みなさま、こんばんは。

あの地震から、2年が過ぎようとしています。

私はあの2011年3月11日、どんな事を思い、何をしていたのか?と考えつつ過ごしました。
あの日は、10階のオフィスで地震にあい、直後私の東京の実家の母親に電話をして普通につながり、無事を確認したところで、主人に電話をしたら繋がりませんでした。主人とはメールで無事を確認。主人の実家の気仙沼には電話は繋がりませんでした。
東京湾が見渡せる会社の窓から東京湾を眺めると対岸から火の手が上がるのが見えました。
その後、会社のラウンジのテレビのニュースで田畑を飲み込み、車や人を飲み込みながら進む津波の映像を言葉も無く見ていました。夜になり、気仙沼市街が燃えている映像を見て、主人の実家が燃えていたらどうしようと思って、心配で、心配で体が震えました。
帰宅しようとする同僚の無事を祈って送り出し。私は会社に残りました。
10階から1階の外にあるコンビニに買出しに行くこと2回。階段の往復は疲れたけど、品物がほとんど残っていないことのほうがショックでした。仕方なく、お酒を買い込み飲みながら同僚と気を紛らわせながらの夕食。
飲まないと、気持ちが高ぶって、落ち着かなかったんです。
真夜中に、ようやく動き出した地下鉄に乗って、ものすごい渋滞の中、九段下まで迎えにきてくれた自宅が近い同僚の息子さんの車に乗り込み、朝方5時に帰宅できました。
主人は、新宿から歩いてさいたま市まで帰宅しました。途中で親切な人にタクシーに同乗させてもらえたのが救いだったそうです。ドロドロに疲れていました。

次の日から気仙沼の主人の実家の母と兄と、弟家族の消息を確認するので時間を使っていたように思います。
テレビの安否確認の呼び出しの申し込みもしたり、ラジオやネット。色々手をつくしても、みつからないまま
3日がすぎた頃、気仙沼から電話がありました。仮設の公衆電話で1分ほどしか話ができませんでしたが、二人とも無事、実家も壊れず。弟家族もその後連絡が取れ、無事でした。ですが、弟家族の自宅は津波で浸水していました。だけど、生きてるだけて良かった。

復興は進まず、気仙沼の町は、いまだに更地で、ほとんど何もありません。
主人の弟家族は、仙台に移り住んでいます。
早く地元に帰してあげたいけど、あの土地に戻れるのかどうかわかりません。

津波で被災された東北沿岸部の皆さん、福島で避難生活をされている皆さん、
どうか気持ちを強くもって。生きてください。 
また5月に車で東北に行きます。