2025年になりました
今年はなんとなくブログを書いていきたい気持ちです
なんというか、外側に出したい欲求があります
去年は内側で色々やってたので
媒体とかはまだ決まってないけど、まぁてきとうに
去年の夏頃から仕事に行き始めて、仕事は精神を保つのに役立つとつくづく思う。
色々めんどうなこともあるけど、考えなくていいことを考えないでよくなる
年末年始、入職後はじめての連休で、空白の時間を過ごしているとメンタルが急に落ち込み、仕事にいく日々が気を紛らすために役立っていたことを思い知る
入職前に私の心や脳を支配していた事柄が、整理されて落ち着いていたわけじゃなくて、誤魔化し続けていただけだったことに気がついた。
どうりでモヤモヤしていたわけだ。
(私にかわいそうなことをしていた…)
私はほとんど去年1年、特定の人物との関係性でずっと悩んでいた。
関わりたいと思うのに、うまくいかなくて執着してすごく苦しかった
関わってた間、苦しかった期間のほうが多いかもしれない、そういうレベル
それでもなぜか関わらないといけない気がしたのだ
アップダウンが激しく不安定な人だった
それもシンパシーを感じる一因だった
関わり始めた当初は、すごく私のことを賞賛して、承認して、肯定してくれた
私はそれが欲しくて関わっていたのだと思う
私の欲しい言葉をぜんぶくれる、この人のことを大切にしようって思った
かけがえのない人、私を救ってくれる人だと
最後の方は、期待しては打ち砕かれての連続だった
相手の言動や行動に振り回されてしまう自分がいた
今となっては全部気分だったのかな、と思う
実際そうだった可能性は高いし、それが相手の本当の姿だったのかもしれない
私は思い通りになってくれないことが悲しくて、思い通りになってくれないと悲しい自分がくやしかった
でも期待はなかなかやめられなかった
期待し続けることが、思い通りにコントロールしようとすることがとうとう嫌になって、関わっていたSNSを消した
信じたかったけど、信じようとすることすら相手に対する不当な期待であり、何より自分を苦しめる気がした
信じられないものは信じられない。それ以上でもそれ以下でもない。
信じようとしている時点で、「信じられない」がベースにあるのだ。
結局私はその人自身を見て、その人自身に魅力を感じて関わったわけではなくて、その人がくれたものに魅力を感じていただけに過ぎない。
不足感を埋めるために利用した。
きっかけが不足なのだから、不足感を残して終わるのは必然なんだろうな。
そして、私が不足感から相手に関わったように、相手も不足を埋めるために私に関わっていた、という仮説も、事実と大きくずれてはいない気がしている。
私は関わりはじめた当時、相手が起こしていた数々のトラブルを知っていた。
それが心の闇によるものだったとしても、私が救おうだなんて烏滸がましかった。
誰もが誰かを救うことなんてできない
馬を水辺につれていけても、水を飲ませることはできない。
誰かを救おうとすることも、誰かに救ってもらおうとすることも、利用しているようなものだと今となっては思う。
私はその人の救いになることで、かけがえのない存在になりたかった、自分の存在価値を認識したかった
それだけだった
今の私は、危険レベルの高い国に、その国を救う気概で自ら渡航し、ぼろぼろになってなんとか帰ってきたような気持ちだ
私は被害者にはなれない
恨みたいわけじゃない
綺麗事で終わらせたくもない
ただ、どっちもどっちだったな、と思う
私は私自身の力で勝手に救われる必要がある
相手も、もし救いが必要なら、自分で勝手に救われて欲しいと思う