14日から16日まで、奈良を旅行した。前回記したように、吉野の桜を観るのが一番の目的だったが、他のところも、楽しみだった。初日は、法隆寺へ。1月に参ったのだが、その時はツアー旅行、見学時間は90分で、多くの国宝や重要文化財のある大宝蔵院や百済観音堂も大急ぎしか観られず、離れたところにある東院伽藍の夢殿にはとうとう行かれずに終わったので、今回は、たっぷり時間をとって見物した。修学旅行生の集団がやはり来ていた。分散して、観て回っていたが、ガイドにより、説明に濃淡があるようだった。宝蔵院では、六体の観音菩薩像が見ごたえあった。特に月光(がっこう)菩薩の表情とスタイルが優美だった。教科書に必ず載っているといってよい玉虫厨子が意外なほど大きいので驚いた。聖徳太子の絵図も多くあった。時代によって大きく異なるのが面白かった。やはり、幼い頃や少年時代の像により惹かれる。八頭身のスーパーモデルのような細身の百済観音が常時観られるのは素晴らしい(平成10年秋に堂が落成されてからだという、ただし昨年春は奈良国立博物館の「超国宝展」に出展されていた。僕も観に行って、30分ほど見惚れていた、360度どの位置からも観られたのだ、奈良博の並々ならぬサービス精神に万歳!)。

 

 

     法隆寺の五重塔を観ると心が躍る。
     広い境内に颯爽とした優美な姿を見せているためだろうか

 

東大門(地味だが珍しい三棟造りの国宝)から、玉砂の道を歩いて、八角円堂の夢殿へ。春秋だけ公開される秘仏、救世(くせ/ぐぜ)観音像を観る。堂内には入れず、外から観るだけ。残念ながら、暗いのと、自分の目が悪いのとで、良くは観られなかった。聖徳太子等身像とされ、写真でみると、写す角度により、表情が異なる。入江泰吉、土門拳、小川光三、辻本米三郎といった錚々たる写真家が撮っていて、皆目の付けどころが違う。月並みだが、archaic  smileをたたえた表情のものに僕は魅せられる。

 

 

 

 

 この夢殿の隣奥に、同じくarchaic smileで知られる菩薩半跏像のある中宮寺があるのを初めて知った。この寺は、聖徳太子の御母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の御願によって建てられた尼寺とされている。平安時代には衰退し、その後もたびたび火災に遭っている。しかし江戸時代に尼門跡斑鳩御所となる。現在の本殿は、高松宮妃殿下(2004年に薨去)の御発願により、落慶したもの。取り囲む池の周りにはヤマブキの黄花が彩を添えていた。国宝の仏像は、かなり近くで観ることができた。右足を膝の上に置いた姿勢で、右手の指先を軽く頬に触れるのは、人間をいかにして救済するか考えているのだという。帰りにこの像のポストカードを4枚購入した。何とも言えないポーズに何とも言えない微笑、頭のカワイイ肉髷(?)に思わず見入ってしまう。

 

 

         本堂の前に咲くヤマブキの花にとにかく魅了された

 

二日目はまず朝早く、桜井市にある大神(おおみわ)神社にお参りした。JR奈良駅から万葉まほろば線に乗って30分足らずで、意外に近いと思った。熊野の花の窟(いわや)神社とともに日本最古の神社とされ、御神体は、こんもりとした三輪山である(したがって、神社には本殿がない)。大和国一之宮であり、三輪明神とも称される。境内は広く、朝早かったので森閑としていた。

 

 

            大神神社 拝殿

 

拝殿に参った後、いくつもの摂社をまわり、一番奥にある狭井(さい)神社へ。三輪の神様の荒魂(あらみたま)をまつり、病気平癒の神として信仰が篤い。万病に効くと言われる「薬井戸」の神水をいただく。拝殿の手前には、三輪山登拝の入り口があった。この次に参るときには、登拝せんと誓う。

 

 

            薬井戸 紙コップが用意されていた

 

 

 

その後、久延彦(くえひこ)神社へ。『古事記』に登場する智慧の神様、久延毘古命(その正体は何と案山子)を祀る神社である。その境内を登っていくと、展望台があって、そこからは、飛鳥周辺の大和三山(香具[久]山、畝傍(うねび)山、耳成(みみなし)山)が見え、その向こうに、より高い金剛山、葛城山、二上(ふたかみ)山の連なりが眺められた。古の万葉人たちもこの丘に登って眺めたのだろうか、と思わざるを得なかった。後で調べたら、二上山は双耳峰で雄岳山頂付近には、悲劇的な最期を遂げた大津皇子の墓があり、桜の名所であるという、ぜひ来年登ってみたくなった。

 

     左 大神神社の大鳥居 その後ろが耳成山 右奥が二上山

 

9時頃、大神神社を去り、再び奈良市に向かう。4月10日から国立博物館で「神仏の山 吉野・大峯」展が開催されているのを旅行前に偶然新聞で知って、今回の旅行の目的にちょうど良いタイミングだった。ところが駅から歩いて行ったのだが、地図をよく見なかったために、ひどく遠回りをしてしまい、通常なら30分以内に着くところを、ほとんど倍の時間かかってしまった。まあ、それでも、奈良市街についていくらか詳しくなったから、良しとするか。

特別展 神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美― – 美術展ナビ

 

二度目の奈良博だが、東博よりも、ずっと高い評価点をつけたい気になる。まず、展示物に子供向けのわかりやすい解説があること。最初は僕も通常の解説を読むのだが、疲れてくると、堅苦しい(中には要領を得ない)解説を読むのが難儀になって、子供向けの方に目を移す、その方が要点が頭に入って良いからだ。二つ目は、今回それほど混雑していなかったので、問題なかったが、観る順序の誘導について、職員がやかましくない点だ。注意などを極力少なくしている印象を受ける。つまり、奈良博の方が東博よりも客の視点に立っているように思う。

 

この特別展について、感想を細かに記すのは省こう。この展の一番の「主役」は、何といっても蔵王権現だ。権現とは、仏や菩薩が日本の神々を仮の姿として現れたものをいう。修験道の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が吉野・金峯山で修行中に感得したという。その像は、右手を振り上げ、左手を腰に当て、右足を蹴り上げる姿をとり、顔の表情は憤怒で満ちているように表される。会場には、その像が50体(?)近く展示されていた。前回も記したように、吉野山が古来より桜の名所となったのも、役行者が蔵王権現の姿を、山桜の木で刻み、お祀りしたことが起源とされている。蔵王権現や役行者に対する信仰の証として、信者たちはずっと桜を植え続けてきた。つまり、桜は蔵王権現の神木なのである。苛酷な大峯修行を二度も果たした西行が桜をことに愛でたのも、単に桜の開花の美しい光景を称賛したのみではなく、宗教信仰上の意味も深く感じていたのだ。

 

 

      唯一撮影を許された、ロサンゼルスから里帰り!したもの

 

博物館を出ると、雨が強く降っていた。公園内にたくさん群れている鹿はずぶ濡れのままで、木陰に隠れようともしていなかった。いったん、近くのバスセンターに入ると、修学旅行生が大勢いた。外では、バスが次々と到着し発着していた。雨はやみそうにないので、思い切って駈け出した。宿泊先までは15分ほどだった。

 

最終日、吉野へ。当初は、二日目に予定していたのだが、午後雨の予報が出ていたので、三日目にしたのだ。宿をまだ暗い5時15分前に出て、近鉄奈良駅発5時7分の電車に乗った。2度乗り換えて、吉野駅に着いたのは7時5分。降りた客は10人に満たなかった。ロッカーに荷物を預けて、7時16分、ロープウェイ駅脇をスタート。七曲の車道ではなく、近道を通って、7時48分金峯山(きんぷせん)蔵王堂に着く。隣の仁王門は工事中だった。道はバスも通るのでずっと舗装されていて、歩き安かったが、何か味気なかった(登山道のような道が別個にあると思い込んでいた)。寺院が多くあるところまでは、道の両脇に食事店や土産店が並んでいた。だんだん坂もきつくなって、吉野水分(よしのみくまり)神社の鳥居に着いたのが8時41分。そうだ、肝心の桜のことを書き忘れていた。途中、地元の人と話す機会があって、今年はもう、下、中、上の千本の桜は散ってしまい、葉桜とのこと、奥千本も散り始めているという。写真で良く紹介される山肌一面に桜が咲き誇る光景(いわゆる「一目千本」)は全く見られないと聞いて、がっかりしたが、ともかく青根ヶ峰(857.9m)まで行くことにした。金峯神社(756m)に着いたのが9時11分。ガイドブックによると、吉野駅からこの神社までが1時間50分ということだから、ほぼ時間通りに歩けたといえる。

 

 

            蔵王堂

 

ここからは、舗装道を離れて、登山道になった。最初、暗い森の中の急坂を上った後、急な下りに。左手は切り立った崖が続き、臆病な僕はおそるおそる下る。途中から右側に手すりがあり、ほっとする。にわかに視界が開け、山の斜面には、桜の花が最盛期は過ぎたものの咲き残っていた。後方には、山の峰々が青く連なり、この日一番美しい光景が広がっていた。急な坂を下る恐怖感と、前方に広がる素晴らしい景色を観ての高揚感。そして下りきったところの台地にあったのが簡素な西行庵。その中には、西行の像があった。修行にじっと耐えているという表情を浮かべていた。こんな山深くの谷あいに3年間もこもっていたという。しかし、ここから、桜は無論のこと、秋の紅葉を愛で、また春のおぼろ月や秋の澄み切った月に心奪われて眺めたのだろう。この秋、紅葉シーズンの京都を訪れる際、ここにも絶対再び来よう、と誓った。

 

 

 

 

 

 
 

 

そこからは、割と緩い坂を進み、今も水が湧き出る苔清水を通過して、旧女人結界の碑があるところに出る。右に進めば、山上ヶ岳に至る。クラブツーリズムの団体が来ていた、皆年配の人たちだ。左手の階段を一登りして、青根ヶ峯に達する(10時8分))。ここは展望が聞かない。またこの付近は、樹間を抜ける風がひんやりとして、肌寒いほどだ。

 

 

 
 

もと来た道を引き返して、眺めの良いところで、おにぎり2個の昼食をとる。ここの山斜面にも、桜が咲き残っていた。ぎりぎり何とか間に合ったといえるかもしれない。その後、どんどん下る。登ってくる人に大勢すれちがう。吉野水分神社境内に入る。この神社は、別名、子守宮(こもりのみや)と呼ばれ、豊臣秀吉が子授け祈願し、秀頼を授かったことから、秀頼が社殿を再建した。桃山様式建築の三殿一棟造りで、本殿や拝殿などは国の重要文化財。ここの桜も散り始めていたが、舞い散る桜花と格式のある建築がマッチして何とも言えぬ風趣があった。境内は狭いので、吉野山が一番にぎわう頃は、ここもごった返して、風情もあったものではないだろうと思い直し、この古式豊かな神社に今日初めてお参りできてよかったのだ。

 

 

 
 

 

 

その後、道の両脇に食事店が並んでいるのを見ているうちに、お腹が空いてきた。豆腐専門料理店に入り、豆腐づくし膳と生ビールを注文する。胡麻豆腐がとびきりおいしかったので、土産にした。お腹を満たして、少し歩くと、蔵王堂の大伽藍が見えてきた。御朱印をいただく。秘仏本尊で、青くすさまじい形相の蔵王権現像の特別拝観を催していたが、料金が割高なことと、時間の余裕もあまりなかったので、止めにした。帰りは七曲りの道をたどり、駅に戻った。駅前には、多くの観光客が電車待ちをしており、インバウンドの姿も目立った。 

 

初めての吉野、一目千本の絶景は目にすることができなかったが、良い旅ではあった。                  

 今度の水曜日に、吉野に旅行を予定しています。実は2,3年前から、漠然と吉野山に行ってみたいと思っていたのですが、優先したい旅行先があって、なかなか実現に至りませんでした。先日、You Tube動画を視ましたが、かなりの混雑のようで、バスやロープウェイに乗るのも、長い長い行列に並ばねばならず、歩いて奥千本まで行こうと考えています。

 

「一目千本」と呼ばれ、吉野山の山肌を覆いつくす桜の種類は200種、3万本と言われます。吉野がなぜ桜の名所になったかというと、この地に誕生した修験道(山岳信仰と仏教が結びついている)と大きな関りがあったからだと言われます。吉野山観光協会のHPによると、「吉野山の桜は、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)が、修行によって日本独自の仏である金剛蔵王権現を祈りだした時、その姿をヤマザクラの木で刻みお祀りしたことが起源だと云われています。蔵王権現や役行者に対する信仰の証として、信者たちによって植え続けられて来た桜の木は、今もひとびとの目を楽しませてくれます。」とのことです。平安時代には、桜の名所となっていたことは、『古今和歌集』に

 

み吉野の 山辺に咲ける 桜花 雪かとのみ あやまたりける 春上 紀友則

 

からも分かります。この歌では、桜が咲くさまを雪に見立てているわけです。吉野が奥深く雪の多いところと知られていたからこそ、この見立てが功を奏しているわけです。

 

和歌では、遠くに望む山に咲き誇っている桜を、古来は「雪」よりも「白雲」に見立てる方が多いそうです。

 

 白雲と 見ゆるにしるし み吉野の 吉野の山の 花盛りかも 『詞花和歌集』春 大江匡房(まさふさ)

 

〈白雲がかかっているように見える吉野山よ。それでよく分かる、吉野の山は桜が花盛りなのだ。

 

藤原俊成の代表歌とも評される次の和歌も、この見立てに基づいています。

 

 面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峰の白雲

 

これは、「遠尋山花」(遠くまで山の桜花を尋ねる)という題で詠まれたもので、俊成二十代の大傑作。若き俊成の浪漫精神が感じられますね。「峰」は吉野の山とは限りませんが、そう考えても差し支えないでしょう。渡邉裕美子氏の鑑賞文が素晴らしいので引用します。

 

山の峰を遠く眺めやると、桜が満開のよう。桜の面影に導かれて尋ねてみると、実はそれは白雲だった。落胆しつつも前に目を遣ると、また先の峰には白雲がかかっている。桜かもしれないと思うと、やはり尋ねずにはいられない。何度も何度もこれを繰り返して、いったいいくつもの峰を越えてきてしまったのだろう。峰にあるのは花と見まごう白雲か、白雲と見まごう花か。  

                     『コレクション日本歌人選 藤原俊成』(笠間書院)5頁  

 

吉野に桜とくると、どうしても挙げずにはおけない歌人がいますね。そうです、西行です。西行というと、各地に自由気ままに旅をして、桜の季節には、花をこよなく愛でた風流人というイメージがありますが、一昨年に刊行された、寺澤行忠著『西行ー歌と旅と人生ー』(新潮選書)を読んで、この大歌人が、荒行で知られる大峯(おおみね)山で修行した修験者でもあったことを知り、見方がすっかり変わりました。筋金入りの修行僧だったのです。それから、西行の出自の佐藤家は、経済的に相当豊かであったことも。名歌を数々生んだ背景に、経済的バックボーンがあったのですね。

 

 西行が吉野山の桜を詠んだ歌を二つ挙げて、締めくくりとしましょう。訳も同書からです。

 

 吉野山 梢の花を 見し日より 心は身に 添はずなりにき

 

 (吉野山に咲く梢の桜を見たその日から、心は桜にあくがれでて、身に添わなくなってしまったことだ)

 

 吉野山 こぞの枝折(しを)りの 道かへて まだ見ぬかなたの 花をたづねむ

 

(吉野山の昨年つけておいた道しるべの道を変えて、まだ見ていない方の桜を尋ねることにしよう)

 

「枝折リ」とは、山中に深く分け入ると、帰りの道が分からなくなるため、帰途の目印として、枝を折って道しるべにしたもの、とのこと。桜花に憧れる心が、新たな旅に駆り立てるということでしょうか。

 

               桜情報 - 吉野山観光協会【公式サイト】

                 吉野山観光協会HPより

 

 

 

 

 

 

 

  僕の住む地域でも、桜の花が散り始めています。桜の花が開いているときは、何故か雨だったり、風が強かったりして、開花中ずっと晴れていることは稀のようですね。散りやすいからこそ、余計に、桜花を愛でる気持ちが強くなるのでしょう。再来週、念願だった、吉野の桜を観に行きます。和歌にも数多く詠まれた吉野の山桜は一か月以上楽しめるということです。和歌を学ぶようにならなかったら、吉野に行きたいという気持ちも生まれなかったでしょう。当日、嵐のような悪天候にならなければよいのですが。 

 

 

                             今朝、ジョギング中に撮ったもの。菜の花も負けてはいません

 

もうひとつ、うれしい報告をさせてください。8月の最終日曜日に開催される北海道マラソンにエントリーできました。15年ぶりの参加です。初めての参加から12,3回目までは4時間で、残り2回は5時間の時間制限があり、暑さも大敵でした。今回は6時間で走れればよいので、何とか完走できるかなと思っています。まさか、70歳を目前にして参加しようなんて意欲があるとは、若い時分は考えてもみませんでした。毎日早朝のジョグを始めて7か月半、20代の頃よりも、気力もメンタルも充実してきました(しかし老化現象は容赦なく襲ってきています)。 

 

***

 

次に、A百首の桜を詠んだ七首の歌群の末尾にある和歌を取り上げよう。


  残りゆく 在明の月の もる陰に ほのぼの落つる 葉がくれの花

《歌意》明け方の空に残っている有明の月の光が洩れている間から、ほのぼのと落ちる、葉陰の花よ

 桜花が散っていくことを詠んだ歌だが、歌群の先頭の歌「花はいさ…」との共通点がお分かりになるだろうか。ヒントは在明の月。在明の月というのは、夜が明けて、空に残る月のこと。そう、両者とも夜が明けて、淡く、ほのかに明るい時が、選ばれていることである。「在明の月」、「在明の空」、それに「あけぼの(の空)」といった詞は、正確に数えたことはないのだが、式子の和歌には十回を超えるほどよく用いられている。くどいほど繰り返しているが、「ほのか」は、式子の美意識を端的に表すものであり、和歌において「ほのか」な美的世界を創り出していることが、内親王の虚構の叙景歌の大きな特色となっている。
 

 この和歌をより深く味わうためにも、語釈をしておこう。「もる」は月の光が「洩る」(洩れる)であると同時に、月光に包まれてという意味の「守(も)る」という掛詞になっており、淡い月の光に包まれて、桜の花びらが散るという、美しい光景が描かれている。
 

式子ならではの先例のない表現「ほのぼの落つる」がこの和歌の要だろう。「ほのぼの」は、ほのかに明るいさまを意味する語であり、「おつ」(落ちる)とは通常結びつかない。しかし、木の間を洩れる、ほのかな月光に包まれて、花がはらはらと落ちるさまを「ほのぼの落つる」と捉え、(内親王が愛用した)縮約表現をしたのではないか、と思う。常套表現に飽き足らず、新風表現を開拓することに日々精進した成果と言える秀句と言えないだろうか。「葉がくれの花」は、葉陰に隠れている、わずかな花で、〈もののあわれ〉を一層感じさせる。

 式子内親王の和歌に接してよく思うのだが、この和歌をもし絵画にしたら、淡いながらも何とも幻想的な美しい光景の絵となるような気がする。この和歌にも、内親王が、無常にあっても、美の瞬間を見出していく姿勢を感じ取れる。

 

では締めくくりとして、次の歌を読解しよう。

 

 花は散り その色となく ながむれば むなしき空に 春雨ぞふる 
                                                        新古今和歌集 春下 一四九

《歌意》花は散ってしまい、なんということもなく、物思いしてながめていると、何もない空に春雨が降っている

 この和歌は、死の前年、それも半年ほど前に詠まれた『正治百首』に入っている、即ち、最晩年の作ということになる。これもまた、式子内親王の和歌のアンソロジーを編むとしたら、絶対に落とせないものの一つだ。一度読むだけで、桜の季節が終わって、放心したようにひとりたたずみ、虚空を眺める内親王の姿がありありと浮かびあがる。
 

しかし、この歌の解釈は、吟味してみると、意外にかなり難しい。どう解釈しているのだろうと、諸書をいろいろと参照したのだが、その解釈は細かい点でみなそれぞれ一致していない。無常感が根底にあるということは確かだと思うものの、末句の「春雨ぞふる」をどう捉えたらいいのか、確かなことは分からない。
 

 だが、いつも思うことだが、秀歌というものは、一義的に解釈できないし、すべきではないと考えている。このような奥行きの深い歌は、さまざまな解釈を許す(勿論、全く見当はずれなものは論外だが)のではないだろうか。
 

この歌は、確かに春の歌というのは間違いないが、惜春の歌とは言えないだろう。それよりか、もう余命いくばくもないことを意識している内親王の心情が透けて見えるような歌と感じる。ある本に「花が散ったのちのやるせない情感をしっとりと詠じた歌」という評があり、この評が比較的僕の感じ方に近いと言えよう。
 

順序が逆になってしまったが、歌の趣意をなるべく正確に把握するためにも、語釈を添えよう。最初に第二句の「色」だが、この語は、奥野氏の語釈の通り、仏教語としての「色」、「色即是空」というように、あらゆる物質的存在を指す。しかし、これだと哲学的すぎる解釈なので、ここでは漠然と「もの」を意味すると考えるのがよいだろう。どうして仏教語の意味なのか、といえば、下句の「むなしき空」も仏教語、漢語の「虚空」による表現で、「何にもない空」を意味するからで、式子内親王の周到な詞遣いがこの和歌でも発揮されている。最初にこの和歌を読んだとき、この「むなしき」が、作者の空しい気分を表している、と単純に考えていた。虚空が、作者の心象風景とみなせるならば、桜花が散った後のどこかうつろな気分を投影していると考えてよいのではないだろうか。
 

「ながむれば」は、もう何度も繰り返しているが、式子内親王が愛用する表現で、単に眺めるということではなく、物思いに沈んで、心が内に向かう、内省するといったニュアンスがある。「ながめ」が「長雨(ながめ)」とよく掛けて用いられ、ここでも「春雨」とよく響きあっている。                                         

 

結句の「春雨ぞふる」をどう受けとってよいか解釈がさまざまに分かれている。『全釈』の奥野氏は、

  

 はるさめの ふるとはそらに みえねども さすがにきけば のきのたまみづ
                          宮内卿 三百六十番歌合 
の例をその他二つの類例をともに挙げて、春雨が、空に降っている状態では、目に見えぬものとして、和歌では詠まれると指摘している。そうなると式子の歌では、空には見えないはずなのに、春雨が降っているとはっきり認識していることになる。矛盾するような、意表をつく表現を好む式子らしさが感じられる。僕には、目には見えないものの、確かに存在していると強く感じているような気がしてならない。
 

 後から、春雨について考えをめぐらし、こうも思ったりした。春雨は、春に降る雨の中でも、特に細やかにしっとりと降る雨を指す。桜花が散った後の空虚感に潤いを与えるような、うつろな気分を慰撫するような、優しい慈雨のイメージを、式子が表わそうとしたのではないか、と。まったく見当違いな解釈かも知れないが、単に無常感を吐露しただけとは到底思えない。 

 

この歌は桜を詠んだ歌だが、「桜は散りて」と詠み、花の姿はない。平井啓子氏は、この和歌の評釈で、新古今時代の美意識についてふれ、興味深いことを語っている。 

 

 新古今時代になると、従来の美意識に加え、何もないものに関心が集まり、否定的な美を好むようになっていく。この歌にはその傾向がつよくあらわれている。散っている花を詠むのでもなく、散り敷いた花をよむのでもなく、散って跡形もなくなった状態をみつめてうたうのである。花をうたって花はない。花の残像が残る空に美を見出す。あくまでも花の歌でありながら、花はないのである。

                      (『式子内親王』コレクション日本詩人選 笠間書院 14頁)

 

この評言に接して、この歌は確かに新古今調の精粋のような歌だと感じる。定家の有名な秋の三夕の歌の一つ、

 

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

 

 と通じるものを感じる。新古今時代の歌人は、もう従来の美意識にしがみついてはいない。新たな情趣に美の境地を見出していくのだ。 

 

 

 

 

    前回の和歌は、春霞と桜の開花を組み合わせて、式子内親王にとっての美の光景を詠んだものである。順序は逆になってしまったが、内親王が春霞のわたる光景をこよなく好んでいたか、よくわかる和歌を挙げておこう。

 

          春ぞかし 思ふばかりに うちかすみ めぐむ梢ぞ ながめられける

 

《歌意》本当に春ですね。十分なほど春らしく霞渡って、芽を出し始めた梢が眺められる

 

 A百首7番にある歌。春霞がうちわたる光景に春が来たことを喜び、心が弾んでいるのが初句からしてよく表れている。春の景色を詠もうとする際、式子は、霞を抜きにすることは考えられなかったかもしれない。

 

 ここでちょっと、古今集の中で春霞と桜花を組み合わせて詠んでいる和歌を挙げて、前回の式子歌と比較してみよう。

  春霞 なにかくすらむ 桜花 ちるまをだにも みるべきものを 
                                                  古今和歌集 春下 七九
《歌意》春霞よ、どうして桜花を隠すのだろうか。花が散る間でさえ、風情が
あって見るべきものであるのに。

 

 紀貫之の名歌で、春霞に包まれてしまい、桜の散る様子ー落花の時でさえ美しく、風情があるーが見られず惜しむ気持ちを詠んだものだ。はらはらと落ちる花の美の瞬間を春霞が邪魔立てしているというわけである。悪く言えば、春霞を「邪魔者」に仕立てて、この優れた歌人は落花の刹那なる美を際立たせる狙いがあったのかもしれない。

それに対して、式子内親王の和歌では、春霞、桜花のどちらが欠けても、美しい光景は成り立たない。両者とも主役というわけである。新古今時代の歌人は、範となる古今集の歌人に単に追従せず、新たな美をそれぞれ追い求めたが、式子は、霞む景のうちに美を追求したと言えよう。

 

 次の桜を詠んだ和歌はさらに、内親王が好んだ、曙の時が加わっている。

 

  花はいさ そこはかとなく みわたぜば 霞ぞかをる 春のあけぼの

《歌意》桜花は咲いているのかどうか分からない。何処というわけでもなく見渡すと、霞が漂い薫っている、春のあけぼのよ

 

 A百首11番の和歌。これから17番まで桜花の歌が続く。しかし、この和歌では、桜花は主役の座を降りている印象が強い。それは初句から「花が咲いているかどうかわからない」と関心がほかに向かっていることも示されている。

「そこはかとなく」といった曖昧さを意味する詞を式子は好んで用いているが、愛読した『源氏物語』にも霞や曙の風景描写にこの語がよく使われる例があり、参考になろう。

 

 はるかに霞わたりて、四方の梢、そこはかとなうけぶりわたれるほど  「若紫」巻

 明け行く空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなく囀りあひたり     (同上)

 

第四句「霞ぞかほる」がこの和歌の要といってよいだろう。この(音に香りを感じるといった)共感覚的な表現である秀句を、「不思議なことに薫るはずのない霞が薫っているよ」の意と『全釈』の奥野氏が見事な語釈をしている。同様な例では、以前、梅を詠んだ歌で、「面影かほる」という卓抜な詞を思い起こしていただきたい。

 

 結句の「春のあけぼの」は、勅撰集『千載和歌集』からよく見られる詞だそうだ。新古今時代の歌人が愛用した詞だが、式子の場合は、夜が白んで、ほのぼのとあけてゆく頃はことのほか個人的な思いのこもった時と言えよう。「あけぼの」と詠んだ時、いろいろな思い出(特に初めての賀茂祭の時)や想念といったものが浮かんだと言えばよいだろう。

 

 この和歌を桜花の歌というのは、ちょっと違和感があるような気もする。この歌では、主役は明らかに「霞」であって、桜は影がうすいと言っていいかもしれない。桜を詠んだ歌群の先頭にありながら、桜が主役ではない歌を詠むというのもまた、常套を嫌った式子内親王らしい個性が感じられるように僕は思っている。

 

 この歌の次に来る和歌は、小野小町の名歌

 

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 

                                   古今集 春下 一一三

 

の系譜を引いている。桜の花が盛りを過ぎたことに、自分の容色の衰えを重ね合わせ、時の移ろいを思い憂う歌である。

  

はかなくて 過ぎにし方を かぞふれば 花に物思ふ 春ぞへにける  

《歌意》はかなく過ぎてしまったこれまでをあれこれ思って数えると、花についていろいろ物思いをする春を幾度も経てきたことよ

 和歌にあまり接したことのない方でも、名歌と思える和歌ではないだろうか。 古今集にも桜の花に寄せて、数々の名歌が生まれたが、それらの和歌にまったくひけをとらない名歌といえよう。

 

初句は「はかない状態で」の意であるが、形容詞終止形「はかなし」は、平安朝の女流文学作品などに頻繁に見え、『蜻蛉日記』の作者や和泉式部等がこの言葉で、生の虚しさ、無常感をよくあらわした言葉である。もちろん、第四句「花に物思ふ」の花が、あっというまに散ってしまう桜花であることは言うまでもない。たちまち散りゆく桜花に無常を想い、そこに人生のはかなさを重ねてゆく、式子内親王の内省的な心性がよくあらわされている歌である。

 

 式子内親王の生きた時代は、源平争乱の世であり、社会は混沌としていた。しかも、天変地異ともいうべき現象が次々と起こり、暴風、洪水、干ばつなどの自然大災害、疫病、大飢饉などに続けざまに襲われた「末法の世」さながらであった。人々は誰もが世は無常との想念に浸っていたに相違ない。当時の大歌人、西行も「諸行無常の心を」詠んだ歌がある。上の式子の歌と上句がとても似ていて、参考になろう。

 

はかなくて すぎにしかたを おもふにも いまもさこそは あさがおの露

 

 朝顔の露とは、短時間で消えてしまうことから、人の命や人生のはかなさをいう比喩である。

 

ところで上の式子歌は実際、いつ頃詠まれたのであろうか。新古今集の優れた評釈者である窪田空穂は、「老境

に望んで、わが身をかえりみて、我もまた、はかなくて過ぎたと思う(後略)」と老年の作と評している。逆に二十代の作としているのが、式子内親王の評伝の名著を著した馬場あき子で「この二十代の若い詠嘆は、(中略)流麗な声調の哀感の方がまさっているような一面がある」とこの和歌について記している。
 

この和歌が載るA百首歌の正確な成立時期は、いまだ定説がないようだ(学界にいるわけではないので最新の研究成果については不明)が、最新の評伝(2018)を刊行した奥野氏は、「文治建久期に詠まれたことは動かない」としている。つまり数え年で37歳から遅くとも46歳ごろまでということになる。A百首の和歌の中に、出家したことをほのめかす和歌があることを考えると、出家したのが42~43歳ごろと推定されていることから、いずれにしても40代半ば頃までに、今回の桜花の歌が詠まれたと考えてよい。当時だと、四十代前半にはもう老いを意識する頃であり、窪田空穂の評が的を得ていると言えよう。馬場あき子の名著は、刊行年が1969年と約50年以上も前のもので、研究もそれほど進んでいなかった時期なので、創作年代の想定の大きなずれは仕方のないことであろう。
 

 なお、初句「はかなくて」の詞から、作歌事情として、父後白河院の崩御を想定する説もあるが、僕はこの説に賛成できない。当時の人々が諸行無常の世の中と想い、総じて「はかなく」感じていたからである。誰もが人生を「はかなし」と受けとめる時代だったのではないだろうか。それを、個人の特定の状況に結び付けてしまうと、詞のもつ普遍性な意味合いを捉え損ねてしまうような気がする。内親王はこの「はかなくて」の初句に、痛切な出来事(例えば、例の呪詛の噂を流された事件や、父のみならず身内との永遠の別れなど)を思い起こし、切なる思いを込めたのではないだろうか。
 

 下句には、人生のはかなさに対して、嘆いているような調子は見られない。無常を諦観しているように思える。式子内親王の和歌すべてを読んでも、無常を嘆く歌はない。無常を受け入れつつ、そこに、かけがいのないもの、美を求めているのだ。

 

 

 
 

 

 

 

 

 前々回の記事で、僕は熊野古道で台湾の青年と出会い、3時間程一緒に歩き、様々なことを話して、楽しい時間を過ごしたと書きました。僕はその後、青年からのメールを首を長くして待っていました。もうメールはこないのではないかと半ばあきらめてかけていたところ、届いたのです。完璧な日本語の文章で、礼儀正しく、優しい青年の人柄がよく表れていました。嬉しいことに「あの道のりでの体験は、私の人生の中で輝く大切な思い出となりました」と書いてくださいました。あの出会いとその後の語り合いが独りよがりのものではなかったんだと分かって、とても幸福な気分になりました。

 

その後、メールでやりとりし、Lineのお友達登録をして、写真を送り合いました。その過程でも、青年が本当に礼儀正しく、相手への細かな配慮ができる、素晴らしい人柄だと改めて実感しました。もう70年近く生きてきましたが、こんなに心が通じ合える相手に出会ったのは初めてです。考えてみると熊野古道でのことですから、熊野の神様が、この貴重な出会いを授けてくれて下さったのだ、と信じることにしました。これからも、メールやLineで連絡し合い、交友を深めたいと考えています。そして来年には、青年とゆっくりまた話をするために、台湾旅行を計画することにします。心が通じ合える歓びということがいかに大きいか、この歳にしてようやく味わいました。

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 3月20日東京都心で桜が開花しました。昨年より5日早い開花でした。今朝恒例のジョギングをしていたところ、小ぶりの桜の木も、7,8割程度ピンクの花を咲かせていました。雅、別名プリンセス雅という品種です。ネットで検索したところ、埼玉県鳩ヶ谷市の植物園から当初売り出されたものだそうです。しばらく朝のジョグの楽しみとなります。

 

 

 

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 桜も開花したので、今回から桜を詠んだ歌を取り上げます。梅の歌の時と同様、以前に載せた記事をもとにして、再投稿しています。内容的に前よりかだいぶ改善していると自分では思っています。

 

以前に、式子内親王が桜よりも梅の方に愛着があった、と書いたが、だからと言って桜の歌が劣るということでは決してない。むしろ、桜を詠んだ歌の方が秀歌が多いと言ってよいかもしれない。精細に読解すると、式子ならではの独自性がやはり感じ取れよう。

  いま桜  咲きぬと見えて うすぐもり 春にかすめる 世のけしき哉

《歌意》今、桜が咲いたと見えて、空は薄曇り。春らしく霞んでいる世の景色よ。

『正治百首』に収められている、すなわち晩年の技量も長けた和歌で、『新古今和歌集』 春上 八三に入集されている。撰者四人(藤原定家、藤原有家、藤原家隆、飛鳥井雅経)が共撰し、高い評価が与えられているものである。
 

一見、難しいところがなく、なにげないように見える歌だが、式子らしく、周到な技法が凝らされているのに注意を払おう。まず初句「いま」と「桜」の間には、微妙な間があって、心がはずむような声調があり、上句は軽快なリズムだが、逆に、下句は、のびのびとしておおらかな響きがあり、春の光景を詠んでいる。
 

桜の開花を詠ってはいるものの、「うすぐもり」すなわち花曇りであるのも、桜花に負けないほどの役割を果たしている。式子内親王の心の内では、両者は共演して、美を醸し出しているのだ。
 

第四句「春にかすめる」の「に」を巡って、諸評釈書の解釈が異なり、『全釈』の奥野氏は、それぞれ異なる解釈を挙げて、同時代の和歌における助詞「に」の用法などを解説し、詳細極まる吟味を行っている。僕のような素人にはやや理屈っぽく、煩瑣に思えて理解が及ばない。「春らしく霞んでいる」とすっきりした解釈を採用することにする(これが正しい解釈と主張するつもりではない)
 

亡くなる前年の作だから、桜の花を見るのもこれが最後という思いが、この和歌の下句、特に「世のけしき」という詞に込められていると僕は感じる。「うすぐもり」のもとでの桜の開花は、内親王にとって、美の極致であったのではないだろうか。

 

もうひとつ着目しておきたいのは、式子の叙景歌の中で特徴ともいうべき、瞬間をとらえる感覚で、上句一、二句「いま桜咲きぬと見えて」はその典型例ということができよう。虚構である叙景歌に素晴らしい作品が多いのも、この感覚が飛びぬけているためではないだろうか。
 

この秀歌も、桜花と春霞を組み合わせて、それらが織りなす光景を「世のけしき」と大きく美しく捉えた歌だと思える。繰り返し述べているが、式子内親王は、明るく、くっきりした色合いよりも、淡く「ほのかな」色合いを好むように、春の霞が渡っている中で桜が咲く、おぼろげな美ををことに愛でていたに違いない。