毎月旅行をしていますが、6月、7月は、近場で一泊としました。6月は梅雨に入り、天候が思わしくないため、旅行が楽しめなくなる可能性があるからです。6月は、先日9,10日に、毎年宿泊すると決めている妙義グリーンホテルに向かいました。部屋からも、日本三大奇景の一つとして知られる、荒々しい山容の妙義山が見られ、朝食時には、11階の会場で、妙義山の展望を楽しめる(いや、心の癒しになると言うべきか)からです。夕食はバイキング形式で、牛肉と豚肉のしゃぶしゃぶ(食べ放題)で、お寿司も同じく食べ放題(大好物のマグロの握りずしも中トロです。アルコール類ももちろん飲み放題です(嬉しいのは、ビールジョッキもきんきんに冷やされていることです)。僕は、美食家では全然ないので、大いに満足しています。ホテルの従業員の応対もとてもいいです。隣にゴルフ場があるので、ゴルフパックも用意され、非常に良心的な価格で利用できます(残念ながら、僕はゴルフができないので利用できません)。1年に一回、こうして宿泊だけを目的とするのもいいものです。とはいっても、チェックインまで時間の余裕があるので、必ずその前に富岡市(世界遺産「富岡製糸場」がある)にある群馬県立自然史博物館を訪れることにしています。ここも、僕のような古生物学、地質学に関心のある者には、素晴らしい施設です。このところ、古生物学の学びがおろそかになっていたので、目は疲れましたが、知識を深められました。展示物を説明する女性ガイドスタッフも何人もいるのも博物館のポリシーの高さを感じさせます。ブナ林の大規模なジオラマも国内屈指ということで、特筆に値します。

 

 

               個室からの眺め 午後4時過ぎ
 

朝食会場(11階)からの眺め 午前7時ごろ この展望を楽しみながら、朝食をとるのが何とも言えない
 

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式子内親王が、さまざまな鳥について、多くの歌を詠み、鳥全般が好きだったと気が付いたのは、比較的最近のことだ。三度すべて読み通した時でさえも思い至らなかったから、つくづく自分の迂闊さを思い知らされる。
よくよく考えてみれば恋の部の後には、A、B百首のように、ふつう雑の部が続くのであるが、晩年の作である「正治百首」では、「旅」「山家」「鳥」「祝」が五首づつ続いている。最後に祝歌が置かれるには通常であるが、その前の3つの題は、近づく死を予感していた式子にとって、最後に是非とも取り上げたい大切なテーマだったのであろう。
 

「ながむれば」という詞を初句だけでも12例あることからもよくわかるように、式子内親王は、軒先で、空を眺めることがしばしばだったに相違ない。大空を自由に飛ぶ鳥は、当然、内親王の気を引いたし、その鳴き声は、想像力を大いにかき立てただろう。また、渡り鳥は、季節ごとに変わるから、季節の巡りを知らせてくれる意味でも、室内で過ごすことの多かった内親王にとっては、樹木や花と同様、大切な存在であったに違いない。
 

鳥は、式子にとって人間よりも親しく「交流」できる存在であったかもしれない。生き物との一体感が強く表われている和歌が少なくないが、鳥の中でもとりわけ、ほととぎすには、最も愛着の念を示して、かけがいのないと言っても良い存在で、別格的な地位にあった。初夏に遠くからやってくる旧友のような存在であり、五月に咲く花橘の枝にとまる「昔を忘れぬ」、懐旧の象徴的存在であり、万葉集(156首詠まれ、鶯の約3倍)の頃から盛んに和歌に詠まれた、和歌でも重要な存在だった。しかし僕は、初めて賀茂祭に斎王として出る暁方に、この鳥が鳴くのを聴いたことがけっして忘れられない思い出として、ほととぎすをこよなく愛着した最大の理由と考えている。まず、その回想の和歌を読解していこう。式子内親王の秀歌の中でも、とりわけ抜きんでた出来栄えであり、後で紹介するが、新古今集歌人のついて鋭い論考を著している現代前衛短歌の旗手、塚本邦雄氏(故人)も激賞している作品である。


郭公(ほととぎす) その神山(かみやま)の 旅枕 ほのかたらひし 空ぞ忘れぬ
 

《歌意》ほととぎすよ、その昔、賀茂の神山で旅寝をした時に、ほのかに鳴いた空の思い出を決して忘れない 
                       
・神山 上賀茂神社の後方にある円錐形の山で、神社の御神体。なお現在「こうやま」と称する。
・かたらひし ほととぎすが鳴くことを「かたらふ」と擬人的に表現するのは慣用だった。  
 

 新古今集(雑上・1486)に詞書として「斎院(いつき)の昔を思ひ出でて」とある。賀茂祭の前日を神山にある神館(かんだち、仮屋)で、潔斎のため一夜を過ごしたことを「旅枕」と詠み、おそらく緊張して眠れずに暁方を迎えた時に、ほととぎすが鳴いたことを追想している。
 

この歌に初めて接したとき、「ほのかたらひし」という言葉が印象的で、僕は、式子内親王が「ほの」と同義である「ほのかに」という詞をしばしば用いるので、これも式子の独創的な詞かな、と思っていたが、実は『源氏物語』「花散里」巻に、光源氏が、たまたま、昔付き合った女に宛てて詠んだ歌の中に出てくる。
 

をち返り えぞ忍ばれぬ ほととぎす ほの語らひし 宿の垣根に
 

《歌意》昔ちょっと尋ねた宿の垣根に、ほととぎすがきて、恋しさに耐えかねて鳴いたよ
 

内親王が、『源氏物語』を愛読していたことは無論であるが、物語中の歌を本歌[本説]とすることもかなり多いので、この歌を踏まえて詠んだものと思って間違いないと思う。源氏の歌では、ほととぎすは、恋心に耐えかねて鳴いたという恋歌の文脈で詠まれているが、内親王の歌では、ほととぎすが夜が明ける曙のころにほのかに鳴いたと、回想の歌に大きく変えることで、より詩的感興が深まっているように僕には感じられる。恋歌を抒情歌に変えることは本歌取りのきまりともいえる。
 

沓掛良彦氏は、「ほの語らひし」の主語がほととぎすであると同時に、「それに心を重ね合わせた若き日の式子自身でもあったとの考えを、捨てきれないのである」(*)という傾聴に値する感想をもらしている。僕もこの鑑賞に全く同感である。この歌は、結句の「空ぞ忘れぬ」が眼目であるが、この歌を我々の琴線にふれる抒情歌にさせているのはこの「ほの語らひし」の措辞で、源氏歌には感じられないものである。どうしてそう言えるかというと、沓掛氏が述べるように「『ほの語らひし』という表現によって、作者とほととぎすとの間に一種の交感のように存在したことが感じられるのである」(*)。まさに卓見と言ってよいだろう。これから僕が述べたいと望んでいることを言われてしまったという気になる。 
 

 思い出は美しい、とよく言われるが、まさに、良き昔日を回想した歌で、斎院を退下後、内親王に不幸が相次いだことを思い起こすとなおさら、この美しい調べがより深く味わえる。「その神(かみ)」(その昔)と「神(かみ)山」の巧みな掛詞、句頭の「ほ」と「そ」(いずれも[o]音)の反復ともの柔らかい響きによる、式子の歌の特長である流麗な調べにも注目したい。なお、「旅枕」は新古今時代から使われた清新な詞で、式子だけでなく、定家も多く詠んだ詞だそうである。
 

 塚本邦雄氏は、この和歌を「空前絶後の名歌」とし、実作者らしい、音感にこだわった評言をしている。
 

 この歌の場合には、初句の体言切れと、最後の「ぬ」とが実に美しく呼び合っています。それから計算の他だろうと思いますが、「ほととぎす」の「ほ」、「そのかみ山」の「そ」、「ほの語らひし」の「ほ」が「ほ・そ・た・ほ・そ」にリズミカルに繰り返されています。たくらんでやれることではなく、結果的にこうしたほのかな、しかもふくよかでたおやかな頭韻が生まれるのは、天性の詩人である所以だと思います。余談ですが、『新古今和歌集』のどの注釈本にも、この頭韻については触れてありません。これが他の音でしたら、これほど美しい印象は受けない筈です。
     「式子内親王と当代歌人」(『新古今新考―断崖の美学―』(花曜社)139頁 
 
* 沓掛良彦著『式子内親王私抄―清冽・ほのかな美の世界』(ミネルヴァ書房 2011)110頁
 

 

   8月30日の北海道マラソンまで、3か月を切った。今朝も、3時間余り、30㎞をジョギングした。ここ2,3か月は、月に400㎞ほど走っている。30代の頃でも、大会を前にして、月に200㎞以上走ったことはない。昔のようにはピッチ良く走れないが、持久力はさほど落ちていない。距離についてはあまり不安はないが、今後の課題はやはり暑さだろう。北海道も、以前とは変わり、気候も本州に近づいているようだ。当日30度を超える真夏日になる可能性も大だ。空気がこちらよりも乾いているとはいえ、夏の日差しは同様に厳しい。特に北海道マラソンのコースは、真っすぐで単調な道が続くので、余計しんどい。それでも、約15年ぶりに出場できるのは何とも嬉しい。記録は悪くても構わない、完走できれば満足だ。

 

 

            「トワイライト、新版画」展より 小林清親 浅草蔵前夏夜 

 

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 最後に、漢詩摂取による歌の中で、一番の傑作と僕が考えるものを読むことにしよう。最晩年に作られた「正治百首」秋の部 249番で、『新古今和歌集』にも撰ばれている秀歌である(秋下・四八五)。


更けにけり 山の端ちかく 月さえて 十市(とをち)の里に 衣うつこゑ
 

 夜の静寂の中、琵琶の悲しい音色が夜空に響き渡る情景を詠んだ「伝へ聞く…」の歌よりもさらなる視界の広がりが感じられ、冴えた月の美しい光景のもと、砧の音が聞こえるともなく響く情景がまざまざと浮かび上がる和歌と言えないだろうか。「十市の里」というのは、古くからの大和の歌枕で、「十市(とをち)」には、「遠い」の意が掛けられていて、式子は、歌枕を掛詞にして用いるのを好んでいた。
この和歌を十分に味わうには、中国古典詩によく歌われた「擣衣(とうい)」題についてまず知らねばならない。擣衣というのは、絹や麻などの布を槌で打ち、柔らかくし艶(つや)を出す作業のことで、晩秋に女性が行う。漢詩では、月下の庭で、遠征している夫を想いながら、布を打つ哀しい妻の姿が描かれた。日本では、擣衣を詠んだ歌人としては、紀貫之が知られているが、題詠として擣衣題が盛んに詠まれたのは、院政期以後からだった。和歌では、擣衣は、「衣うつ」や「砧(きぬた)」と和語にして詠まれるのが一般的である。擣衣と月との組み合わせは、擣衣題では不可欠で、「月前擣衣」「月下擣衣」といった詠題が好まれた。月が澄んだ秋の夜は、砧の音もよく響き、遠くまで届くからであろう。掲出歌も後者の詠題に即している。
 

この歌は、初句切れ、体言止め、視覚、聴覚的表現に富んだ虚構空間を詠んだ歌と新古今風和歌の典型的な特徴がよく現れている。初句切れの「更けにけり」という詠み手の深々とした詠嘆も、宵からずっと月を眺め物思いに耽っていて、ふと気がつくと、月はもう山の端近くにあることがよく伝わる、式子らしい周到な詠みぶりだ。その時、遠く離れた大和の十市の里から、「衣うつ」砧の音が聞こえてくる。その音は、「伝へ聞く…」の歌と異なり、夜空に響き渡るのではなく、聞こえるか否かのかすかなものだろう。いや、詠者の心の中でのみ聞こえる音だという解釈も可能だろう。勿論、砧をうつ女性の姿は見えないし、具体的には描かれない。しかし、この和歌を読む者は、「衣うつ」という詞から擣衣詠と分かり、かつ見事な情景描写から、哀しい女性の姿がまざまざと浮かび上がってくるはずだ。この和歌の素晴らしさは、この点にもあろう。
この擣衣詠を吟味し、考察した平井啓子氏は、僕がいつも式子内親王の和歌を読んで感じる思いを、ものの見事に言い表してくれている。
 

「更けにけり」の歌は作者の情が初句の詠嘆にあり、以下の句は視覚に映じる月と聴覚に感じるきぬたの音の描写から成立する。従って表面上からは衣をうつ人の思いはほとんど感じることができないであろう。しかし、ないと言い切れないところに式子内親王の歌の特質がありそうである。つまり、この歌の背後からは同じ月を見ながら静かに自己と向き合い衣を打っている女性の存在が想起され、初句の作者の詠嘆は十市の里の女性の詠嘆と響きあう。また、衣を打つ女性の孤独は一人の時間を過ごしてその音に聞き入っている作者の孤独に通じるであろう。さらにいえば、衣をうつ女性の哀しみの気持ちはそのまま歌の作者の哀しみであり、式子内親王の哀しみと重なっている。そして、この歌の詠嘆の奥からは、式子内親王の諦念の姿勢がみえてこよう。  (『式子内親王の歌風』(翰林書房 )「擣衣の歌の表現」p138−9)
 

この評言は、この和歌についてだけでなく、式子の心性をも明らかにしている。僕がこれまで伝えようとやっきになっていた内親王の、人に寄り添い、共感する姿勢や豊かな想像力をも的確に把握している。これまで、式子歌についての評を数多く読んできたが、これほど核心に迫ったものは稀である。正直に言うと、僕はこの文章に接するのは初めてではなく、二年ほど前に読んでいたのであるが、その時はまだ、この核心的な評言を理解できていなかった。良書は一度読むだけではなく、何度も読みかえすべきものなのであろう。
結句が「こゑ=声」であるのも注意を払いたい。「伝へ聞く…」でも「四つ緒(=琵琶)の声」であった。漢詩でも「杵聲」「擣衣聲」の例がみられ、それにならったのかもしれないが、僕は、「音」というと物理的性格がより強いのに対し、「声」とすると、音にまつわる、人間の感情的な面がよく伝わるように思う。この和歌で言えば、衣を打つ音には、打つ女性の哀しい感情が含まれ、伝わると言えばよいだろうか。
 

もう一言、この秀歌について言い添えたい。この和歌が、漢詩由来の歌題にも関わらず、ことごとく和風の趣、気韻に化して、作者の主情豊かな歌に変貌していることだ。初句の「更けにけり」は、他にも二例あり、式子の思い入れが強い詞である。夜が更けるまで、夜空を眺め、物思いにふけることが度々だったのであろう、その詠嘆の用法により、読む者は一気に詠み手が作り上げる和歌世界に入り込める。「十市の里」という古い歌枕を掛詞とすることにより、更けた夜空の広がりを見事にあらわすとともに、遠い古の時代に読み手を誘い出す。「衣うつこゑ」という音の表現を結句に置き、女の哀しい心情や姿をほうふつとさせ、余情も豊かに漂う。擣衣詠のもとに、感情表現を一切用いずに、詠み手の深く沈んだ孤独な心情までも伝える技量。まさしく研ぎ澄まされた感覚を備え、それに見合う技巧も十全に身につけた歌人でしか詠み得ない和歌だと僕はきわめて高く評価する。
 

  5月中旬に京都旅行から帰ってから、観たい美術展が目白押しで、東京に眼科診察に行く機会などを利用して、3つの美術展を観覧しました。最初が「トワイライト、新版画ー小林清親から川瀬巴水まで」(東京丸の内、三菱一号館 展はもう終了)。アップルの創業者S・ジョブズがこよなく愛し、海外の評価が極めて高く「旅情詩人」とも呼ばれ、抒情性あふれる風景表現を得意とした版画家川瀬巴水が、いきなり傑出して現れたのではなく、江戸期の浮世絵に端を発する新版画という水脈の確立者であることがよく分かりました。次に訪れたのが、国立西洋美術館で開催されている「チュルリョーニス展」(舌を噛みそうな名前で、アナウンサー泣かせですね 6月14日まで)。バルト三国のひとつリトアニアを代表する芸術家で、画家であると同時に作曲家でもあり、35歳の若さで亡くなりました。僕は、この芸術家のことは全く知らなかったのですが、読売新聞夕刊の記事を見て、関心を抱きました。リトアニア出身ということにも引き寄せられました。やはり、西欧絵画とは異なる、独特で神秘感漂う表現が感じ取れました。「リトアニアの墓地」というテンペラ画が秀逸でした。最後に昨日、「密やかな美 小村雪岱(こむら せったい)のすべて」展(6月7日まで 7月11日からは埼玉県立近代美術館で開催)に行きました。泉鏡花の小説本の装幀で知られていますが、舞台装置や映画にも関わるなど幅広い分野で活躍しました。資生堂にも在籍していました。この美術家の全貌を網羅する内容で、その美的世界を堪能しました。残念だったのは、時間に余裕がなく、三展ともゆっくり観られなかったことです。もう一つ付け加えたいのは、小村雪岱展の開催されている千葉市美術館の壮観な建築で、これを観ただけでも、行ってよかったと思いました。それが面する通りは、美術館通りといい、駅からはいたるところに案内表示がありました。千葉市がこの美術館に力を入れていることがよく伝わりました。そういえば、昨年訪れた県立中央博物館も展示が充実していたことを思い出しました。千葉の行政は文化を大事にしているのですね。

 

 

            小林清親 日本橋夜
 

            リトアニア墓地 - Mikalojus Konstantinas Ciurlionis | WikiOO.org - 百科事典

            リトアニアの墓地

 
 

            小村雪岱 浜辺
 

 

            小村雪岱 春雨

 

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 白居易の漢詩では、哀れな運命をたどる女性をうたった歌として、「上陽人」も良く知られていて、中西進氏は、『源氏物語』でも「帚木」「賢木」「幻」「竹河」巻で関連がある(引用されている)と指摘されている。そこで、式子歌で、この漢詩を本説とする和歌を読んでいこう。
 

  秋の夜の しづかに暗き 窓の雨 うち歎かれて ひましらむらん
 〈歌意〉秋の夜、窓の外では静かに暗い雨が降っている。そうして(暗い気分になり今の境遇を)嘆いていると、窓の隙間から夜が白んでいる様子に気がつく。
 
 B百首145番。おそらく内親王は、『和漢朗詠集』「秋夜」という部にある白居易の詩句に拠っていると思われるので、その読み下し文(訓読文)で引用しよう。
 

 秋夜 長し 夜長くして寝(い)ぬる眠無く 天明けず
 耿々(かうかう)たる残燈 壁に背く影 
    蕭々たる暗雨 窓を打つ声  (この読み下し文は、『源氏物語と白楽天』より)
 
 まずタイトルの「上陽人」について。ある年若き少女が玄宗に召されたものの、楊貴妃の嫉妬を買い、上陽宮に閉じ込められ、そこで老齢を迎える運命をたどった女性のことである。秋の夜、暗き雨、窓と場面設定は同様だが、細かく注意すると、結構違いが目につく。まず白居易の詩では、夜は長く、眠ることがないので、夜が明けてこないと哀れさを強調してうたっていること、「暗き雨」が蕭々と降っているのは、「上陽人」の暗く、寂しい心情をも投影している。式子の歌でも、上句から、暗く寂しい心情は同一ながら、結句「ひましらむらん」と夜が白んでいるようだ、とあり、窓の隙間から夜明けの光が差し込んできたことを窺わせ、何か救われたような心情に変化したことが詠まれている。少なくとも、「上陽人」のように、ずっと暗澹たる心境にあるのではない。また白詩(白居易の詩をこう略して言う)では、「蕭々たる」は「暗き」と共に、ダブルパンチのように、「上陽人」の心をやるせなくしているが、式子歌では、「しづかに」は「暗き」と詞としては対義的な側面をもっていると、『全釈』の奥野氏は指摘している。僕も同感で、静けさのニュアンスを込めた詞であると思う。式子の他の歌でも「しづか」は「静寂として」といった意で、負の意味はない。
 式子歌も「うち歎かれて」とあるように、主題はあくまでも、秋の夜雨での寂しい境遇、孤独な心情を詠むことにあるのだと思われるが、結句から、何か救いが感得できる。白居易の漢詩に拠りながらも、決して、「上陽人」に成り代わって詠んでいるわけではなく、寂しい境遇にありながらも、光がさす明るい一抹の希望を抱いているかのようだ。
 この和歌は、「窓」という言葉に漢詩の風韻が残ってものの、和歌全体としては、原詩のどこか簡勁なタッチとは程遠い、しっとりとして、たおやかな印象を受け、漢詩的世界というよりも、和風の情趣が感じ取れる。漢詩の摂取において、よく消化されていると言えようか。
 

  さてA百首の90番に戻ろう。白詩を本説とする和歌は、たいてい『和漢朗詠集』に拠っていると推測できるのだが、この和歌では、どうもむしろ『源氏物語』「須磨」巻の名場面に拠っているのではないかと思う。この和歌に初めて接したとき、すごくいい歌と感じた。「春の涙をそそきける」「旅の円居」という句や詞に魅了されたのだ。そして、誤解が生じるのを承知の上で言えば、女性の歌人が詠んだ歌とは思えなかったのだ。前置きはこれぐらいにしよう。 
 

   さか月に 春の涙を そそきける 昔に似たる 旅の円居(まとゐ)に
 〈歌意〉酒坏に春の涙を注いだと伝え聞く。昔にもこうしたことがあった、旅の途中、友との酒を酌み交わす席で。
 

  第三句の「ける」は伝聞過去の用法と解しておく。 「春の涙をそそきける」という第二、三句が非常に印象的だ。この詞続きの元をたどると、「須磨」巻で、源氏が、須磨にやってきた三位の中将(かつての頭中将)と別れの盃を酌み交わす際、
 

 「酔ひの悲しび涙灑ぐ、春の盃の裏(うち)」
 と、諸声に誦じたまふ
 

  と共に白詩を誦する箇所に拠っている、と考えてよいだろう。それにしても、『源氏物語』で白詩が引用されているのを読んだ時、一条天皇や漢詩文に造詣の深い藤原公任などの貴族は、この名場面にぐっときたのではないかと思われる。それまで、婦女子の読み物だった物語に当時男子の教養としてよく読まれた白詩が巧みに引用されているのだから。他にも桐壺帝の亡き更衣を詠んだ和歌が、有名な「長恨歌」に拠っていたことなども、漢詩文に通じる紫式部に対する評価を高めて、『源氏物語』が男性貴族の間でも人気を呼んだ一因であったに相違ない。
さらにもう少し、式部が拠った白詩のことに触れておきたい。白居易は、左遷地に旅する途中で、旧友元槇(げんしん)に再会し、宴を催し、酒を酌み交わす。一旦別れるものの、上の句を含んだ詩を旧友に送ったわけである。式部は、白居易と元槇の再会と別れに源氏と三位中将のそれを重ね合わせているのである。
 それにしても「春の涙」という詞は先例がない。式子は、凝縮表現を好んでいたから、『源氏物語』での二人が誦じた白詩の詩句を「春の涙をそそく」という凝縮表現を用いた句で、須磨巻の名場面を想起させるように詠んだものと思われる。
 
「昔に似たる」は、懐旧の詞として、先例があるが、「旅の円居」は他に見られない。「円居」は、本来は「車座」の意だが、ここでは「親しい者たちの集まり、宴」といった意味だろう。「円居」は漢詩の趣を残している句であることも見逃すべきではない。
  深い友情でつながっている者同士の再会と別れがこの和歌のテーマだが、この歌に初めて接すると、酒を愛し、旅をよくする男の歌人の作と感じないだろうか。しかも漢詩文にも通じているように思わせてしまう「春の涙」「旅の円居」といった漢詩的表現もある。式子内親王は、恋の情緒を激しく切迫した調子で詠む歌、逆に嫋々として優艶のある歌、澄み切った境地で詠まれた歌など、多種多様なタイプの歌を詠み分けたが、この、あまり女性歌人作の歌とは思えない歌を詠んだことも、詠歌の並々ならぬ実力を示すものと見做してよいのではないだろうか(あくまでも素人の個人的見解であることを御承知おき下され)。
 
 

 京都旅行の二日目と最終日について記します。前回2月の京都旅行が源氏物語ゆかりの寺社にお参りしたとすれば、今回は、はからずも門跡寺院を訪ねる旅となりました。僕のブログを御覧になる方は、門跡寺院について、百も承知と思いますが、念のために簡単に説明すると、その寺院の住職を皇族ないし摂関家の人々が務める寺院を言います。京都には13の門跡寺院があるということです。

 

 二日目、最初に訪れたのが、洛北、岩倉(というと、明治の元勲、公家出身の岩倉具視を思いおこしますが、実際、「岩倉具視幽棲旧宅」なる歴史建造物があります)にある実相寺門跡を拝観しました。この寺を知ったのは、前回、「大雲寺」を訪ねた際、バスの終点が実相寺で、そのたたずまいがいかにも格式ありげな印象を受けたので、次回に訪ねようと思ったのでした。「床もみじ」で有名なことも、事前にネットで知りました。床紅葉は、撮影禁止でしたので、HPの画像を載せておきます。僕が九時過ぎに訪れたとき、拝観客は10人たらずで、ゆっくり過ごすことができました。床紅葉は、写真でみるより、おぼろげでしたが、他の寺社では観られないものなので、しばらくたたずんでいました。ビデオ映像も観ることができて、拝観者へのサービスが行き届いていると感じました。11月の紅葉時は混雑するのですか、と尋ねると、団体の予約が入ってなければ、それほどではないと聞き、今年また拝観しようと決めました。庭園は、「こころのお庭」と呼ばれる石庭で、奥比叡を借景としています。寛永文化の主導者、御水尾院の庇護を受けて、寺運が高まった時期もありました。能書家でもある院の書字「忍」を記した石をお土産に買いました。HPもあり、「今日の実相寺」には、時々の美しい写真が数々載せられています。

 

 

 

 

 次に拝観したのが、曼殊院(まんしゅいん)門跡です。修学院前のバス停から20分ほど緩い坂を上ったところにあります。初日、北野天神展を観覧した際、この門跡寺院の住職が、北野天満宮の造営時から明治維新までの900年間も、北野別当職を歴任したことを知り、興味がわき、訪ねてみようと思ったわけです。明暦二年(1656)に、桂離宮を創建した八条宮の第二皇子、良尚法親王が、現在の地に堂宇を移し造営したのが今日の曼殊院です。法親王は「侘び・さびの美」の世界に生きた文化人で、曼殊院は「小さな桂離宮」とも称されます。狩野探幽の襖絵がありますが、正直言ってかなり傷んでおり、修復が必要なようです。むしろ、見どころは、幽霊を描いた掛け軸でしょう。国宝の黄不動明王像の複製も観られます。枯山水の庭園も素晴らしいですが、紅葉時はかなり混雑すると聞いて、少なくとも今年はパスとします。

 

 

 

 

 その次に拝観したのが、曼殊院から10分ほど詩仙堂の方に向かって歩いたところにある圓光寺(えんこうじ)です。ここは門跡寺院ではありません。この寺は、旅行初日、京都駅の観光案内所で秋紅葉を写した印象的なチラシを受け取って、初めて知りました。そして拝観して大正解でした。「十牛之庭」という苔庭は、今は青紅葉で緑が深く、石灯篭も味があって、とても心が和みました。この寺は、徳川家康が、教学発展のため、学校として開基したとのこと。特筆すべきは、出版も行われ、日本最古の木活字も現存しています。円山応挙の雨竹風竹屏風(複製)が展示されていたり(寺の小高い裏手にモデルとなった竹林があり、そこからの洛北の眺めも良い)、枯山水庭園「奔龍庭」(名前の如く通常の枯山水と異なりダイナミックそのもの、平成に作庭?)も見ごたえがあるし、紅葉時に是非とも再拝観したいものです。インターネットで予約が必要です。まったく知らなかったので、知り得て喜びが非常に大です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  最終日は、ネットで予約した青蓮院(しょうれんいん)を拝観しました。拝観料と御朱印さらに御朱印帳のセットをJR東海が旅行商品としてかなり割安な価格で提供していました。天台宗比叡山延暦寺の三門跡の一つです。第一印象は、禅寺のように堂の清掃も庭園の手入れも非常に行き届き、ユースホステルやゲストハウスなどによく置かれている雑記帳もあり、拝観者へのhospitalityがとても感じられる寺院でした。

 この門跡寺院については、国宝の「青不動」(不動明王二童子画像)がお祀りされていることは知っていました。今回、詳細な説明書をいただいて、不動明王が大日如来の化身であり、五色の不動明王像の中でも、「青不動」が最上位を占めるということを学びました。平成26年から「青不動」は将軍塚青瀧殿におまつりされているとのことで、その複製が観られます。庭園は4つもあり、メインは室町時代の相阿弥作と伝えられる池泉回遊式庭園で、華頂殿という広間からゆっくり鑑賞できます。「霧島の庭」と称するものは、小堀遠州作と伝えられ、霧島つつじが植えられています。庭をゆっくり眺め、堂内を回って、境内を巡ると鐘楼があり、何と鐘が自由につけます(このような格式の高い寺院では極めてまれではないかと存じます)。そして忘れてならないのは、天然記念物となっているクスノキ(5本の巨樹がある)の見事なこと。楠が樹形の美しい樹であることも初めて知りました。この門跡寺院を拝観して、至りつくせり、という言葉がまさしくふさわしいと感じました。紅葉時のライトアップもあるので、この秋は、絶対観に行きます。

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 その後は、バスで銀閣寺あたりに行き、京都一周トレイルのコースに入りました。ところが、今回はガイドブックをきちんと参照しなかったので、何度も道を間違えてしまいました。しかし、運が良かったのか、最初に迷ったところで、下の方から子供たちの甲高い声が聞こえてきて、救われたような気になりました。30代くらいの女性が子供3人を連れて、ハイキングに来ていたようです。女性はとても親切に道を教えてくれました。教えられた道を登っていくと、先に通過した地点に出たのです。爪生山に達したところで、ケーブル比叡駅まで行くことを諦めました。そして、狸谷山不動院に至る巡礼道を下っていきました。ここでまた、分岐に気が付かず、途中から登り路となって、おかしいと思っていたら、再び通過地点に出てしまいました。そしてここでもまた人に助けられたのです。その方は、学生時代(芸大出身と言ってました)を京都で過ごし、再び京都で暮らすことになって、この日東山に登りにきたとのことでした。一緒に山を下りることになりました。下りながら、京博や奈良博のこと、修験道や吉野などの話などを交わしました。楽しいひとときでした。北山通りに出たところで、その方とは別れました。今回のトレイルは、正味一時間ぐらいしか行程を進めませんでしたが、人との出会いがあって、忘れがたいお思い出になるでしょう。その後は、船岡温泉というインバウンド客の多い銭湯で汗を流し、京都駅近くにある、いつも行くおでん屋に寄ってから、帰途につきました。今回もまずまずの旅行となりました。

 

 5月13日、東京駅発7時36分の「ひかり」で京都駅着10時12分。「ひかり」に乗るのは、少しでも運賃を浮かすため、「のぞみ」より20分ほど所要時間がかかるだけだから、時間に追われる場合を除いて、「ひかり」に乗ることにしている。京都に着いた時の第一印象は暑かったことだ。

 

  まず、千本今出川にある伝式子内親王墓にお参りした後、京都国立博物館(以下京博と略する)へ。東山、清水寺方面のバス乗り場はいつも長い行列ができているので、京博には歩いていくことに。北の空には、黒々とした雲が広がっていた。雨が降り出す前に、京博に着かなければ。しかし、東山方面に曲がったところで、雷鳴が轟いた。そして(京阪)七条駅を過ぎたところで、雨がぽつぽつと降り始めた。傘を持参するのを忘れていた。京博にはもうすこし。でも入場券売り場に着いた時には、本降りのひどい雨になっていた。京博は入り口から展示館までが100m(?)ほどあり、ずぶ濡れになりそうだ。すこし、待ってみたが、雨は弱まる兆しがない。欧米人のカップルが雨に強い(!)らしく、駈けだしていったので、自分もパーカーをかぶって、ついていくことにした。展示館に入った時、職員が袋を差し出してくれた。雷はたいしてひどくなかったが、京都では初めての雷雨体験だった。

 

 

    京都を何度も旅行して、あちこちで古の内親王御陵を見るにつけ、式子内親王の本物の御墓が失われているのが何とも悲しくなってきた。前回平安創生館で、ボランティアの方に、内親王の御墓があった白川常光院の所在を尋ねたが、分からずじまいだった。

 

京博では、「北野天神」展が開催されていた。外はひどい天候だったから、初日に京博を選んだのは正解だった。京博は展示スペースがかなり広く、余裕のある空間設計がなされているようであった。観覧者はそれほど多くはなく、ゆっくりと展示品が観ることができた。

 

特別展 北野天神

 

 

 

よく知られるように、北野天満宮は、そもそも怨霊としての菅原道真を天神として祀る天神信仰の発祥の地であった。天神は当初は祟りをもたらす恐ろしい神だったが次第に善神の性格を帯びていき、現在のように学問、芸能の神様とみなされるようになったのだ。出雲大社の巫女と伝わる阿国が北野の地で歌舞を舞ったのも、文化芸能の神としての天神信仰の広がりを示すものであろう。一方、祟りをもたらす神という当初の性格は、武神としての天神に受け継がれているようで、各地の天神社に奉納されている甲冑・刀剣(刀剣ファンにはたまらない展示品があった)などはその証である。僕は、今神仏習合に深い関心があるので、天神と十一面観音(本地)との結びつきというのにとりわけ興味を覚えた。かつて北野天満宮には、十一面観音像が祀られていたし、奈良、長谷寺の十一面観音とは深いかかわりがあるという。

 

 しかし、今回の目玉は何といっても、道真の生涯と死後、天神として祀られる様子を描いた絵巻物「北野天神縁起絵巻」の最古にして最優品の「承久本」(本文に承久元年(1219)の制作年号がある)だ。何と縦52㎝で、現存する日本の絵巻の中で最大の画面高を誇る。特に地獄の劫火を描いた生々しい鮮烈な赤の恐怖感たっぷりな表現は、迫力に満ちていた。この承久本は、巻第九が下絵のままの未完であり、謎めいていることも興味をそそる。

 

開幕】特別展「北野天神」京都国立博物館で6月14日まで 国宝「北野天神縁起絵巻」の迫力に圧倒 – 美術展ナビ

 

 入館したのが、12時半であり、出たのが5時過ぎとすっかり長居をしてしまった(出たとき急に疲れを覚えた)。外はすっかり晴れていて日差しがまばゆかった。

 

二日目と最終日については、次回に回すことにして、今回の旅行の第一の目的である葵祭、路頭の儀の見物について記そう。前回書いたように、申し込みに手違いがあって、下鴨神社の観覧席は予約がとれなかった。京都御所の方には、空きがあったが、好天だと日差しが厳しく、それに後列しか空いていないはずなので、今回は、下鴨神社の入り口あたりで、立ち見見物することにした。ホテルを出る時間が早かったので、京都御苑に近い地下鉄烏丸線丸太町で下車し、御苑内に入った。行列が出発するまで2時間前であったが、もう場所取りが始まっていた。好天であったから、観覧するまで大変ご苦労であったと思う。僕は、御所の歩きづらい玉砂利の道を進み、藤原道長の住まいだった土御門第(邸)跡の前を通ると、緑の濃い小径を見つけた。何と御苑内に雑木林が広がっていた。途中に「コオロギの里」という掲示板が立っていた。後で地図を見ると「バッタが原」という名称の場所が周辺にいくつもある。京都市民は、御苑内にこのような人の手があまり入っていない場所があることを御存知なのだろうか。今後、近くに寄った際には、ここを必ず散策しよう。御苑を出て、寺町通から河原町通りを歩いていくと、和菓子屋の前に行列ができていた。「出町ふたば」という老舗有名店であったが、僕は全く知らなかった。昼食用に、ちまき2つとこの店の名物、豆餅3つを買う。

 

 

 

 

 出町橋を渡り、下鴨神社への道の入り口といったところ、公園の一画では良い場所を確保しようともう大勢の人が集まってきていた。堀の上の柵のところに何とか入れてもらった。先ほど買ったちまきと豆餅を食べる。豆餅は塩味がいい塩梅にして豆も厳選されている感じがあって、確かにうまい。来年も買おう。ただ、今回は30分ほどと並んで買えたが、いつもはもっと並ぶのだろうか。

 

 行列はほぼ予定時刻11時40分に来た。一応緑陰があったので、平安装束の鮮やかな色彩が楽しめた。大体の馬が整然と進んでいたが、一部興奮状態で、盛んに頭を振り回し、なかなか前進しない馬もいた。牛車は例のかなり軋る音を立ててやってきた。この祭りの主役は本来、黒い束帯をつけた近衛使代(勅使の役割を務める)なのだが、そうとは知らない人が多く、あまり注目を浴びているとは思えない。華やかな女人列がやってくると、やっぱり盛り上がる。命婦とよばれる女官が花傘をさしかけて次々とやってくる。しかし、祭りのヒロインは、腰輿(およよ)という輿に乗って、十二単を着た斎王代である。今年は、同志社大学在学生が選ばれている。しかし、僕のお気に入りは、騎女(むなのりおんな)と呼ばれる騎乗する女性たちで、神事を司るという(御神子(みかんこ)とも称されるようだ)。その騎馬姿が凛々しく、何とも格好がよい。そのためか、次にやってくる女別当、内侍にはつい注目し忘れてしまう(来年は忘れずに!)。采女の白の頭飾り(?)も目を引く。行列は水干姿の童女2人が綱をひく牛車で締めくくられる。今回もあっという間に終わったという感じだ。

 

 

 

 

 

 

 
 

 
 

 

 

その後、昨年同様、走馬(そうめ)神事を観て、14時20分から再開される行列についていく。今年は昨年よりも、歩道を楽に進めた。見物客の途切れたスペースを見つけて、動画は、この時に撮った。朝のジョッギングのせいか、疲れも覚えなかった。加茂川に沿う道路へと曲がるところで、10分ほどストップさせられたが、それでも上賀茂神社の鳥居が見えるあたりで、行列に追いつけた。昨年同様、童女たちは至って元気で、一番辛そうなのが、お牛さんであった。「もう少しだ、頑張れ」と声をかけた。

 

 

 
 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

今年は、上賀茂神社境内に入った。一の鳥居から二の鳥居にかけては見物客でいっぱいであった。「社頭の儀」が始まると、それを解説するアナウンスが日本語と英語でなされた。例の雅楽の音が聞こえてきた。境内で聴くと、より神妙な心持になった。走馬神事は5時45分から始まるという。下鴨神社で観たので、帰ることにした。地下鉄の北山駅まで歩いて30分ほどだったが、今回は全然疲れていなかった。