今日もありがとうございます✨

 

昨日、福岡の祖父について書いたので

 

せっかくなので 長崎の祖父についても

 

(自分の中で整理するためにも) 書こうと思います

 

 

 

 

私の幼少期は、仕事で忙しかった両親の”代わり”に

 

長崎の祖父母にも、よく面倒をみてもらっていました

 

車で20〜30分くらいのところにあった

 

当時の祖父母の家と、実家の官舎

 

「毎日」ではないはずなのに、感覚的には「ほぼ毎日」

 

会っていたような気がするくらい、近しい距離感でした✨

 

今は亡き祖父のキンナンバーは K91

 

青い嵐【かまどの神】に相応しく とてもグルメで

 

美味しいものも、沢山食べさせてもらった記憶があります…

 

 

 

親戚の方の結婚式にて 右端にわずかに写っているのが祖父

長崎の丸山?花月?で一緒に踊らせてもらった貴重な記憶です

 

 

 

私が長崎の田舎っ子で生まれ育ち

(登下校中は人様の田畑で悪さをしたり、虫を使って遊んだり…)

 

テレビで見る【東京】の世界は、あまりにも人が多すぎ

 

フィクションなんだろうと 本気で信じ込んでいたくらいでした。笑

 

でも、小学校卒業と同時に、環境がガラッと変わることが決まった時

(私にとって、黄色い時代の13年目〜赤い時代の1年目でした)

 

イギリスに行く私に 祖父がくれた手紙には

 

『じいちゃんは、達磨さんが好きです。

 

 達磨さんは転んでも、何度でも起き上がります。

 

 絵美ちゃんも、達磨さんのように

 

 人生、七転び八起き

 

 強い女性でいてください』

 

 と書かれていたのを覚えています✨

 

(実際に私&伯父K249七転び八起き”のエネルギーです👀✨)

 

 

 

 

 

 

その言葉を胸に 渡航させてもらった初、海外生活10ヶ月間✨

 

その出発前も 数ヶ月間毎日家に通って

 

「引っ越しの手伝い」をしてくれたり

 

イギリスにいても、慣れない食生活のために

 

一生懸命「あさげ(インスタントの味噌汁)」など荷物を

 

準備して 送ってくれました🙏✨

 

 

 

 

帰国後、高松に引っ越して そこで不登校が始まるのですが

 

同時に祖父が【(現役時代の)アスベストが原因で】重病に

 

祖母が『どうせ学校に行かんとやろ?来てくれんね!』…と

(今思えば、さすが”祖母”だなと改めて思います😆)

 

『看病する』という名のもと

 

長崎に1年半ほど『避難』させてもらいました🙏

 

祖父は現役時代は『親父』と 班の部下さん方から慕われるほど

 

とっても面倒見が良くて

 

定年後は趣味のガーデニングを 一生懸命して

 

道通りゆく人に「綺麗ですね」と楽しんでもらうことが

 

生き甲斐として、朝から夕方まで 植木の手入れをしていました

 

 

 

 

そんな祖父が現役時代、溶接などの火除けのために?

 

使っていたらしい【アスベスト】

 

近年ではその【危険性】が証明され、労災が出るようになり

 

私も(福岡の祖父母のみならず)かなり 

 

長崎の祖父母から『援助』をもらって おかげさまで生きているのですが

 

それも、祖父が体を張って仕事をしてくれた…  その労災様様のお陰もあって

 

それを祖母が快くシェアしてくれて、今日の私もあります🙏😭

 

 

 

 

 

 

…もちろん、『お金』でも支えてくれているのですが

 

何より私の【人生の糧】になったのは

 

祖父の【看取り】をさせてもらったこと

 

最後の2日間は、今でも鮮明に思い出せます🙏

 

ふとした言動に、母が「ヤバイ!」と思い

 

父を香川から呼び寄せて

 

親戚や元会社の人にも、連絡をしまくって

 

お見舞いに来てもらいました。

 

一時、私のを握っている時に「息を引き取った」のですが

 

それからみんなで「呼びかけて」 最後にもう一度息を引き返してくれました

 

『じいちゃん、分かる?〜さん、来てくれたよ!』

 

来ていただいた方を 一人一人 近くにお呼びして

 

祖父も喋れずとも「しっかり目を見開いて」

 

まるで「目で訴えかける」ように”会話”して

 

ありがたいことに、沢山の方が来られて

 

最後の方まで「挨拶してもらった」

 

夜中の2時半…

 

祖父はスッと息を引き取りました🙏

 

真夜中の病院だというのに 

 

(病院の人以外で) 約14人くらいの人に囲まれ

 

みんなにされながら、祖父もみんなをしながら

 

あの世に旅立った夜を思い出すと 今でも涙が滲み出ます

 

 

 

 

お葬式も300人以上の方が 来てくださり

 

祖父の『親父』親しまれていた 人柄

 

最後の最後まで 感じることができました🙏

 

 

 

 

 

 

私はというと 不登校時代、うつ病にもなっていたので

 

変な話、毎日「死ぬこと」にフォーカスをしていました

 

自分の意思ではどうしようもできない なにかが自分の中にあって

 

本当に踏み外しそうになった時 母親の一言が「引き止めて」くれた経験も

 

何度もあります🙏

 

でも、祖父を【看取らせてもらった】その瞬間から

 

私の魂は 再び【生きること】へのフォーカスを始めました✨

 

 

 

 

 

 

ゆっくりだけれど、人様と「お会いする」ことを始めたり

 

お参りに来てくださる人様と「お話する」機会があったり…

 

ゆくゆくは、父が見つけ出してきてくれた

 

三重県の全寮制の高校に「行ってみる」ことを 心に決め

 

(入学金が高かったのですが、それも祖父母が払ってくれました)

 

私の人生、次の章に行くのでした…

 

 

 

 

 

 

 

こうやって見てみると、人生 いろんな章があって

 

それぞれの場面で、いろんな人に 助けられているんだなぁって…

 

2歳から始まった シャフリングベイビーの章

6歳から始まった 食育の章

12歳から始まった イギリス滞在の章

13歳から始まった 不登校&うつ病&看取りの章

15歳から始まった 高校生活の章

20歳から始まった トルコでのご縁の章

23歳から始まった 就活失敗の章 …そして

26歳から始まった ルクセンブルク生活の章

 

でもやっぱり、私は赤い龍「ガイド」に持っているので

 

人様の【命】と関わらせてもらった時に

 

人生が大きく変わる

 

変な話(うまく言い表せませんが)

祖父の【死】と引き換えに 私の【生】をいただいた🙏✨

 

 

 

 

そんな気がします

 

 

 

 

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

 

引き継がれる 命のバトンに感謝

 

Stay safe,

 

with love