 今晩だけでも代わりに僕が付き添いましょうか?」

と話すと、

「いや、もう最後やで。俺たちもお袋と少しでも一緒におってあげたいしな。」

とお断りされました。

いくつになっても母は母であり、いつかその日を迎えることが分かっていても、息子は母と別れるのはやはり寂しいんでしょうね。

この言葉に、仕方がないことと分かってはいても、生と死のわりきれなさが集約されていたと思います。

 

 

最近では、病院や施設から火葬場へ直行する直葬と呼ばれるものも増えてきているようです。

「宗教的な儀式を行わず火葬のみで済ませる「直葬」と呼ばれる形態が増えてきたのは2000年ごろ。経済的事情や宗教観の変化もさることながら、お布施や戒名料などの料金体系がブラックボックス化していたことに違和感を持っていた人も多かった証左だろう。メディアで取り上げられるとともに急速に増え、関東では20%以上が直葬という調査結果もある。」

http://toyokeizai.net/articles/-/175272

 

しかし、この記事にあるように、儀礼としての葬儀の価値観にまた変化が訪れているようです。

 

私も、今回の葬儀に参列させて頂き感じたことがありました。

 

私自身、過去に一度もお会いしたことのない故人(お世話になった方の親など)の通夜に参列させて頂いたことが何度かあります。

しかし、それは故人を偲ぶのではなく、お世話になった方への義理という側面が強かったように感じます。

しかし、今回の祖母の葬儀では、その時間を通して、祖母との会話などを思い出す機会となり、実感のなかった祖母の死を自分なりに気持ちの整理をする場にもなりました。

もうじき三歳になる息子は、お坊さんが読経されている間は退屈だったでしょうが、

「もう大(おぉ)ばぁとはお話しできないからね。今まで大ばぁに沢山あそんでもらって、たくさんお話ししてきたでしょ? 今はそれを思い出す時間だからね。」

と話すと、彼はまだ何もわからないなりに、何かを感じ取ってはくれた様子でした。

そういう意味では、祖母の死は、まだ幼い孫にも命を通して、何かを教えてくれたのかもしれません。

 

簡単にと言いながら、随分長くなってしまいましたが、上記に加えてこの機会を通して感じたことは、

従来女の仕事とされてきた介護に、男性も含めて家族ぐるみで関わることは、より一層かぞくの絆を深める機会になること。

私達リハビリテーション専門職は、本人に対するマンツーマンでの取り組み以外に、いかに家族を巻き込んでいけるかが、これからはとても重要になること。

つまり、リハビリテーションはただ元気になること、改善すること、再び社会に適応することのみならず、誰しもが必ず迎える死をも見据えた関わり方が、これからの多死社会においてはより一層その役割を強く求められること。

QOLやQOD(https://allabout.co.jp/gm/gc/466674/)

 

最後になりましたが、その命を通して、私たちに多くの気づきと教訓を教えてくださった祖母の安らかなる眠りとご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。