小学校の入学式は
祖母と一緒に入学式に行きました。

まだ,制服指定だったので
スモックとプリーツスカートに
ランドセル🎒

祖母は着物を着ていました。

全く覚えていませんが、
写真が残っているので,
そうなんだと,後付けの記憶です。

母は4人目の子ども
末っ子の妹を出産したばかり
妹は4月3日生まれ
私の入学式は、4日?5日?あたりでした。


祖母はその当時、

50代?

だったのでしょうか?


私が生まれた時から

祖母だったので

“年寄り”

の認識でしか見ていなかったので

祖母の年齢を気にしたことはなかった。


背筋も伸びて

しゃんとした感じで着物を

着つけていました。


祖母は、着物の仕立てもできる人

でした。

長机は、跨いで遊ぶにはちょうど良い

高さと幅でしたので、

腰掛けていたりすると

よく怒られていたことを

記憶しています。


そんな祖母は、

すでに亡くなっていますが

亡くなってから祖母の

話を聞くと

わたしの思っていた祖母と

ちょっと違う話を聞く機会がありました。


人は、家族と言えども

全てをみて、理解しているもの

ではないことに気づきます。



母から聞いた“父”と“祖父”と“祖母”の関係


祖父母は、2人共長生きでしたので

それぞれ100歳手前まで

“生”を全うしました。


祖父が亡くなった時

通夜後の蝋燭番をするために

祖父の娘(おばさんたち)達が

葬儀場の宿泊部屋に

泊まってくれることになっていました。


祖母は祖父と8歳ほどの歳の差があり

その当時まだ、自立歩行も可能でした。


自分のことはなんとかできる祖母が

「わしも泊まるかな?」

と言ったところ

父が「お前は泊まらんでいい!」

とすかさず言った。そうです。


なぜか?


実は、

祖父は認知症状もあったのですが

それより前から

祖母の祖父に対する態度は

結構,きつい態度,発言がありました。


それこそ、祖父の介護上の面倒は

母がほとんどを担っていた。


そんな姿を見ていた父も

「今更、お前が親父のことなん、

やらんでもいい。」

とはっきり言ったそうです。


母としては、

父の言葉は嬉しかったようです。


祖母としては、

娘達と楽しい時間が過ごせる

くらいに思っての発言だったのではないか?

と思われますが・・・


祖母は、父の言う通りに

自宅に帰ってきました。



また、

晩年,介護サービス利用で

通っていたデイサービスでは

一緒になるお友達の方から

なぜか、度々、ぬいぐるみを

もらってくる。

「なんでか知らんけど、いつも,

内緒で、なんかくれるだ。」

と祖母は、お友達から

“お気に入り登録”されていた。らしいー。

人あたりは良かったんだと思う。

ニコニコ話も聞ける人でしたのでー☺️




どれも祖母。


勝手に型にはめて見ているのは,私。



祖母だけでなく、

私にも

自宅の顔と外の顔の

微妙な違いは

きっとあると思う。


相手のことを

自分フィルターを通して

みていることを自覚します。

そして

他の方を眺めてみると

自分自身がどんな感情で

相手と接しているのか?

つまりは

自分自身がどんな状態にあるのか?

を知ることになるんですね


その当時、祖母を見ていたわたしは

『大正時代生まれの祖母は

なかなか強い人であり、

きつい言葉を発する人』

と認識していました。


今,書き換えると

『ひたすら、仕事をして働いてきた人であり、

言葉の選択方法を教えてもらってなかったけど、

物言う発言力はあった人』

と変更になりました。


見習うべきは、

常に「南無阿弥陀」と唱えながら

仏様のお世話をしていた姿


鶏肉🍗、スイカ🍉、カニ🦀が好きだった祖母


いつも見守っていてくれると

感じています。