お盆前、久しぶり実家のお墓を掃除した。
消滅した集落の山の中にある上に、お墓がたくさんあるので掃除も半日がかり。
墓所の傍らには、父が生まれた日に祖父が植えたという大きな杉の木が立っている。
「家具を作るなら使えばいい」と父が言ってたな。
わたしのご先祖様はずっとこの地に根付いて暮らしてきたので、自分のルーツは簡単にさかのぼれる。
子どもの頃は、田植えや稲刈りといった米作りを手伝っていた。
村落共同体というのかな?
集落のみんなが大きな家族、そんな雰囲気だったのをよく覚えている。
幼いころのわたしは、原風景になっているこの場所であっちのじいちゃんにもこっちのばあちゃんにも、可愛がられて育った。
でもうちの家族の問題は根深くて、拗れにこじれていた。
特に祖母と父母の確執は深刻で、20年間も家庭内別居。
そこに親戚も加わってお家騒動みたいなことになっていて
もう、ありとあらゆることをあの家で体験した。
仲良し家族を見てはため息が出るような、なんでこんな家庭なんだと母を責めてみたり。
父と顔を合わせば大喧嘩になる。
でも。本当はそんな自分がずーーーーっと嫌で居心地悪かった。
タワシでお墓についた苔をゴシゴシしながらふと、思った。
わたしは上京してから自分の33年間ばかり見ていたけど、父と母にとっての33年間は、どんなだったんだろう?
数か月前に「家族の座」というセラピーに参加して、祖母・祖父、母、父の声をきいたことが重なった。
「誰も(子を失った)私の痛みをわかってくれない」
本当に思いもかけない言葉だった。
祖母と母2人の口から語られたことのないことば
わたしははじめて2人の存在を、目の前にいる生身のニンゲンだと感じた。
他にも父の声、会ったことのない祖父の声、たくさん聴いた。
そして、わたしは自分の本当の気持ちをはじめて知った。
代役の方の口から出た言葉で「見ないようにしていた本当の自分の気持ち」を聞いた。
たくさんの兄姉を亡くし、2人の子を失った父の深い絶望。
突然戦争が終わって、価値観がひっくり返ってしまいお酒に溺れた伯父
被爆後の25年間、体調不良に苦しみ続けた祖父。
その中で起きた、祖母の苛烈なふるまいや諍い、
そんな家に嫁いだ箱入り娘——なすすべもなく息を潜めるように生きてきた母
家族の背景が見えたとき、ようやく理解できるようになった。
家の中で何が起きていたのか、わたしがそれを(本当は)どう見ていたのか、何を受け取れていなかったのか
やっと理解ができた感じがした。
おとうさん、おかあさん、おばあちゃんという役割ではない、同じ「人間」として家族をみれるようになった。
それは「親」に期待していた自分、濃い投影への強烈な気づきとセットで起きた。
「ああしてくれなかった」「こうしてほしかった」「なんでわかってくれないの」
全部「親なのに」「お母さんなのに」「お父さんなのに」「おばあちゃんなのに」という言葉が入っていたこと。
「親孝行しなくては」「親の期待に応えなきゃ」といったものもサクッと落ちた。
投影が落ちるってこういうことなんだなーーーと妙に清々しい気持ちになった。
親子はお互いに期待しあっている。
「子なのに」「親なのに」って。
でもそこから抜け出て、ちゃんと自分の足で立てるようになったのかも。
これが本当の自立なんだと思う。
思考でいくら「親も苦労した人だから」「親は悪くない」とか「親孝行しなくては」と言い聞かせたり拒絶や排除したとて、ここにはたどり着けなかっただろうと思う。
やっと全体がみえるようになって、気づいたのは
みんな傷ついた人だということ
愛していなかったわけじゃなくて、そんな余裕がなかっただけ
自分のシャツのボタンを掛け違えて、着心地の悪さを誰かのせいにしてしまうみたいな、そんな小さなすれ違いがどんどん拗れていった。それも、からだの仕組みとして起きることがただ起きていた。
父のやねこくて(方言)大きな声も
ビクビク顔色を伺ってばかりで凍り付いたように生きている母も
家族に嫌がらせの限りをやり切って、亡くなった祖母も
ありとあらゆる人っぽい泥臭いことがこの家にはあって
ヒトの泥臭いめんどくさいのほとんどを経験させてもらったような、そんな気持ち。
噛み合わないのも
わかりあえないことも
それさえも、なんかいいなーー
そしてわたしはわたしでいていいんだと、腹の底から感じた。
はじめて自分を偽らずに両親にもっと優しくしたいと思った。
なんの捻りもない表現だけど、
まるっとゆるく全部がOKなこの感じ
わたしがわたしに対してOKであれば、なんだってOKなんだということ
問題が解決したわけでもないし、答えが見つかったわけでもない。
最初から問題なんかなかったということが、自分への答えかもしれない