昭和8年3月3日(追記あり)
昭和8年3月3日、午前2時半過ぎ三陸沿岸は強い地震に見舞われました。
この時おきた大津波と地震の影響で発生した火災により釜石は壊滅状態となりました。
それでも死者160人行方不明234人だったのは明治の大津波(死者6000人)の教訓が活かされていたからでしょう。
手元に1冊の資料があります。
津波体験集
釜石の両石町の老人クラブが結成30年を記念して今から13年前に発行したものです。
津波の恐ろしさを風化させないように後世に伝えようというものです。
当時幼児だった方から成人されていた方まで様々な年代の方十数名が寄稿されています。
抜粋でご紹介すると、
地震の後寒いからまた寝ようと布団に入ったら近所の人から早く逃げろと言われ高台に逃げた後津波がきたという方や、
一旦は逃げたものの家に戻り犠牲になったご家族がいた方。そして朝になると家は残っておらず瓦礫の山だったそうです。
津波から70年ほど経過しても皆さんの記憶が鮮明なのはよほど怖かったのでしょう。
そして昭和の大津波から27年後の昭和35年。
チリ津波の時は釜石では一人の死者もださなかったのは二つの津波の経験が活かされたからでしょう。
三連続津波の記事で恐縮です。
最後に明治と昭和の津波にも負けずに生き延びた宝の木をご紹介します。


場所は両石町水海、パチンコユニオンのすぐそばです。
この時おきた大津波と地震の影響で発生した火災により釜石は壊滅状態となりました。
それでも死者160人行方不明234人だったのは明治の大津波(死者6000人)の教訓が活かされていたからでしょう。
手元に1冊の資料があります。
津波体験集
釜石の両石町の老人クラブが結成30年を記念して今から13年前に発行したものです。
津波の恐ろしさを風化させないように後世に伝えようというものです。
当時幼児だった方から成人されていた方まで様々な年代の方十数名が寄稿されています。
抜粋でご紹介すると、
地震の後寒いからまた寝ようと布団に入ったら近所の人から早く逃げろと言われ高台に逃げた後津波がきたという方や、
一旦は逃げたものの家に戻り犠牲になったご家族がいた方。そして朝になると家は残っておらず瓦礫の山だったそうです。
津波から70年ほど経過しても皆さんの記憶が鮮明なのはよほど怖かったのでしょう。
そして昭和の大津波から27年後の昭和35年。
チリ津波の時は釜石では一人の死者もださなかったのは二つの津波の経験が活かされたからでしょう。
三連続津波の記事で恐縮です。
最後に明治と昭和の津波にも負けずに生き延びた宝の木をご紹介します。


場所は両石町水海、パチンコユニオンのすぐそばです。
津波は英語でもツナミ?
あちらこちらで津波の被害があらわになっています。
幸いうちは被害がありませんでしたが同じ漁協内には被害に遭われた方も多数あり手放しでは喜べないです。
湾港防波堤ができてから波は釜石の北部仮宿漁港に向かうようになっていたので仮宿付近の漁場の心配をしていたのですが、被害をもたらした波は北からきていました。
そのため北に面した湾が被害にあってました。
さらに今回の津波はテレビで見たことのある方もいらっしゃると思いますが下からジワ~と上がってきていましたね。
気仙沼では第1波が到達する前に側溝から水が溢れてきたそうです。
津波=海の水がサァーと一気に引いてドン!と大波がくるというのが定説です。
現に、明治の大津波では潮が引いたと魚を取りに行って津波にさらわれたり、秋田沖の時も遠足の子供達が犠牲になりました。
地元の年寄り達に言わせると、十勝沖の時はサァーと海水が引きドン!と大波が押し寄せてきたそうです。
そして50年前のチリ津波の時は今回のように下からジワーと来たそうです。
さすがに昭和の大津波を覚えている人はいませんでした。
今回の騒動でみじかに津波が起こるとわかった子供達。学校でいくら習っても避難訓練をしてもイマイチピンときていませんでした。
今回の事で改めて津波の危険を感じたようです。
ところで、防災甲子園で入賞した東中学生が言っていたのですが津波は英吾でも『ツナミ』と言うそうですよ。
*津波で被災された方に心からお悔やみ申し上げます。
幸いうちは被害がありませんでしたが同じ漁協内には被害に遭われた方も多数あり手放しでは喜べないです。
湾港防波堤ができてから波は釜石の北部仮宿漁港に向かうようになっていたので仮宿付近の漁場の心配をしていたのですが、被害をもたらした波は北からきていました。
そのため北に面した湾が被害にあってました。
さらに今回の津波はテレビで見たことのある方もいらっしゃると思いますが下からジワ~と上がってきていましたね。
気仙沼では第1波が到達する前に側溝から水が溢れてきたそうです。
津波=海の水がサァーと一気に引いてドン!と大波がくるというのが定説です。
現に、明治の大津波では潮が引いたと魚を取りに行って津波にさらわれたり、秋田沖の時も遠足の子供達が犠牲になりました。
地元の年寄り達に言わせると、十勝沖の時はサァーと海水が引きドン!と大波が押し寄せてきたそうです。
そして50年前のチリ津波の時は今回のように下からジワーと来たそうです。
さすがに昭和の大津波を覚えている人はいませんでした。
今回の騒動でみじかに津波が起こるとわかった子供達。学校でいくら習っても避難訓練をしてもイマイチピンときていませんでした。
今回の事で改めて津波の危険を感じたようです。
ところで、防災甲子園で入賞した東中学生が言っていたのですが津波は英吾でも『ツナミ』と言うそうですよ。
*津波で被災された方に心からお悔やみ申し上げます。
大津波警報発令
南米のチリでおきた大地震により津波が発生しました。
当初の予想では3m以上ということで【大津波警報】が発令されました。
チリでおきた大地震といい、大津波警報といいだれもが50年前のチリ地震津波を連想したのでした。
大津波警報が発令された時、私は本業の作業の為岸壁の作業小屋にいました。
とにかく海底が見えるくらい海面が下がったら高台に逃げると旦那と確認してひたすら作業をしていました。
お昼過ぎには上空を防災ヘリが低空飛行で飛んで行きました。おそらく、海岸で作業をしているのを確認して行ったようです。
そうこうするうちに、警報発令と同時に閉めた水門を一時的に開けると消防団から連絡が隣にあり慌てて作業を終わらせ合羽も脱がず急いで車に飛び乗りました。
隣の家族、旦那、そして私とあいた水門に滑りこんだのでした。
家に戻ると、JRも三鉄も路線バスも運休、国道45号線と海岸線の県市道は通行止め。スーパー等も営業中止になっていました。
到達予想は1時半ごろと言われてましたが実際は1時16分に10cmの第1波が到達しました。それから40分後に第2波が、満潮時には1m弱の津波がきたようです。
船と小屋が流されてしまうんじゃないかとヒヤヒヤの旦那は高台から見ていたそうですが、潮位の変化はわかったそうです。
おかげさまて思ったほどの津波はこず、午後7時に津波警報に切り替わり、先程注意報に切り替わりました。
また午後9時には通行止めも解除になりました。
まだ被害の状況は分かっていませんが予想より大きくなかったようです。
このまま朝には注意報も解除になると良いと思うのでした。
当初の予想では3m以上ということで【大津波警報】が発令されました。
チリでおきた大地震といい、大津波警報といいだれもが50年前のチリ地震津波を連想したのでした。
大津波警報が発令された時、私は本業の作業の為岸壁の作業小屋にいました。
とにかく海底が見えるくらい海面が下がったら高台に逃げると旦那と確認してひたすら作業をしていました。
お昼過ぎには上空を防災ヘリが低空飛行で飛んで行きました。おそらく、海岸で作業をしているのを確認して行ったようです。
そうこうするうちに、警報発令と同時に閉めた水門を一時的に開けると消防団から連絡が隣にあり慌てて作業を終わらせ合羽も脱がず急いで車に飛び乗りました。
隣の家族、旦那、そして私とあいた水門に滑りこんだのでした。
家に戻ると、JRも三鉄も路線バスも運休、国道45号線と海岸線の県市道は通行止め。スーパー等も営業中止になっていました。
到達予想は1時半ごろと言われてましたが実際は1時16分に10cmの第1波が到達しました。それから40分後に第2波が、満潮時には1m弱の津波がきたようです。
船と小屋が流されてしまうんじゃないかとヒヤヒヤの旦那は高台から見ていたそうですが、潮位の変化はわかったそうです。
おかげさまて思ったほどの津波はこず、午後7時に津波警報に切り替わり、先程注意報に切り替わりました。
また午後9時には通行止めも解除になりました。
まだ被害の状況は分かっていませんが予想より大きくなかったようです。
このまま朝には注意報も解除になると良いと思うのでした。