立志式への違和感
中学2年生の冬。体育館に響く生徒たちの「誓いの言葉」。
将来の職業や生き方を高らかに宣言する「立志式」の光景を、私は毎年、複雑な思いで見つめています。
教壇に立つ人間がこんなことを言うのは、職務放棄に聞こえるかもしれません。
しかし、一人の大人として、そして日々生徒と向き合う伴走者として、問い直したいのです。
「式典という形で、無理やり夢を語らせる文化は、本当に生徒のためになっているのか?」と。
1. 「夢がない」という豊かさ
私自身の過去を振り返っても、中学生の頃に確固たる夢などありませんでした。高校、大学、果ては就職活動中であっても「本当にやりたいこと」が見つからず、悩んでいた友人たちを数多く見てきました。
今の時代、生き方は驚くほど多様で流動的です。
14歳の時点で一つの職業に自分を縛り付けることよりも、まだ何者でもない自分を受け入れ、試行錯誤する余白を持っていることの方が、実は健全で豊かな状態なのではないでしょうか。
2. 「教えない授業」と、押し付けの「立志」
日頃、生徒の主体性を引き出す教育を模索する中で、特に違和感を覚えるのが「式典としての強制力」です。
学校行事としてパッケージ化された立志式では、往々にして「立派な夢」を書くことがゴールになりがちです。夢が見つからない生徒は、周囲に合わせて「それらしい言葉」を捻り出す。これは、自ら問いを見つける「探究」とは真逆の、大人の期待に応えるだけの「演技」になってはいないでしょうか。
「とりあえずこなす行事」として形を整えることに、私たちはどれほどの情操的価値を見出せているのでしょうか。
3. 多様性の時代の「志」とは
今の時代に必要なのは、「将来の職業名」を叫ぶことではありません。
* 「まだ何も見つかっていない」という現在地を肯定する勇気
* 変化の激しい社会で、柔軟に自分を更新し続ける姿勢
こうした「正解のない問い」を抱え続ける力こそが、今の14歳に贈るべき本当の「志」ではないかと思うのです。
おわりに:ステージの下のリアルに寄り添いたい
ステージの上で語られる輝かしい言葉の裏側に、迷いや不安、あるいは「何も言いたくない」という沈黙があることを、私は忘れたくありません。
学校という組織の中にいながら、この恒例行事に冷めた視線を送ってしまう自分。
でも、その違和感を持ち続けることこそが、生徒一人ひとりの多様なスピードと個性を守るための、教員としての「立志」なのだと感じています。