価値観は人それぞれ
「価値観は人それぞれ」このセリフを聞いたことがない人もうはいないだろう。多様化の時代、みんなの違いをお互いに認めあっていきましょうというのが最近の流れである。ところが、この「人それぞれ」とか「同じ」とか「違う」とかというのがどういう意味なのか、きちんと知っている人はあまりに少ない。知らずに使う人が多いから「価値観は人それぞれ」であるにも関わらず言い争いが絶えないのである。





価値観は"元から"人それぞれ
「価値観は人それぞれ」という時の「人それぞれ」は「ひとりひとり違ってもよい」とか「そこに正解はない」という意味であろう。しかしこれはとても変である。なぜなら人間はひとりひとり「違ってもよい」のではなく「もともと違う」からである。自分とまったく全てにおいて同じ感じ方である人間は「そもそも」存在しないのである。だから「違ってもよい」という言い方はおかしい。誰も「歯磨き粉」と「うさぎ」は違ってもよいのか?とは問わないだろう。それは元々かけ離れているので比較するまでもないからである。





違う≒同じ
ところが人は「価値観は人それぞれ」と普通に言うのである。なぜならやはりそこにある程度の「同じさ」を認めているからである。「違う」とか「それぞれ」というのは、比較が成り立つくらいの共通点のあるものの間でしか成立しない概念なのである。何もかもが全部違うなら、そもそもそこに「違い」を見出す余地なんてないのだから。もし「価値観」がそもそもひとりひとりで何もかも違うという認識なら、人は「価値観は人それぞれ」などとは口にできない。そのセリフを口にするということはつまり「価値観は人々の間である程度は同じだ」という認識なのである。





価値観は人それぞれ
意味:私の価値観を否定するな
その上で「価値観は人それぞれ」と言うのは、元々人それぞれであるという事実を言いたいのではなく、結局のところ自分の価値観を他人に否定されたくないだけであろう。否定される余地があることを実は本人はよく知っている。だからこそ、それを守る盾として「人それぞれ」という言葉が必要なのである。





他者からの言葉が人生を開く
ところで「否定されるの大歓迎」という人は今の世の中あまり見かけない。誰も自分の価値観を疑いたくないからだろうか。しかし自分はなんでそれを価値に思うのか?価値あるポイントはどこなのか?本当にそれが価値でいいのか?そう迷う時は必ず人生に訪れる。それは自分一人で考えては埒が明かない。他者によって指摘されることで初めて外の世界が広がるのである。
多様化によって主観絶対尊重な世界になりつつある今、それは同時に自分の人生の新しい可能性が開けないことを意味するのである。