「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師。


これぞ朕(ちん)が心にままならぬもの。」


平安時代後期、院政を始めた白河法皇にも思うままにならぬことが三つあった。


最後に出てくる山法師というのが延暦寺の僧兵のことだ。


延暦寺というのは、京都の東側、京都を守るように座る比叡山の、山の上にあるお寺のことである。


そこのお坊さんが武装して手が付けられなくなっているというわけだ。


ついでにいえばモラルに欠けるところもあったのだろう。


時代はだいぶ下るが、織田信長の焼き打ちに遭ったりもしている。


延暦寺は最澄が開いたお寺だが、長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)が修行したのは、空海の方の根来寺や高野山であったらしい。


モラルという点ではどうであったろう?


根来寺というのは、当時、根来衆という大規模の僧兵軍団を抱えており、相当な数の鉄砲を持っていた。


軍事面でも先進的であったと言っていいだろう。


高野山では木食応其(もくじきおうご)に付いて学んだという。


木食応其は豊臣秀吉に協力し、外交をしたり、方広寺大仏殿の造営に当たったりしたお坊さんだ。


薩摩(さつま=鹿児島県)の島津義弘(しまづよしひろ)が長寿院盛淳を家老として重用したのは、それなりに気が合うところがあったのであろうが、長寿院盛淳に、横につながる力と軍事面を含めた上方(かみがた=関西地方)の情報に通じているところを観て取ったからだろう。


島津義弘は戦略家でもあった。


島津義弘は島津四兄弟の次男である。


当主は長男の義久で、主として兄の義久が家を守り、弟の義弘が前線の将軍を務めるような役割分担ができていたのだろう。


豊臣秀吉は弟の義弘の方を厚く遇した。


これは島津家の力を弱めるための分断を狙ったものだったとも言われている。


当主の義久は豊臣政権と一定の距離を取ろうとする。


兄の義久にとって、義弘に付いた長寿院盛淳の存在は、弟と中央をつなぐ存在として疎ましく見えただろう。


豊臣政権の命で、島津義弘は朝鮮に渡った。


長寿院盛淳もこれに従う。


朝鮮での島津軍は少数で多数を打ち破るような活躍をしたらしい。


朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれ恐れられたという。


義弘が鬼島津と呼ばれるようになるのはこの時からだろう。


ところで、長寿院盛淳がもたらした上方の情報の中には、茶道のことが含まれていたのではないか。


当時は貴族や豪商や武将の間で茶道が相当に流行っていた。


茶器は貴重な価値を持つに至った。


特に渡来物が珍重されたという。


この時はモラルがない方向に転がったというべきだろう。


朝鮮における南原城の戦いで、逃げ遅れたものたちを島津軍は捕虜にする。


そのうち、製陶の技術を持ったもの、つまりは焼きものを焼ける者を見つけて日本に連れて帰ってしまうのである。


今の言葉で言えば拉致(らち)と言っていいだろう。


朝鮮の方には大変申し訳ない話なのであるが、大雑把には茶器を自分のところで作ろうというのである。


製陶の一団が落ち着いたのは、苗代川(なえしろがわ)というところらしい。


その辺りの山が南原城から見る景色に似ていたからだという。


しばらくは忘れられ、放っておかれたのだろう。


しかしやがては当主の耳に入り、一団を鹿児島城下に移住させよということになった。


屋敷も与える。


しかし、一団は動かなかった。


長老が言うことには、理由は二つあった。


一つ目は鹿児島城下には裏切り者が住んでいるということ。


その者は南原城の戦いの折、島津勢に寝返り、城内の道案内を務めた。


豊臣秀吉が亡くなり、日本軍が撤退する段になり、その者は居場所がなくなり島津の家臣にしてもらったと聞いている。


君父の仇(あだ)は倶(とも)に天を戴(いただ)かず。


主君や父親の敵とは同じ空を見上げることはできないということだろう。


二つ目は、と聞かれ、長老はあの丘を見よと言った。


あの丘に登れば、我々がやって来た海がある。


その海の向こうに朝鮮がある。


我々は先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、あの丘に立って先祖を拝めば、朝鮮の山河が応え、先祖の霊を慰めることができるだろう。


涙ながらにそう語った。


この話は島津義弘に伝わった。


義弘は、それならば苗代川に土地と屋敷を与えよと言った。


身分も武士同様に礼遇されることになったという。


この辺りの話は司馬遼󠄁太郎の「故郷忘じがたく候」という短編小説が詳しい。


義弘は作陶を随分バックアップもしたらしい。


適した土を見つけるのに、地理にあかるい家臣を一団に付けたりもした。


出来上がった白い陶磁器は、白薩摩と呼ばれた。


義弘はこれと黒薩摩を使い分け、白薩摩を島津家の御用専用ということにして、その希少価値を高めたりもしたらしい。


義弘晩年の話である。


さて、話は朝鮮から帰った後の頃に戻る。


豊臣秀吉が亡くなり天下は動く。


島津義弘は関ヶ原の戦いに参戦する。


当初は徳川家康から誘いを受け、東軍に加わるつもりだったらしい。


徳川家臣の鳥居元忠が守る伏見城に入ろうとするのだが、徳川方の連絡ミスで、入れてもらえなかったらしい。


それで石田三成の西軍に加わるのだ。


プライドの高さと反骨心もあっただろう。


石田三成はがっくり来たらしい。


それはあの鬼島津が1000人ほどの部隊しか率いていなかったからだ。


薩摩の国内で内乱があったことが影響していたらしい。


これで石田三成からは軽く扱われることになる。


長寿院盛淳について言えば70人ほどで薩摩から駆けつけたらしい。


義弘から陣羽織(じんばおり)を、石田三成から軍配(ぐんばい)と団扇(うちわ)を賜わったと言われている。


石田三成とは旧知の仲だったからだろう。


関ヶ原の戦いで島津軍は動かなかった。


義弘のプライドの高さと反骨心をくすぐるような出来事が、その前に起きていたのではないか。


一説には、前哨戦で前線に取り残されたこと、夜襲をかけることを主張するも石田三成の理想論に一蹴されたことなどが言われている。


夜襲を提案したのは、西軍のような寄せ集めのチームで徳川のような相手を打ち破るのは難しいと見ていたからだろう。


それ以上に、難しい政治状況に置かれていたのかもしれない。


西軍が総崩れになると島津義弘は正面突破して、薩摩に帰ることを決める。


前線にいた東軍の福島正則は深追いしなかったらしい。

 

相手となったのは、井伊直政や本多忠勝といった徳川四天王と呼ばれる徳川家臣たちの部隊だろう。


義弘に可愛がられた甥っ子の島津豊久や義弘に重用された家老の長寿院盛淳は、義弘の影武者となったらしい。


義弘を先に行かせる段取りをしたあと、追ってくる敵を待ち構えてこう言ったに違いない。


「我こそは島津義弘なり」


そうやって甥っ子の豊久も、家老の盛淳も、薩摩の伝統の中に生きたのだろう。


義弘は薩摩に帰り着いた。


1000人ほどの部隊は何十人ほどになっていたらしい。


その後、朝鮮からの一団の話を聞くところへとつながる。



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「現地には欠かせない人材だと考えております。」


たしかそんな言葉でねぎらってもらったと思う。


現地で結んだ契約を日本に報告した時の話だ。


今となれば、若い営業員をよく海外に出してくれたと会社に対しては有り難い思いの方がはるかに大きいのだが、当時はその言葉を読んで、


(日本に帰ってくることはあまり期待されていないのだな・・・)


と先の薄暗さと共に少しだけ寂しくも感じたりした。


そういうところから、ヤマトタケルノミコトの哀しみについて想像を膨らませている。


西の熊襲(クマソ)を平定したと思ったら、今度は東へ行けと言われたからだ。


指示をしたのは、自分の父親である景行天皇だろう。


ヤマトタケルノミコトには少々気性の激しいところがあり、外に出されたというのが実態であったのではなかったかと想像している。


それが向いていると判断されたところもあったろうが。


ヤマトタケルノミコトは伊勢神宮で剣(ツルギ)を受け取り、東へ向かう。


尾張(愛知県西部)でヤマトタケルノミコトを出迎えたのはタケイナダネノミコトという人であったらしい。


タケイナダネノミコトのバックボーンは尾張氏というこの地方の豪族だった。


尾張氏は水軍を抱えていた。


船からもたらされる遠方の情報も抑えていたに違いない。


つまり当時は尾張が東国への玄関口のような役割を果たしていたのではないかと想像している。


そういうバックボーンを持った人が、ヤマトタケルノミコトの東征に、副将として付けられたわけだ。


タケイナダネノミコトはヤマトタケルノミコトを自分のところの舘で休ませたりしただろう。


偶然を装ったかどうかはわからないが、その時に妹を紹介したのだろうか。


たとえば中央の貴人が田舎を訪れた場合。


田舎の側としては貴人にしっかりとした足跡を残してもらいたいと考えるかもしれない。


それを中央とのつながりとして、子孫の繁栄を考えるわけだ。


妹の名をミヤスヒメという。


ヤマトタケルノミコトはミヤスヒメと懇意になった。


東へ行き、帰ってきたら、結婚するという話になってもおかしくはない。


ヤマトタケルノミコトは皇子であって、妻は他にもおられたのであるが。


ヤマトタケルノミコトは出発した。


タケイナダネノミコトとは二手に分かれて進軍し、また二手に分かれて帰ってくることを計画していたのではないか。


剣は途中、抵抗する地方から火攻めに遭った時に役に立った。


周りの草を薙ぎ払い、その場を凌いだのだろう。


これが由来となり、その剣は草薙の剣と呼ばれることになる。


海では嵐にあった。


船は転覆しそうになる。


その時、東征の旅に同行していた妻のオトタチバナヒメは自らの身を海に投げた。


自らの身と引き換えに海を鎮めようとしたのだ。


ヤマトタケルノミコトは心の波を静めるのに必死だったろう。


そんなことがありながらも、ヤマトタケルノミコトは東の蝦夷(エミシ)を平定した。


尾張へ帰ってくると、ミヤスヒメと落ち着くことになった。


しかし、伊吹山に荒ぶる神がいると聞いて、また出ていくのだ。


持ち前の気性のこともあったかもしれないし、複雑な思いをふっ切りたいところもあったのかもしれない、などと思う。


その時、例の草薙の剣はミヤスヒメに預けたらしい。


伊吹山へ出かけていったっきりヤマトタケルノミコトが帰ってくることはなかった。


伊吹山で受けたダメージが元で、ヤマトタケルノミコトは亡くなってしまうのだ。


ミヤスヒメはこの剣をまつって社(やしろ)を建てた。


これが熱田神宮の起源であるらしい。


ヤマトタケルノミコトが日本史の最初のヒーローともいうべき人物であるのは、西へ東へ古代日本の統一に大きな功績を果たしたからだろう。


身内である統治者から遠ざけられた哀しみを併せ持ったところも日本人の心に響くところがあるのかもしれない。


その彼が使った剣が熱田神宮に収まったというところがまた面白いと思っている。


熱田神宮のすぐ近くには白鳥古墳という前方後円墳があり、これがヤマトタケルノミコトを祀ったお墓だと言われている。


熱田神宮も白鳥古墳も熱田台地の上に建てられている。


当時はもっと海が迫っており、熱田台地は海に突き出す岬のようであったらしい。


船で近づいてくるものの目からは、神宮の森も、前方後円墳の形もよく見えたことだろう。


前方後円墳の形を、武器の盾(たて)を伏せた形であると考える説があることは最近になって知った。


船で近づいてくるものの目に、それが不戦の誓いであり、平定の証のように映っていたなら、よかっただろうと思う。


最後にヤマトタケルノミコト東征の副将であったタケイナダネノミコトは尾張に帰ってくることはできなかった。


東征の帰路、駿河(静岡県中部)の海を進んでいたタケイナダネノミコトはめずらしい海鳥を見つけ、捕まえようとして海に落ちたらしい。


それをヤマトタケルノミコトに献上しようとしたのだという。


その体は三河湾の宮崎(愛知県西尾市吉良町)というところに流れ着いたという。



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山川異域

(山川域を異にすれども)


風月同天

(風月天を同じゅうす)


寄諸仏子

(これを仏子に寄せて)


共結来縁

(共に来縁を結ばん)



奈良時代、日本の長屋王が唐に送った1000着の袈裟(けさ=お坊さんの衣装)の縁(へり)にこう刺繍されていたそうです。


(場所や国は違っても、風や月といった自然そして心はつながっています。


この袈裟を同じ仏の弟子である皆さんに贈ります。


共に来世で縁を結ぼうではありませんか)


というような意味でしょうか。


これに鑑真は心を動かされたようです。


鑑真が日本行きを決意する背景に、ひとつこのことがあったのではないかと言われています。


ところで、江戸時代の俳人、松尾芭蕉は俳句を詠むコツをこのように語っています。


「高く心を悟りて、俗に帰るべし」


詩の心は高く保つように心掛けて、また具体的な生活の一場面に帰っていく。


そうすれば卑近な例を出しても、俗っぽくはならない。


というようなことかと思います。


俳句の詠み方を教えてくれているようで、実は生活と心のあり方を教えてくれているような大事な話ではないかと思っています。


仏教の天台宗に「一心三観」という教えがあります。


難しいことはわからないのですが、これも芭蕉の「高く心を悟りて、俗に帰るべし」と似たようなことを言っているのではないかと想像しているのです。


一切の存在には実体がないと観ることが「空観」。


それらは仮に現象しているだけだと観るのが「仮観」。


この二つも一つであると観る「中観」を同時に体得しなさい、という教えらしいです。


この世界は仮に現象しているだけのものだから、とらわれてはいけない。


そういう高いところに達したお坊さんに、悩みを相談にしに行ったとして、「それはとらわれです」と言われてしまったら、にべもないでしょう。


だからお坊さんは他人の喜びや悲しみを我がものとする方へ帰っていくんじゃないか。


鑑真は戒律のあり方を伝えてほしいという日本側の要請で日本に行くことになるわけですが、鑑真のバックボーンには律宗以外にも天台宗がありました。


天台宗は全部の教えが大事ですというようなところがありますから、いろんな経典を一緒に持ってきたのではないか。


最澄は鑑真の残した経典にふれて、唐に学びに行こうと決意したと言われています。


鑑真の伝えた戒律は簡略化される方向に進んだのでしょうが、最澄は仏教の総合大学ともいうべき延暦寺を開きますから、そちらの流れを評価する向きもあるようです。



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行ってみたら、思っていたのと違っていた。


唐からはるばるやってきた僧が建てたお寺だというからもっとデーンとしているかと思ったのだ。


寺というよりも家に近いような感じがした。


それも平屋建てに感じる、あの和(なご)みのある感じだ。


その分、空は広く、大らかさの中に立っているようでもある。


たぶん小学校の修学旅行の記憶を頼りにこれを書いている。


いい意味で予想を裏切ってくれたのが、唐招提寺だった。


鑑真は6度目の挑戦で日本の地を踏む。


最初の決意から随分時間が経っていただろう。


東大寺に戒壇を築き、戒を授ける。


唐招提寺はその鑑真の隠居先と言ってもいい場所だろう。


当初は寺とも言えないようなところだったらしい。


永井路子の小説「氷輪」を読むと、寺と呼べる形を整えるのに随分と時間がかかっていることがわかる。


井上靖の「天平の甍」の続編とも言うべき作品だ。


大変であったろうが、権力と一定の距離を置いた分、民間の良さが出ているようなお寺になったのではないか。


現在の唐招提寺は律宗の総本山となっているらしい。


律宗というのはたしか南都六宗の一つだったはずだ。


南都とは京都に対する奈良のことで、奈良で栄えた仏教の宗派のひとつが今も続いていると考えたらいいだろう。


律宗では「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」というのが教義のベースになっているらしい。


それは止悪、作善、回向衆生という3つの戒から成るという。


止悪というのは、具体的なルールを守って悪事を避けましょうということ。


作善というのは、悟りを得るために積極的に善を実践しましょうということ。


回向衆生というのは、人々を愛して利益を施そうとしましょう、つまりは皆のために尽くしましょう、ということらしい。


戒律というとタテに厳しいイメージがあるが、全体としては社会をヨコに落ち着かせるような内容だと思う。


ちなみに具体的なルールというのは、ブッダの頃からあったものではなく、だんだん増えていっていったものだろう。


お坊さんはひと目のつかないようなところで女性と二人でいたらいけないというようなルールまであるらしい。


社会の中で信用を得て、いかに仏教教団を成り立たせていくかというところで苦労があったのだろう。



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遠くを見るような目は、本質を見抜く目でもあるのだろうか。


一時の欲に動かされ、表と裏をつくる人を遠ざけているようでもある。


東大寺戒壇院の広目天のことだ。


唐時代の武将の格好をしている。


戒壇とは戒律を守ることを誓う儀式が行われる場所のことである。


広目天が担当しているのは西方であり、増長天、持国天、多聞天を合わせた四天王の像でこの場が守られている。



簡単に言えば頭を丸める、ということであろうが、当時はお坊さんになれば税を逃れることができた。


それで勝手にお坊さんになる人が続出したのだろう。


そうした人たちは修行することもなかったろう。


鎮護国家という言葉があるように、国家の災いを鎮(しず)める役割が仏教に求められる中で、いわば堕落したお坊さんが増えてしまったことは大きな社会問題であったに違いない。


戒律を守れるものだけがお坊さんとして認められることにしたい。


それが戒律を伝える僧を西方より招こうとした理由だろう。


当初はお弟子さんを紹介してもらうつもりであったらしい。


ところが、意気に感じるところの大きい人だったのだろう。


また頼まれると断れないところもあったのかもしれない。


それを吹っ切るように時折、武士のような個が突出するところがあったのではないかと想像している。


お弟子さんが誰も手を上げないのを見て、


「それなら私が行くことにしよう。」


と鑑真は言った。


鑑真には多くのお弟子さんが付いていくことになった。


日本から招聘のために唐に渡った僧たちもこれに同行する。


しかし、この渡航は簡単ではなかった。


唐の側から行かせないようにという力も働いたし、嵐で船が引き返すこともあった。


失敗を繰り返し、5度目は南の島まで流されてしまう。


行動を共にする人たちは少なくなっていっただろう。


いわば流浪の旅の途中で近しき人を失うことは、鑑真にとって大きなダメージであったに違いない。


それは見たくない現実であったかもしれない。


この旅の疲労の中で鑑真は失明してしまう。


6度目の挑戦で、鑑真は日本の地を踏んだ。


鑑真は東大寺に戒壇を築き、戒律を授けた。


「生き物を殺さないことを守りますか」


「守ります」


「物を盗まないことを守りますか」


「守ります」


そのようなことであったろう。


戒を受けた中に聖武上皇や光明皇太后、孝謙天皇の名前があることを見ても、当時の社会にとっての重要性が想像できる。


ところで、鑑真がもたらしたものは戒律ばかりではない。


漢方薬もその一つだという。


光明皇太后が病気の際、自ら嗅ぎ分け漢方薬を献上したという。



参考図書∶

井上靖著「天平の甍」



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