はじめに
1月26日の「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、池田SGI会長は「人道的競争へ新たな潮流」と題する提言を発表しました。
提言では、グローバルな金融危機を招いた背景にある拝金主義の問題に言及。
資本主義が直面する課題を乗り越えるためには、創価学会の牧口初代会長が100年余り前に提起した「人道的競争」という概念を踏まえつつ、パラダイム・シフトを図る必要があると訴えています。
具体的には、「世界食糧銀行」の創設と人道基金の拡充で、“地球社会のセーフテイーネット„を整備する重要性を強調。
核軍縮の分野では「米口首脳会談」の早期開催と、「核兵器禁止条約」の交渉開始を呼びかけています。
最後に21世紀の国連を展望し、”民衆の顔をした国連”に向けて市民社会担当の事務次長の設置などを提唱しています。
2009年2月 創価学会広報室
現代文明の混迷広げる「抽象化の精神」の罠から脱しー試練に立ち向かう人間の凱歌を!!
アメリカのサブプライムローン(低信用者向け高利の住宅ローン)の焦げ付き、
リーマン・ブラザーズの経営破綻などに端を発する、昨年(2008年)秋のアメリカ発金融危機は、「100年に1度」といわれる衝撃をもってグローバル社会を襲いました。
それは、経済恐慌から世界大戦へと転落の道を歩んでしまった1930年代の悪夢を想起せざるをえない。
暗夜を手探りで進むような状態が続いていますが、金融危機は、世界的な景色の後退、雇用情勢の悪化など容赦なく実体経済の足元を脅かしており、80年前の大恐慌が、金融危機から1、2年を経過して、本格的なパニック(混乱)に陥ったことを考えると、事態の推移はまったく予断を許しません。
人間は、平和に人間らしく暮らす権利を持っております。大多数の人は、そのために孜々として怠らずに、日々の営みを続けており、その生活基盤が、予想だにせぬ、しかもほとんど関知しない次元からの「津波」のような衝撃によって翻弄される事態などあってはならない。
事態をこれ以上悪化させないためにも、各国は、より一層緊密に連携をとりながら、財政、金融等あらゆる面で、招致を結集し、後手にならぬよう、全力で取り組んでいってほしいと思います。
「貨幣」に対する際限のない欲望
今回の破綻の最大の原因は、いうまでもなく、一説には世界のGDP(国内総生産)の4倍にものぼるとされる金融資産の跳梁跋扈にあります。
「暴走する資本主義」「強欲資本主義」等の言葉が飛び交っているように、本来、経済活動を円滑化するための”脇役”であるべき金融が、”主役”の座を占拠し、それがどのような余波をもたらすかなど我関せず、ひたすら利益、設けのみを追い続ける人々が、時代の寵児のごとくもてはやされてきました。
金融危機の根にひそむ拝金主義
その根底には、この提言で何度も警告してきたように、「貨幣愛」にとりつかれたグローバル・マモニズム(拝金主義)ともいうべき文明病が横たわっております。
イデオロギー崩壊後の世界の潮流は、ポスト冷戦への人々のほのかな期待をあざ笑うかのようにマンモン(富の神)の宰領する世界になってしまったといっても過言ではない。
グローバルな市場経済を差配する「貨幣」とは、紙か金属片(最近では電子情報)にすぎず、周知のように使用価値は、皆無に近い。有するのは、交換価値のみです。
交換価値とは、人間同士の約束事として成り立っているもので、本質的に抽象的、非人称的な存在といってよい。
それは、財やサービスのように具体的なそれゆえに限定的な対象物をもたず、際限のない広がりを持つ。
欲望の対象として限界がない。そこに「貨幣愛」というものの特徴というか宿命的な病理があります。
哲学者マルセルが警告していたもの
金融市場のみならず市場経済全体を貫く「効率性と不安定性との根源的な『二律背反』」が指摘される所以でしょう。
利潤をあげるための限りなき効率性の迫求と、実体の裏づけを欠く貨幣というものの不安定性ーそれは、「個人」の自由な経済活動を基調にした市場経済が発達した現代の宿命といえるかもしれません。
ところで、哲学者のガブリエル・マルセルが、第二代世界大戦を顧みながら、「抽象化の精神ー戦争の要因たるもの」という興味深い論点を提起していたのを記憶しています。
いうまでもなく抽象作業そのものは、人間の知的な営みに欠かせないものです。
早い話「人間」などというものは存在しない。実質は、日本人やアメリカ人であり、男や女であり、青年や壮年であり、何々県人でありと細分化していくと、つまるところ、十人十色一人として同じ人間はいません。
それが具体性の世界の実像です。それをきちんと踏まえた上で「人間」を論じないと抽象概念が独り歩きしてしまう。
マルセルいうところの「抽象化の精神」とは、その具体性から乖離した悪しき独り歩きの謂であります。
人間は、例えば戦争に参加するとなると、個々人の具体的な人格的特性をすべて捨象し、敵を抽象的な概念ーファシスト・コミュニスト、シオニスト、イスラム過激派、等々ーで括ろうとする。
マルセルが分析するように、「これらの存在者を絶滅する用意をせねばならなくなるその瞬間から、まったく必然的に私は、亡ぼさねばならないかもしれないその存在者の個人的実在についての意識を失ってしまう。
かかる人格的存在を蜉蝣のごとき姿に変えるためには、是非ともその存在を抽象概念に変換してしまうことが必要」だからです。そうでなければ、戦争参加を意義づけ、正当化することはできないからです。
一番の問題は、そうした「抽象化の精神」は、ニュートラルで没価値的な境位に止まっていず、「価値貶下的な帰納」を引き起こす「情念的側面」、怨念を随伴している点にあります。
すなわち、抽象的概念で括ったとたん、それらは無価値なもの、低級なもの、有害なものとして、駆除されるべき対象の位置まで貶められてしまう。
人格的存在としての「人間」は不在となる。「抽象化の精神は情念的な本質をもっているものであり、逆にいえば、情念が抽象物を捏造する」と述べるマルセルは、故に自分の哲学上の全仕事は「抽象化の精神に対する休みなき執拗な闘い」と位置付けている。
この指摘は、今なお、光を失っていないと思います。
