遠くを見るような目は、本質を見抜く目でもあるのだろうか。


一時の欲に動かされ、表と裏をつくる人を遠ざけているようでもある。


東大寺戒壇院の広目天のことだ。


唐時代の武将の格好をしている。


戒壇とは戒律を守ることを誓う儀式が行われる場所のことである。


広目天が担当しているのは西方であり、増長天、持国天、多聞天を合わせた四天王の像でこの場が守られている。



簡単に言えば頭を丸める、ということであろうが、当時はお坊さんになれば税を逃れることができた。


それで勝手にお坊さんになる人が続出したのだろう。


そうした人たちは修行することもなかったろう。


鎮護国家という言葉があるように、国家の災いを鎮(しず)める役割が仏教に求められる中で、いわば堕落したお坊さんが増えてしまったことは大きな社会問題であったに違いない。


戒律を守れるものだけがお坊さんとして認められることにしたい。


それが戒律を伝える僧を西方より招こうとした理由だろう。


当初はお弟子さんを紹介してもらうつもりであったらしい。


ところが、意気に感じるところの大きい人だったのだろう。


また頼まれると断れないところもあったのかもしれない。


それを吹っ切るように時折、武士のような個が突出するところがあったのではないかと想像している。


お弟子さんが誰も手を上げないのを見て、


「それなら私が行くことにしよう。」


と鑑真は言った。


鑑真には多くのお弟子さんが付いていくことになった。


日本から招聘のために唐に渡った僧たちもこれに同行する。


しかし、この渡航は簡単ではなかった。


唐の側から行かせないようにという力も働いたし、嵐で船が引き返すこともあった。


失敗を繰り返し、5度目は南の島まで流されてしまう。


行動を共にする人たちは少なくなっていっただろう。


いわば流浪の旅の途中で近しき人を失うことは、鑑真にとって大きなダメージであったに違いない。


それは見たくない現実であったかもしれない。


この旅の疲労の中で鑑真は失明してしまう。


6度目の挑戦で、鑑真は日本の地を踏んだ。


鑑真は東大寺に戒壇を築き、戒律を授けた。


「生き物を殺さないことを守りますか」


「守ります」


「物を盗まないことを守りますか」


「守ります」


そのようなことであったろう。


戒を受けた中に聖武上皇や光明皇太后、孝謙天皇の名前があることを見ても、当時の社会にとっての重要性が想像できる。


ところで、鑑真がもたらしたものは戒律ばかりではない。


漢方薬もその一つだという。


光明皇太后が病気の際、自ら嗅ぎ分け漢方薬を献上したという。



参考図書∶

井上靖著「天平の甍」



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瀬戸の瀬戸物 だてには焼かぬ


どんと積み出しゃ 七つの海に



以上は「瀬戸音頭」からだ。


1949年、瀬戸市政20周年を記念し作られた歌らしいが、歌詞は一般公募だったという。


それまでに瀬戸にあった気運を表しているのではないかと想像している。


瀬戸から、現在はナゴヤドームのある矢田まで瀬戸電が走り始めたのが1905年。


名古屋港が開港したのが1908年。


いわゆるお堀電車を走らせる許可が出たのが1909年。


瀬戸電は名古屋城のお堀の中を通り、堀川へつながった。


堀川を下れば伊勢湾に出ることができる。


話は変わる。


森村家は江戸で武家に出入りする商人の家であったらしい。


ペリーの来航があり、日本が開国に向かう中で、日米修好通商条約が結ばれる。


この条約の批准(ひじゅん、最終的な確認のこと)のためにアメリカに使節団が派遣されるのだが、その時のおみやげと服装と現地で使うお金の手配を、森村家は徳川幕府から頼まれる。


それで徳川家の金庫から金貨と銀貨を持ち出し、横浜の外国人商会に交換に行く。


しかしその時渡された外貨の質が悪く、どうも先方のいいように両替されているのではないかという印象を持つ。


つまり金銀が流出してしまっているという危機感を持った訳だ。


これが森村市左衛門が直接の輸出貿易に乗り出そうと決心したきっかけであったという。


輸出すれば金銀が戻ってくるということであったろう。


では何を輸出するか。


市左衛門は商売で忙しかったのか、弟の豊に福澤諭吉の慶應義塾で英語を学ばせ、ニューヨークに行ってもらうことにする。


最初に兄が弟に贈ったのは、花びんなんかのいわゆる骨董品であったらしい。


それがアメリカで高値で売れたという。


この後、慶應義塾の卒業生をニューヨークで受け入れたりして、商売を拡大してゆく。


当然、現地で何が売れそうかという話に発展していっただろう。


1883年、森村組はニューヨークから送られてきたフランス製のコーヒー茶碗を元に、瀬戸の陶工、川本枡吉に試作を頼んだ。


試行錯誤の末、なんとかこれに成功すると、森村組はつぎつぎとニューヨークから見本を送ってもらい、瀬戸の窯元にその製造を頼む。


こうして、瀬戸の焼き物は発展し、作るものも和物から洋物へ転換していったという。


ところで、焼き物には絵付けという工程がある。


陶磁器に絵を描き、再び焼く。


客先のニーズに合わせるには、絵付けの柔軟性も重要だったろう。


名古屋の地に絵付け工場が集約されたのは、瀬戸と港のその間に位置する地の利が大きかったのではないかと想像している。


さて、日本の陶磁器は生地の色が灰色だ。


これはヨーロッパと比べて原料の粘土分が少ないからであるらしい。


ただし、粘土分を多くすれば焼成温度を上げなければならない。


ヨーロッパでは石炭を使って火力を上げ、光沢があって壊れにくい純白の陶磁器を焼き上げていた。


次はこれにどう対応するかだった。


1904年、森村市左衛門を中心に名古屋の地に「日本陶器合名会社」が設立された。


現在の西区則武新町である。


目的は、輸出用白色硬質磁器を製造するためだった。


会社名は当初「名古屋製陶会社」に決まっていたらしい。


これが「日本陶器合名会社」に変更された。


市左衛門の国家事業を意識した気概の一旦が見てとれるだろう。


原料を集め、調合を行うには、交通の要衝である名古屋は都合のよい場所だったのだろう。


また則武新町の地は名古屋駅から近く、そのわりに土地が安かったのかもしれない。


そして、これから洋物を作ろうという時に、織田信長以来といっていいのか、前例に縛られない尾張の風土が向いていたのかもしれない、などと思う。


尚、日本陶器合名会社は現在ノリタケカンパニーリミテドと名前を変えている。


焼き物は電気を通さない絶縁体でもある。


そうした性質を利用した事業展開として、ノリタケから日本ガイシや日本特殊陶業が枝分かれし、名古屋の街にその名を残している。


最後に余談になるが、則武新町で、キックボクシングのトレーナーと整体をしていたことがある。


整体は、ジムの前に会長が借りていた事務所の一室を間借りして行っていた。


ある時、会長がジムの名前を変えたいと言い出した。


それで、新しいジムの名前というのが、最後に「〜ジャパン」と付いていたのだ。


(あれは、土地の力だったのだろうか?)


などと思い出しながら、これを書いた。



参考文献∶

砂川幸雄著「森村市左衛門の無欲の生涯」



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名古屋の中心部を南北に細長い台地が走っている。


その北端に作られたのが名古屋城だ。


熱田台地の段差を利用し、西国に向けて築かれた城と言っていいだろう。


城ができれば人も集まる。


武家屋敷は、主として城の南側、熱田台地の上に作られただろう。


丸の内から栄にかけてのエリアは今もきれいな碁盤の目の上に建物が並んでいる。


さて、城を作るにも街を作るにも、たくさんの木が要る。


その木はどのようにして運ばれたか。


徳川家康は豊臣秀吉子飼いの武将福島正則に命じ、運河を掘らせた。


例えば、木曽(長野県)の山で切られた木は、木曽川を下り、海を回って、運河を遡り名古屋城下まで持ってこられた。


熱田の港から北上し名古屋城下まで掘られた運河を堀川という。


それは熱田台地に沿うようにその隣を走っている。


武士が集まれば商人もやってくる。


下町というのは、いわば城の防衛ラインの外側にできたりしたのだろう。


武士たちは、坂を下り、運河つまりは防衛ラインである堀川を越えて下町に来ることもあっただろう。


そしてちょっとした用が済むとまた堀川を渡り、坂を登って段差の上に帰っていったのではないか。


たとえば地下鉄丸の内の駅で下り、堀川を渡って円頓寺商店街の方に向かうと、そんな様子が想像できる。


下町でちょっと遊んで、なんてこともあったかもしれない。


前にも書いたが、父方の祖父はお坊さんだった。


父方の家の方の人には、さらけ出した上で、ちょっと悟っているようなところがある。


たぶん神仏に仕えるようなことをしてきた家柄なのだろう。


これに対し母方の家はたぶん武士の家系だろうと思われる。


どことなく、武士は食わねど高楊枝(お腹が減っていても爪楊枝を高々とくわえていないといけない、武士の痩せ我慢やよく言えばその高潔さを表す言葉)のようなところがあるからだ。


父の家と母の家の感じのその段差を、熱田台地の段差に重ね合わせながらこれを書いている。


ところで、私事ではあるが、母方のおじいさんをキヨシさんという。


たしか字は喜義と書いたはずだ。


義を喜ぶ。


つまりは正しいことを喜ぶ、ちょっと正義感に燃えるジャーナリストのような名前だとも思う。


いつの頃であったか朝日新聞の記者をしていたことがあったらしい。


晩年は郷土史家をしていた。


書斎にたくさんの本が並んでいたことを覚えている。


専門は戦国時代だった。


まだ信長や秀吉が若い頃、尾張地方を舞台にしていた頃のことを調べていた。


家系の血がそうさせていたのかとも思う。


キヨシさんのところは大変だった。


子だくさんで、母は六人兄弟姉妹の末っ子だ。


そのうち男の子三人は全員が知的障がい者だった。


今でこそ障害への理解が進んだ社会になってきたが、当時は相当な偏見や差別もあったのだろうと思う。


僕にとって伯父さんたちは、大人なんだけど、子どものような可愛い人たちだった。


近所で迷子になったりするのだけど、またあっけらかんと話しかけてきたりする。


ところが、ちょっとおバカに見える伯父さんが法事の席では誰よりも背筋を伸ばし、微動だにしなかったりするのだ。


子供心にも、そのことをいつも不思議に感じていた。


また母によれば、伯父の一人は、時折切れ味鋭いことを言って周りをびっくりさせるという。


生まれ変わりの歴史からすればいろいろあったのかもしれない。


武士で相手方を滅ぼすこともあっただろう。


その規模が相当で、今その責めを負っているのかもしれないし、人を殺めてきたことを後悔し、もうそういうことが絶対できない立場を自ら選んで生まれてきたのかもしれない。


さて、これは、今朝(2024/6/23)の朝日新聞の天声人語からだ。



「自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」。


日本の兵隊が中国で行った残虐な行為が、裏返ってガマにいた人々の恐怖心につながり、自決を促していた



沖縄戦の悲劇のことを書いている。


人にしたことは自分に返ってくる。


いいことも悪いことも。


沖縄には行ったことはないが、本土と沖縄との間にはきっと段差があるのだろう。


恐怖心を煽りたいのではないが、自分たちでつけたその段差が自分にどう返ってくるのかについてはちょっと考えておきたいと思う。



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陽のあたる坂道を昇る その前に


また何処かで 会えるといいな


イノセントワールド


(Mr.Children「innocent world」より)



最後の坂を登ればもう間もなくだ。


積んできた新聞を配り終える。


そう長い坂ではない。


多少急ではあるが登り終えると、目線はマンションの3階くらいの高さになるので、その段差は6メートルかそこらといったところだろう。


名古屋を東西に分けて考えると、東は山地に近づくのでやや土地が高く、西は土地が低い。


分かりやすく段差がついているのが熱田台地だ。


名古屋の中心部を南北に細長い台地が走っている。


この南端に置かれているのが熱田神宮で、もう少し北上すると、金山駅がこの台地の上に乗っている。


さらに北上し、この台地の北端に城を築いたのが、徳川家康だった。


豊橋から見ても岡崎から見ても名古屋の方角は、だいたい北西である。


東海道を矢印に見立てても、北側と西側に切り立った台地を利用して築かれたこの城はあきらかに西国に向けられて作られている。


時代的には関ヶ原の戦いの終わった後くらいだろう。


大阪城にはまだ豊臣秀吉の遺児、秀頼がいた。


話は変わる。


私事であるが、大学受験では大阪の関西大学に受かり、東京の法政大学に落ちた。


勉強に力をかけてきた英語の出来は両方まずまずといった感じだったので、差がついたとしたら、日本史ではなかったか。


ありがちな話であるが、古代から現代の方へ順に勉強していくので、時間的な制約で現代がどうしても手薄になる。


東京ではその手薄になったところが多く出題された印象があった。


さて対立を煽りたいのでは決してないのだが、わかりやすく言えば、西の方には、


(日本が治まってきたのは、京都の天皇と公家と寺社があればこそ。


東の方に暴れる連中がいただけ)


という感じがあり。


東の方には、


(武士こそが歴史を作った。


公家なんて和歌を詠んで蹴鞠してるだけ)


という感じがあるのではないか。


徳川家康は鎌倉の源氏を意識して征夷大将軍になったであろうし、幕府を開いた江戸が現代の首都東京の前身となっている。


徳川家康は死後、東照大権現と呼ばれることになる。


これが朝廷からおくられた名前だとしたら、読んで字のごとく、東を照らす神様のような人、という意味合いではないかと思う。


家康のことは神君として認めるけど、担当は東の方だよね、ということだ。


さて、東とはどこからを言うのだろう?


そんなことを考えて、思い浮かんだのが、毎朝原付バイクで駆け上がるあの坂のことだった。


さて、名古屋城は天下普請の城である。


今でいう公共事業ということであるが、税金が投入されたわけではなく、技術と労力を持ち寄って工事が行われた。


家康が関ヶ原の戦いに勝ち、江戸に幕府を開いた後のことだろう。


その仕事は主に西国大名に振り当てられたらしい。


その中には、加藤清正、福島正則、黒田長政なんかの名前も見える。


豊臣秀吉子飼いの武将たちだ。


秀吉は一代での成り上がりで、家臣団を持っていなかった。


正室ねねとの間に子供ができなかったこともあり、親類筋などから引っ張ってきては可愛がったのだろう。


ねねは、人の心理を見抜く天才とも言える秀吉とコンビを組んだ人である。


家康の器量については早くから見抜いていただろうと想像している。


加藤清正、福島正則、黒田長政が秀吉死後の関ヶ原の戦いで家康についたのは、石田三成との不仲のこともあるが、ねねの影響もあったのではないかと想像している。


関ヶ原の戦いの後はその働きが認められ、領地が大きくなったりしている。


しかし、家康からすれば、まだ大阪城に秀頼がいるのに、豊臣家臣を太らせるのは危険な行為でもあったに違いない。


名古屋城の天下普請は西国大名たちを痩せさせる意味合いも含まれていただろう。


名古屋城はシュッとしたお城ではない。


デーンと構えている。


なんでこんなところにこんな大きなものが建っているんだろう?というくらいにデカい。


それは家康の(いざという時は、ここで食い止める!)という意志の表れであり、(刃向かっても無駄だ!)と相手方をあきらめさせるような誇示の表れのような気もしている。


加藤清正や福島正則にとっては、生まれ育った故郷に天下普請で立派な城を建てる、その仕事が自分に回ってきたことは誇らしくもあったのであったのではないか。 


西国に領地をもらったのは島津や毛利を抑えるためでもあっただろう。


ただ作っているその城が、親代わりだったかつての主君の城にも向けられていることは複雑な思いだったのではないか。


以上、東と西のせめぎ合うところ、名古屋からお届けした。












山伏というのは、山を神や仏に見立てて修行している人たちのことだ。


修行の結果、おまじないの力を使えるようになったりする。


山伏が、ブゥーオーと法螺貝を吹くのは、魔除けの意味だろう。


それで野獣に退散願ったりする。


またその音色には仏の説法も重ねられているらしい。


傍(はた)からすれば、いいものを聴かせてもらった、ということになるのだろうか。


山伏たちは、山から下りてきたという体(てい)であったらしい。


山伏たちに扮していたのは伊達政宗とその部下だ。


山伏たちは休むところを探していた。


茶屋から下人が出て、山伏たちに声をかける。


「お客の僧よ、お立ち寄りください。


お茶でも何でもお代次第でお望みのものをお出しします。」


下働きの男に扮していたのは、時の天下人、豊臣秀吉である。


茶屋にはお客に扮した徳川家康や前田利家もいる。


秀吉は企画好きであったらしい。


折に触れ、こうした仮装による即興コントを催している。


これは吉野山の花見の時の話だ。


山伏・政宗はこう答える。


「山から駆け降りてきて足が疲れた。


お茶よりも酒が飲みたい。」


言っていることが無茶苦茶である。


そして部下に法螺貝を吹けと命じる。


部下は躊躇なく法螺貝を二度三度吹き鳴らすと、


「斎料(ときりょう)をください」


と言った。


斎料というのは法事の後の会食にかかる費用なんかのことだろう。


いわばインチキな山伏が法螺貝を吹いてお布施(お金)を要求してきた、というわけだ。


これには一同大爆笑であったらしい。


功罪いろいろあれど、豊臣秀吉の功績のひとつは、日本社会が大きくは一階級であることを身を持って示したことではないかと思っている。


桜の下の平等といったものは、今の花見のスタイルにもつながってきているという。


話は変わる。


三河時代、つまりは大名として駆け出しの頃の徳川家康は、夏に麦飯ばかり食べていたらしい。


部下たちはこれを見て、美味しいものを食べさせようとしたのだろうか、米の飯の上に薄く麦の飯を乗せて出した。


しかし、家康はこれを喜ばなかったという。


家康が麦飯ばかり食べていたのは、ケチだからというわけではない。


時は戦が頻繁に起きる戦国時代だ。


どうして自分ひとりが贅沢できるだろうか、という思いがあったらしい。


その思いがそのまま天下人の在り方につながっていくようなエピソードだ。



参考文献∶

榎本秋編訳「超約版 家康名語録」



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