理不尽の中でもがく私に
心理セラピーが、「私に戻ること」へと導いた。
「許せない」「終わらない」まま、毎日苦しんでいる人へ。
どんな人でも、人生の中で不条理な局面に遭うことがあると思う。
そんな耐えられない瞬間に出くわしてしまった人に、この記事が少しでも助けになれば。
「終わったのに終わらない」――そんな時間をどう過ごしたかについて。
解決方法がわからずもがいたとき
ここからは、慰謝料請求が終わってからのこと。
合意書を締結しても、納得はいかなかった。
自分があらゆる意味で傷つかない方法で、相手の妻に事実を伝えたい。
のうのうと元の生活に戻って暮らしている(と思われる)相手が許せない。
どうすればこの現実を変えられるか。
毎日、毎秒、そんなことを考えていた。
ある時、「合意書を撤回して白紙に戻そう」と思い立ったとき、目の前が明るくなった。
やっぱりこの現実を変えなくては救われない、そう確信した。
なんとか出来る方法はないか、依頼した弁護士やほかの弁護士にも相談した。
どこも答えは同じで、ことごとく反対された。
聞きまわった結果わかったことは、民事事件の合意書を撤回することは基本的にあり得ない。そうすることが出来るのは、
・相手が撤回に合意した場合
・当時知らなかった事実が後に明らかになって締結時の前提が覆った場合
私のケースでは難しかった。
ここにきてようやく行き詰ったと思った。
“社会的に正しいやり方”でないと、自分の人生がリスクを負ってしまう。
ここを揺るがせない展開はもう望めないと腑に落ちた。
まだいかようにでもなす術があると信じていたから、慰謝料請求を終えても悶々としていた。
自分に出来ることはやり尽くしたと心から思うことは
その後、自分が納得のいく人生を歩むうえで必要なステップだった。
心理セラピストに辿り着いたとき
もう出来ることはないとわかってから、
この感情を落ち着かせるほうが賢明であることが腑に落ち始めていた。
でも、だからといって気持ちは切り替えられない。
「私が交わるような相手ではない。自分の未来のほうが大事。前を向いて次に進もう」
そう思えずに、毎日苦しんでいた。
では、どうすればこの感情を終えられるのか?
考えた末、専門家に頼ることにした。
心理学的に自分の感情を正しく理解すれば
理にかなった対処法もわかるかもしれない、と考えた。
最初は心療内科にかかろうとしたが、よくある認行動知療法を画一的に勧められた印象を受けたので見送った。
私のケースに合ったアプローチが必要だと思った。
私の考え方”以外”の問題が大きいと思ったし、この強い感情を変えるには何らかのトリガーが必要だとも思っていた。
最近はカウンセリングサービスを提供している企業や個人も様々いるが、カウンセラーが重要だと思ったので吟味した。
個人に合わせて包括的にアプローチしてくれるのは当然のこと、学術的な知見や扱ってもらえるテーマが豊富で、アプローチも多元的、体験的技法を扱い、感情処理を重視している、という心理セラピストを見つけることができたので、お願いすることにした。
セラピーが私に示してくれたこと
ひと言でいうと、セラピーによって明らかに感情の区切りをつけることが出来たといえる。
最初に、自分が何に傷付いているかを自覚することができた。
まずセラピストは私に効果がありそうなアプローチを提案し、合意したうえで取り組むことになった。
怒り、悲しみ、恐怖、喪失などのテーマを扱った。
その中で、自分の思いを言葉に乗せることで、自分が強く思っていることが不意に表れたりした。
そうして、自分の心はいま何を感じているのか気付くことができた。
セラピーは、頭で考えても解決しないもの、自分から出てくるものを大切にする練習だという。
それによってすぐ溶けることもあるし、数か月後に溶けていくかもしれない、ということだった。
もうひとつセラピストが示してくれたことがある。
セラピストが掛けてくれた言葉によって、傷が癒されていった。
一連の経験や気持ちを、代わりに言葉にして翻訳してもらったことが効果的だった。
また、掛けてもらった言葉の影響力も大きかった。
その言葉たちは後で紹介する。
この言葉をこのタイミングで聞かなければ、私は区切れるまで至れなかったと思う。
これらが結果として、自分の人生で大切なものは他にあるという感覚に導かれていった。
セラピーをしていない時間に、ふと、大切なものは何かがはっきりした感覚があった。
心が動いたのを感じた。
この日を境に、執着がなくなっていった。
常に生きていることが辛かったのが消えていった。
今回のセラピーは二か月間かかった。
この時間を通して、感情を過去形にするスピードを速めてもらったように感じる。
「時間が解決」という言葉に頼っていたら、果たしていつ区切りをつけられていただろう。少なくとも自分ではっきりとした認識は持てていなかったと思う。
セラピーのひとつに、何回も過去の出来事を話して、出来事の衝撃に慣れて過去形にしたり客観視していくエクスポージャーというアプローチもあるという。
今回、これと同様の効果もあったのではと感じる。
余談にはなるが、今回のケースのセラピーがひと段落した頃、私の根本的な性質と、生きやすくするための長期アプローチについても時間をとってもらった。
同じ事態でも感情や行動は人それぞれ。
なぜ今回私はこういう思考や対応になったのか、自分の理解を深めたいと思った。
話を戻して、今回のテーマについて少し掘り下げて羅列していく。
心が救われていったセラピストの言葉
もしかしたら、言葉だけみるとセラピストでなくても掛けることができるものかもしれない。
でも、あのときの私は、着実にこの言葉に救われた。
私に必要な言葉だった。
相手が苦しめば自分が救われるのかは考えてもわからない、でも疑っておいたほうがいい
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変わろうとしているのは自分であって、執着によって相手を変えることは解決ではない。相手が変わらないと救われない、というのは支配されているということ。仮に相手が不幸になっても支配されているから解決したようで解決されない
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考えて答えを出すにはもう十分考えた。諦められない自分を味わうのも過程のひとつ。一年必要な人もいるがそれ以上人生を使うものではない
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その相手は結構おとしめられている感じがする、日本社会は加害者になった時点で負け。私は被害者のポジションを取れている。理不尽を飲み込んで生きることが勝ち、さらにそれでも自分の人生を楽しむ。加害者はその選択肢を取れない、克服できない、良い人生を送りにくい
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あんまりその人自体に何もなくて、実際どうでも良さそうな人の感じはする。信じていた実在しなかった人は惜しいものかもしれないが
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訴訟をやらない賢さがあった、自分を守る強さがあった
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思考の出番は終わっている。考えれば考えるほど感覚の答えがわからなくなる、考えて言葉にすると一部の側面しか表現できない、だから行ったり来たりが終わらない、説得的なものではない。考えてしまう性質があるなら意思のほうに使う、未来の大事な時間を何に使うかとか。気づいたら中断して考え始めた自分に巻き戻す、そのときにいつもの戻り先があるといい、例えばお茶を飲む、ストレッチとか意識を集中させられるもので頭を使うもの。お酒とゲームは避けたい
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自分が好意的な人から存在するほうが大事。傷ついた私がいると認めてもらう、忘れずに覚えていてもらう
セラピーの中で得た気付き
半年以上経っていても自分が傷ついていると鮮明に感じられた。つまり、自分の状態をわかっていなかったし、感じようともしていなかった。自分の苦しみを感じないために思考を働かせていた
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相手にこうなってほしい、と執着してしまうのは、自分が傷ついていることを感じ切れていないから。しっかり捉えられれば自分が一番大切だと思えて、自分を守ることを優先できるようになる。結果的に相手に何かを望まなくなる
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自分が被害者で、不幸であればあるほど相手の罪を証明でき、罪を重くできる(自分の心の中でだけでも)、それを本当に選ぶ人もいるがお勧めはしない、と言われた。自分は踏みとどまったがその発想は当時確かにあったので陥りやすいことだと思った
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怒りを正しく出せれば(直接相手にぶつけるということではなく表現するということ)相手はどうでもよくなる、言えない弱い自分があると自己破壊的になったり犯罪に手を染めるなど、健全ではない方向にいってしまう。よって、怒りをしっかり見つけて正しく出すことは、実はとても大事だということ。なんとなく許したり期待したり、おかしいと思った時の詰めが甘く怒れない人をやめる。私が強い怨みの念を抱いていた理由のひとつが、感情を出せていなかったから。結論は同じでも、被害者支援センターなどで相談して自分を理解してもらい感情を出して進められていたら良かった可能性はある
いま苦しんでいるあなたに
なかなか次に踏み出せないときには、心理セラピストの助けに頼ってみてはどうだろうか。
私にとって心理セラピーは、自分を大切にするための唯一の術だったと言える。
自分を守ろうとする感覚を取り戻させてくれた。
もちろんこれですべて忘れるわけではない。
どうしようもなく許せなくて居ても立っても居られない瞬間もまだある。
今後何年経ってもこの感覚は忘れないと思うし、
この経験が今後何かの糧になるとも思っていない。
そんな中でも、私の心が自分を守ろうとする方向に向かい始めた。
もし苦しい状況におかれてしまった人がいて
どうすることも出来ない瞬間があったとしても、
同じ気持ちになった人はいる、一人じゃない、と思ってもらいたい。
