「きっと歓ばれると思いますよ。コレクションをなさるほどの方なら、既にもうたくさんのブランド品や珍しいものをお持ちでしょうし、かえって、こういう逸品というか希少価値のあるものを好まれる傾向がありますから」
一点一点すべて、凜太という若い職人が手作りするため、その分、値段は張る。紗英子が選んだのは五万ちょっとかかった。当然ながら、そんな大金は持参しているはずもなく、支払いはカードで済ませた。
「今、キャンペーンやってるんで、良かったら、お子さまに差し上げてください」
と、風船とチョコレートの詰め合わせの入った小さな袋を貰った。
「いえ、うちは―」
子どもがいないんですと言おうとして、面倒臭くなって止めた。
ギフト用に包んで貰い、店員の〝ありがとうございます〟という愛想の良い声に見送られて店を出た。
店を出て地下街の出口に向かって歩きかけたときのことである。
向こうから〝あっ〟と小さな声が聞こえ、紗英子は眼を見開いた。
「おばちゃん!」
見れば、やってくるのは家族連れらしい。五歳くらいの男の子と赤ん坊を連れた、まだ若い両親だ。紗英子には、その男の子の顔に見憶えがあった。ついこの間まで入院していたクリニックで見かけたあの子―〝お腹に赤ちゃんがいるの?〟と紗英子に問いかけ、母親に叱られていた子どもである。
確か、拓也といったか。
拓也もまた紗英子を憶えていたらしく、母親の手を振りほどいて、ぴょんぴょん跳ねるように駆けてきた。
「おばちゃん、また逢ったね」
拓也は嬉しげに顔を輝かせて紗英子を見上げている。
可愛い子だと思った。随分と人懐っこい。
「元気にしてた?」
紗英子もまたしゃがみ込んで拓也と同じ眼線の高さになった。
「うん」
「あ、そうだ」
紗英子はふと思いつき、肩に提げたバッグから先刻のチョコレートを出した。右手に持った蒼い風船と一緒に拓也に渡す。
「これね、たった今、貰ったばかりなの。良かったら、どうぞ、。おばちゃんからのクリスマスプレゼント」
「うわあ、ありがとう」
拓也はくりくりとした黒い瞳をくるくると回し、嬉しげに風船とチョコレートを受け取った。
「拓也、知らない人から物を貰っちゃいけないって言ってるでしょう」
後ろからやってきた母親から、きつい声が飛んでくる。
「お久しぶりです。赤ちゃん、また少し大きくなりましたね」
紗英子が改めて声をかけると、母親が不審げなまなざしをくれ、次いでハッとした表情になった。
「病院にいた方ですよね? もう、退院されたんですか?」
「はい。といっても、つい三日前のことですけど」
紗英子が微笑むのに、母親は曖昧な笑みを浮かべた。
「それは良かったです」
更に、チョコレートと風船を両手に持って飛び跳ねる息子を一瞥した。
「申し訳ありませんが、息子には甘いものは虫歯になるので与えない主義なもので」
と、拓也の手からチョコレートを引き取るようにして奪い、突き返してきた。
「おい、良いじゃないか。折角下さったんだ。失礼だぞ」
見かねたのか、傍らに立っていた男性が割って入った。ピンクのウサギの着ぐるみを着た赤ん坊を抱いているところからして、拓也の父親だろう。
「こういうことは、言いにくいからこそ、きちんと言った方が良いのよ」
暗に〝あなたは黙っておいてちょうだい〟と言わんばかりの態度に、夫も鼻白んだように押し黙った。
「おばちゃん、今日ね、ちさちゃんのお宮参りの写真を撮ってきたの。あそこの写真スタジオでね―」
大人たちの間に漂う気まずさなど頓着せず、拓也が紗英子に話しかける。
「拓也! 余計なことは話さなくて良いの。それでは、私たちは先を急ぎますもので、失礼します」
母親は、まだ何か話したそうにしている拓也の手を握ると、一礼して足早に通り過ぎていった。父親の方が申し訳なさそうに頭を下げ、赤ん坊を抱いたまま後を追いかける。
宮参りの写真、か。
それで皆、盛装していたわけだ。母親に至っては淡いベージュに花模様の訪問着だったし、父親の方も背広姿、拓也も子ども用のスーツを着ていた。
この地下街には、こじんまりとした写真スタジオも入っている。恐らくは、そこで宮参りの写真を撮ってきたに違いない。最近はこういう家族の記念写真を撮るのがブームで、どこの写真館も力を入れていると聞く。紗英子の友人たちから毎年、正月に送られてくる年賀状にも、明らかに写真館で撮ったらしい記念写真がよく使われていた。
紗英子は重い溜息をついていた。
母親のあの失礼な態度にも腹が立たないわけではなかったけれど、むしろ傷ついたのは、眼前に突きつけられた家族のいかにも幸せそうな光景だった。
何で、私には、あんなごく当たり前の幸せが与えられなかったのかな。
つくづく自分の運命を恨めしく思わずにはいられなかった。
自分が一体、何をしたというのだろう。何の悪いことをしたからといって、こんな辛い想いをしなければならないのだろうか。
思わず涙が込み上げてきて、紗英子は慌てて涙を堪えた。あんな仕打ちをされた上に、人前で泣くなんて、あまりに惨めすぎる。
それから、自分がどうやってマンションまで帰り着いたのか。実のところ、紗英子はよく憶えていない。それほど、拓也の母親から受けたとりつく島もない仕打ちに衝撃を受けていたのかもしれない。
気がつけば、リビングの壁に背を凭せかけ、ぼんやりと暗がりに蹲っていた。
何時頃に戻ってきて、今がいつなのかも判らない。ふいに頭上が煌々と輝き、眩しい光が紗英子の顔を照らした。
紗英子は両手で顔を覆い、眩しい光をよけながら立ち上がろうとする。しかし、長い間、同じ姿勢で座り込んでいたため、思わずよろめいてしまった。目眩もわずかにあった。
「大丈夫か?」
直輝が咄嗟に抱き止めてくれなければ、そのまま転倒していただろう。
「どうしたんだ、灯りもつけずに」
直輝の眼が気遣わしげに紗英子を見ている。ふいに、紗英子の中を烈しい感情が突き抜けた。
「ねえ、どうして天の神さまは私たちに赤ちゃんを与えてくれなかったのかな」
「お前―、まだ、そのことを考えてたのか?」
直輝にその時、悪気があったとは思えない。しかし、紗英子はどうしても引っかからずにはいられなかった。
「まだ、ですって? 当たり前でしょ。直輝さんの中ではもうとっくに終わったことなんでしょうけど、私はまだ終わったわけじゃないのよ」
「諦め切れない気持ちは判るが―」
「諦める?」
その何気ないひと言は紗英子の心を真っすぐに射貫いた。
諦める―? 私は子どもを持つという夢を諦め切れるの?
自分に問いかけてみる。他人が聞けば、笑うかもしれない。子宮を失ったのだ。諦めたくなくても、諦めざるを得ないだろう。
何を今更、愚かなことを考えているのだと。
いいえ、諦めるものですか! 私はけして諦めたりはしない。赤ちゃん、私の赤ちゃん。どうやったら諦められるというのだろう?
「ねえ、どうやったら、諦められるの?」
それは直輝にというよりは、自分に向けて発せられた問いであった。
一瞬、直輝が息を呑んだ。
「おい、紗英子」
妻の尋常でない様子に気づいたのだろうか、直輝は整った顔を強ばらせたまま、なすすべもなく妻を凝視していた。
どれくらいの時間が流れたのか。
「紗英子」
優しく名を呼ばれ、紗英子はゆるゆると顔を上げた。多分、それは時間にしては、たいした長さではなかったはずだ。それでも、紗英子には途方もなく長い沈黙のように思えた。
あっと思ったときには、直輝に膝裏を掬われて抱き上げられていた。
「お前は昔から、物事をとことん突き詰めて考えてしまう癖がある。そういうのも良いときもあるけど、かえって余計に自分を追い込む羽目になることだってあるんだ。今は何も考えるな」
直輝は幼い子どもに言い聞かせるように話しかけながら、リビングを出て向かい合わせの寝室のドアを開けた。
二人用のベッドにそっと降ろされ、紗英子は夫を見上げた。淡いナイトスタンドの明かりだけが照らす寝室は森閑として、まるで深い深い水底(みなそこ)のようだ。夫の表情は薄闇の中では定かではない。
「直輝さん?」
直輝の心情がよく判らないだけに、紗英子はつい心細い声を出していた。
「久しぶりに、しようか?」
それは直輝が実に久しぶりに発した誘いの言葉、はっきり言えば、セックスしようという合図だった。
新婚時代はともかく、不妊治療を始めてからというもの、直輝からあからさまに誘ってきたことはなかった。直輝は基本的に不妊治療を嫌がっていた。医師から排卵日に合わせて指示される夫婦の営みというものを嫌っていたのだ。
―まるで義務のように思えて、重荷としか思えない。
しょっちゅう零していた。
しかし、辛いのは紗英子も同じだった。
―疲れたと言ってるだろうが! 幾ら医者に言われたって、こっちとら都合もあるんだぞ。とにかく今夜はその気になれない。
―そんなこと言わないで。
紗英子は涙ながらに直輝に懇願したものだ。
―今夜に合わせて排卵がうまく起こるように注射して薬まで飲んだのよ? 今夜のチャンスを逃せば、また長い間、次の排卵日まで待たないといけないのに。
そのときもまた〝仕事で疲れた、その気にならない〟のひと言で片付けられてしまったら、自分はどうすれば良い?
―お前が必死になればなるほど、俺の気持ちは冷えてゆくんだ。こんな気持ちでセックスなんて、できると思うか?
毎度、同じような繰り返しが続いた。時には
―お前はそんなにまでセックスがしたいのか! この淫乱女め。
聞くに堪えないような嘲りの言葉を投げつけられたこともある。
あの時、直輝に突きつけられた科白が今、まざまざと耳奥で甦ってきた。
直輝が座ると、ベッドがわずかに軋んだ。覆い被さってきた夫を見上げ、紗英子は感情のこもらない声で聞いた。
「どうして?」
「―」
直輝の眼が訝しげに細められる。
紗英子はもう一度、はっきりと言った。
「どうして、今なの?」
あのときは私を色情狂扱いして、夫婦の営みには協力してくれなかったのに。私はあの夜だけに向けてひたすら努力して体調を整えてきたのに、あなたは無情にも背を向けた。それでも、私はあなたに何度もお願いと言って懇願した。
その翌朝まで、紗英子は泣き通しだった。生理が終わってから排卵日を迎えるまでの夜、自分がしてきた努力は一体何のためだったのかと問いかけながら―。
そんなことが何度、繰り返されてきたことか。その挙げ句、紗英子は子宮を失い、二度と子どもを生めない身体になった。
なのに、何で、今になって夫婦の営みをしようというのだろう? もう、紗英子には何の意味も持たない空しい行為にしかすぎないというのに。
「不妊治療をしていた頃、私が幾ら頼んでも、あなたは協力しようとはしてくれなかった」
もちろん、毎回拒まれたわけではない。嫌々な態度は見え見えではあったけれど、少なくとも〝義務〟は果てしてくれた。でも、それと同じ数くらい、拒まれたことも事実なのだ。その度に、紗英子の自尊心はどれだけ打ち砕かれ、多くの涙を流したことだろう。
「俺は、堪らなかったんだ」
漸く紗英子の意図を理解したのだろう。直輝が首を振りながら言った。
「何が?」
紗英子が問いかけると、直輝は小さな息を吐き彼女から離れた。ベッドの縁に浅く腰かけると長い脚を組む。
「お前は狂っている―、いや、別に本当に狂っていると思ってたわけじゃない。言い方が思いつかなくて、こんな風になっただけだから、許してくれ。だが、とにかく、俺から見たら、どうかしちまったんじゃないかと思うくらいに―何かに取り憑かれたように夢中になっていた。確かに子どもは夫婦にとっては重要なものだ。だけど、何もそこまで髪振り乱して取り組むほどのことでもないんじゃないかって、いつも疑問が俺の中にあったんだ」
直輝はそこで今度は大息をついた。
「だから、お前が夢中になって必死になればなるほど、俺の心は醒めたし、心の中の疑問も大きくなった。医者に指示された夜だけ、ただ義務のようにセックスするなんて、それじゃ、動物園の飼育動物か繁殖用の馬と同じだ。俺は何も種馬になりたくて、お前と結婚したわけじゃないって大声で叫びたかった」
でも、お前の子どもを欲しいっていう気持ちも理解はできたから、黙ってたんだ。必死なお前をうっとうしいと思いながらも、可哀想で口にできなかった。
しまいの呟きは、紗英子をこれ以上はないというくらいに打ちのめした。
うっとうしいと思いながらも、可哀想―。
そうなのか、自分はつまり、直輝に疎まれる一方で憐れまれてさえいたというのか。
もう、何もかもおしまいだという気がしてならなかった。聞かなければ良かったのかもしれない。だが、それこそ夫婦二人だけで狭いマンションに暮らしているのだ。日中の殆どの時間、もちろん直輝は出勤していて留守ではあるけれど、会社は完全週休二日制で土、日曜は自宅にいる。
いずれ、お互いの考えていることは遅かれ早かれ表に出ただろう。
紗英子はこれまで大いなる勘違いをしていたらしい。少なくとも夫が治療に対して肯定的ではないにせよ、治療を強く望む紗英子自身までをも否定しているとは考えたこともなかったのだ。
だが、今の夫の言葉は、はっきりと紗英子という人間そのものを拒絶していた。
「あなたが私についてどう感じていたかはよく判ったわ。でも、なら、何で今なの? もう幾ら身体を重ねたとしても、赤ちゃんはできないわ。そんな無意味な行為に、何の価値があるというの?」
紗英子は淡々と言った。
直輝が形の良い眉をかすかに顰める。
「別にセックスは子作りだけのためにするものじゃないだろ。夫婦の間のコミュニケーションのためでもあるし、男と女の愛情表現としての手段じゃないのか?」
男と女の愛情表現としての手段。
思わず笑ってしまう。この男は一体、何を考えているの? ここまで妻を言葉で貶めておいて、今更、愛情表現の手段ですって?
「おい、何がおかしいんだ。俺は真剣に話してるんだぞ」
普段はあまり怒らない直輝が露骨にムッとした表情を見せている。
「今になって、よく言うわね。お生憎さま、今度はあなたが〝義務〟とやらから解放されて、その気になったのかどうか知らないけれど、私が嫌なの」
「お前、自分が何を言っているのか、判ってるのか?」
紗英子は唇を引き上げた。
「あら、男はセックスを拒んでも許されるのに、妻は同じことをしても許されないとでも言うの? 私が今夜、あなたの求めに応じなければ、離婚するとでも?」
紗英子は直輝から顔を背けた。
「好きにすれば良いわ。あなたが好きなようにすれば良い。無理に抱きたければ抱けば?」
「この―」
直輝の両脇に垂らした拳が震えている。
結婚して以来、いや、十三歳で付き合い始めてから、夫がここまで怒るのを見るのは初めてのことだ。
もしかしたら、殴られるのかもしれない。紗英子は眼を瞑った。殴りたければ殴れば良いのだ。それで気が済むのならば。
紗英子と違って、所詮、直輝の怒りはその程度のものなのだろうから。
でも、私のこのやり場のない感情はどこに持って行けば良い? 自分の宿命について誰を恨むこともできず、何のせいにもできない、この想いは。直輝のように、誰かにぶつけて済む程度のものなら、とっくにそうしている。ここまで悶々ともだえ苦しむ必要はないだろう。
一点一点すべて、凜太という若い職人が手作りするため、その分、値段は張る。紗英子が選んだのは五万ちょっとかかった。当然ながら、そんな大金は持参しているはずもなく、支払いはカードで済ませた。
「今、キャンペーンやってるんで、良かったら、お子さまに差し上げてください」
と、風船とチョコレートの詰め合わせの入った小さな袋を貰った。
「いえ、うちは―」
子どもがいないんですと言おうとして、面倒臭くなって止めた。
ギフト用に包んで貰い、店員の〝ありがとうございます〟という愛想の良い声に見送られて店を出た。
店を出て地下街の出口に向かって歩きかけたときのことである。
向こうから〝あっ〟と小さな声が聞こえ、紗英子は眼を見開いた。
「おばちゃん!」
見れば、やってくるのは家族連れらしい。五歳くらいの男の子と赤ん坊を連れた、まだ若い両親だ。紗英子には、その男の子の顔に見憶えがあった。ついこの間まで入院していたクリニックで見かけたあの子―〝お腹に赤ちゃんがいるの?〟と紗英子に問いかけ、母親に叱られていた子どもである。
確か、拓也といったか。
拓也もまた紗英子を憶えていたらしく、母親の手を振りほどいて、ぴょんぴょん跳ねるように駆けてきた。
「おばちゃん、また逢ったね」
拓也は嬉しげに顔を輝かせて紗英子を見上げている。
可愛い子だと思った。随分と人懐っこい。
「元気にしてた?」
紗英子もまたしゃがみ込んで拓也と同じ眼線の高さになった。
「うん」
「あ、そうだ」
紗英子はふと思いつき、肩に提げたバッグから先刻のチョコレートを出した。右手に持った蒼い風船と一緒に拓也に渡す。
「これね、たった今、貰ったばかりなの。良かったら、どうぞ、。おばちゃんからのクリスマスプレゼント」
「うわあ、ありがとう」
拓也はくりくりとした黒い瞳をくるくると回し、嬉しげに風船とチョコレートを受け取った。
「拓也、知らない人から物を貰っちゃいけないって言ってるでしょう」
後ろからやってきた母親から、きつい声が飛んでくる。
「お久しぶりです。赤ちゃん、また少し大きくなりましたね」
紗英子が改めて声をかけると、母親が不審げなまなざしをくれ、次いでハッとした表情になった。
「病院にいた方ですよね? もう、退院されたんですか?」
「はい。といっても、つい三日前のことですけど」
紗英子が微笑むのに、母親は曖昧な笑みを浮かべた。
「それは良かったです」
更に、チョコレートと風船を両手に持って飛び跳ねる息子を一瞥した。
「申し訳ありませんが、息子には甘いものは虫歯になるので与えない主義なもので」
と、拓也の手からチョコレートを引き取るようにして奪い、突き返してきた。
「おい、良いじゃないか。折角下さったんだ。失礼だぞ」
見かねたのか、傍らに立っていた男性が割って入った。ピンクのウサギの着ぐるみを着た赤ん坊を抱いているところからして、拓也の父親だろう。
「こういうことは、言いにくいからこそ、きちんと言った方が良いのよ」
暗に〝あなたは黙っておいてちょうだい〟と言わんばかりの態度に、夫も鼻白んだように押し黙った。
「おばちゃん、今日ね、ちさちゃんのお宮参りの写真を撮ってきたの。あそこの写真スタジオでね―」
大人たちの間に漂う気まずさなど頓着せず、拓也が紗英子に話しかける。
「拓也! 余計なことは話さなくて良いの。それでは、私たちは先を急ぎますもので、失礼します」
母親は、まだ何か話したそうにしている拓也の手を握ると、一礼して足早に通り過ぎていった。父親の方が申し訳なさそうに頭を下げ、赤ん坊を抱いたまま後を追いかける。
宮参りの写真、か。
それで皆、盛装していたわけだ。母親に至っては淡いベージュに花模様の訪問着だったし、父親の方も背広姿、拓也も子ども用のスーツを着ていた。
この地下街には、こじんまりとした写真スタジオも入っている。恐らくは、そこで宮参りの写真を撮ってきたに違いない。最近はこういう家族の記念写真を撮るのがブームで、どこの写真館も力を入れていると聞く。紗英子の友人たちから毎年、正月に送られてくる年賀状にも、明らかに写真館で撮ったらしい記念写真がよく使われていた。
紗英子は重い溜息をついていた。
母親のあの失礼な態度にも腹が立たないわけではなかったけれど、むしろ傷ついたのは、眼前に突きつけられた家族のいかにも幸せそうな光景だった。
何で、私には、あんなごく当たり前の幸せが与えられなかったのかな。
つくづく自分の運命を恨めしく思わずにはいられなかった。
自分が一体、何をしたというのだろう。何の悪いことをしたからといって、こんな辛い想いをしなければならないのだろうか。
思わず涙が込み上げてきて、紗英子は慌てて涙を堪えた。あんな仕打ちをされた上に、人前で泣くなんて、あまりに惨めすぎる。
それから、自分がどうやってマンションまで帰り着いたのか。実のところ、紗英子はよく憶えていない。それほど、拓也の母親から受けたとりつく島もない仕打ちに衝撃を受けていたのかもしれない。
気がつけば、リビングの壁に背を凭せかけ、ぼんやりと暗がりに蹲っていた。
何時頃に戻ってきて、今がいつなのかも判らない。ふいに頭上が煌々と輝き、眩しい光が紗英子の顔を照らした。
紗英子は両手で顔を覆い、眩しい光をよけながら立ち上がろうとする。しかし、長い間、同じ姿勢で座り込んでいたため、思わずよろめいてしまった。目眩もわずかにあった。
「大丈夫か?」
直輝が咄嗟に抱き止めてくれなければ、そのまま転倒していただろう。
「どうしたんだ、灯りもつけずに」
直輝の眼が気遣わしげに紗英子を見ている。ふいに、紗英子の中を烈しい感情が突き抜けた。
「ねえ、どうして天の神さまは私たちに赤ちゃんを与えてくれなかったのかな」
「お前―、まだ、そのことを考えてたのか?」
直輝にその時、悪気があったとは思えない。しかし、紗英子はどうしても引っかからずにはいられなかった。
「まだ、ですって? 当たり前でしょ。直輝さんの中ではもうとっくに終わったことなんでしょうけど、私はまだ終わったわけじゃないのよ」
「諦め切れない気持ちは判るが―」
「諦める?」
その何気ないひと言は紗英子の心を真っすぐに射貫いた。
諦める―? 私は子どもを持つという夢を諦め切れるの?
自分に問いかけてみる。他人が聞けば、笑うかもしれない。子宮を失ったのだ。諦めたくなくても、諦めざるを得ないだろう。
何を今更、愚かなことを考えているのだと。
いいえ、諦めるものですか! 私はけして諦めたりはしない。赤ちゃん、私の赤ちゃん。どうやったら諦められるというのだろう?
「ねえ、どうやったら、諦められるの?」
それは直輝にというよりは、自分に向けて発せられた問いであった。
一瞬、直輝が息を呑んだ。
「おい、紗英子」
妻の尋常でない様子に気づいたのだろうか、直輝は整った顔を強ばらせたまま、なすすべもなく妻を凝視していた。
どれくらいの時間が流れたのか。
「紗英子」
優しく名を呼ばれ、紗英子はゆるゆると顔を上げた。多分、それは時間にしては、たいした長さではなかったはずだ。それでも、紗英子には途方もなく長い沈黙のように思えた。
あっと思ったときには、直輝に膝裏を掬われて抱き上げられていた。
「お前は昔から、物事をとことん突き詰めて考えてしまう癖がある。そういうのも良いときもあるけど、かえって余計に自分を追い込む羽目になることだってあるんだ。今は何も考えるな」
直輝は幼い子どもに言い聞かせるように話しかけながら、リビングを出て向かい合わせの寝室のドアを開けた。
二人用のベッドにそっと降ろされ、紗英子は夫を見上げた。淡いナイトスタンドの明かりだけが照らす寝室は森閑として、まるで深い深い水底(みなそこ)のようだ。夫の表情は薄闇の中では定かではない。
「直輝さん?」
直輝の心情がよく判らないだけに、紗英子はつい心細い声を出していた。
「久しぶりに、しようか?」
それは直輝が実に久しぶりに発した誘いの言葉、はっきり言えば、セックスしようという合図だった。
新婚時代はともかく、不妊治療を始めてからというもの、直輝からあからさまに誘ってきたことはなかった。直輝は基本的に不妊治療を嫌がっていた。医師から排卵日に合わせて指示される夫婦の営みというものを嫌っていたのだ。
―まるで義務のように思えて、重荷としか思えない。
しょっちゅう零していた。
しかし、辛いのは紗英子も同じだった。
―疲れたと言ってるだろうが! 幾ら医者に言われたって、こっちとら都合もあるんだぞ。とにかく今夜はその気になれない。
―そんなこと言わないで。
紗英子は涙ながらに直輝に懇願したものだ。
―今夜に合わせて排卵がうまく起こるように注射して薬まで飲んだのよ? 今夜のチャンスを逃せば、また長い間、次の排卵日まで待たないといけないのに。
そのときもまた〝仕事で疲れた、その気にならない〟のひと言で片付けられてしまったら、自分はどうすれば良い?
―お前が必死になればなるほど、俺の気持ちは冷えてゆくんだ。こんな気持ちでセックスなんて、できると思うか?
毎度、同じような繰り返しが続いた。時には
―お前はそんなにまでセックスがしたいのか! この淫乱女め。
聞くに堪えないような嘲りの言葉を投げつけられたこともある。
あの時、直輝に突きつけられた科白が今、まざまざと耳奥で甦ってきた。
直輝が座ると、ベッドがわずかに軋んだ。覆い被さってきた夫を見上げ、紗英子は感情のこもらない声で聞いた。
「どうして?」
「―」
直輝の眼が訝しげに細められる。
紗英子はもう一度、はっきりと言った。
「どうして、今なの?」
あのときは私を色情狂扱いして、夫婦の営みには協力してくれなかったのに。私はあの夜だけに向けてひたすら努力して体調を整えてきたのに、あなたは無情にも背を向けた。それでも、私はあなたに何度もお願いと言って懇願した。
その翌朝まで、紗英子は泣き通しだった。生理が終わってから排卵日を迎えるまでの夜、自分がしてきた努力は一体何のためだったのかと問いかけながら―。
そんなことが何度、繰り返されてきたことか。その挙げ句、紗英子は子宮を失い、二度と子どもを生めない身体になった。
なのに、何で、今になって夫婦の営みをしようというのだろう? もう、紗英子には何の意味も持たない空しい行為にしかすぎないというのに。
「不妊治療をしていた頃、私が幾ら頼んでも、あなたは協力しようとはしてくれなかった」
もちろん、毎回拒まれたわけではない。嫌々な態度は見え見えではあったけれど、少なくとも〝義務〟は果てしてくれた。でも、それと同じ数くらい、拒まれたことも事実なのだ。その度に、紗英子の自尊心はどれだけ打ち砕かれ、多くの涙を流したことだろう。
「俺は、堪らなかったんだ」
漸く紗英子の意図を理解したのだろう。直輝が首を振りながら言った。
「何が?」
紗英子が問いかけると、直輝は小さな息を吐き彼女から離れた。ベッドの縁に浅く腰かけると長い脚を組む。
「お前は狂っている―、いや、別に本当に狂っていると思ってたわけじゃない。言い方が思いつかなくて、こんな風になっただけだから、許してくれ。だが、とにかく、俺から見たら、どうかしちまったんじゃないかと思うくらいに―何かに取り憑かれたように夢中になっていた。確かに子どもは夫婦にとっては重要なものだ。だけど、何もそこまで髪振り乱して取り組むほどのことでもないんじゃないかって、いつも疑問が俺の中にあったんだ」
直輝はそこで今度は大息をついた。
「だから、お前が夢中になって必死になればなるほど、俺の心は醒めたし、心の中の疑問も大きくなった。医者に指示された夜だけ、ただ義務のようにセックスするなんて、それじゃ、動物園の飼育動物か繁殖用の馬と同じだ。俺は何も種馬になりたくて、お前と結婚したわけじゃないって大声で叫びたかった」
でも、お前の子どもを欲しいっていう気持ちも理解はできたから、黙ってたんだ。必死なお前をうっとうしいと思いながらも、可哀想で口にできなかった。
しまいの呟きは、紗英子をこれ以上はないというくらいに打ちのめした。
うっとうしいと思いながらも、可哀想―。
そうなのか、自分はつまり、直輝に疎まれる一方で憐れまれてさえいたというのか。
もう、何もかもおしまいだという気がしてならなかった。聞かなければ良かったのかもしれない。だが、それこそ夫婦二人だけで狭いマンションに暮らしているのだ。日中の殆どの時間、もちろん直輝は出勤していて留守ではあるけれど、会社は完全週休二日制で土、日曜は自宅にいる。
いずれ、お互いの考えていることは遅かれ早かれ表に出ただろう。
紗英子はこれまで大いなる勘違いをしていたらしい。少なくとも夫が治療に対して肯定的ではないにせよ、治療を強く望む紗英子自身までをも否定しているとは考えたこともなかったのだ。
だが、今の夫の言葉は、はっきりと紗英子という人間そのものを拒絶していた。
「あなたが私についてどう感じていたかはよく判ったわ。でも、なら、何で今なの? もう幾ら身体を重ねたとしても、赤ちゃんはできないわ。そんな無意味な行為に、何の価値があるというの?」
紗英子は淡々と言った。
直輝が形の良い眉をかすかに顰める。
「別にセックスは子作りだけのためにするものじゃないだろ。夫婦の間のコミュニケーションのためでもあるし、男と女の愛情表現としての手段じゃないのか?」
男と女の愛情表現としての手段。
思わず笑ってしまう。この男は一体、何を考えているの? ここまで妻を言葉で貶めておいて、今更、愛情表現の手段ですって?
「おい、何がおかしいんだ。俺は真剣に話してるんだぞ」
普段はあまり怒らない直輝が露骨にムッとした表情を見せている。
「今になって、よく言うわね。お生憎さま、今度はあなたが〝義務〟とやらから解放されて、その気になったのかどうか知らないけれど、私が嫌なの」
「お前、自分が何を言っているのか、判ってるのか?」
紗英子は唇を引き上げた。
「あら、男はセックスを拒んでも許されるのに、妻は同じことをしても許されないとでも言うの? 私が今夜、あなたの求めに応じなければ、離婚するとでも?」
紗英子は直輝から顔を背けた。
「好きにすれば良いわ。あなたが好きなようにすれば良い。無理に抱きたければ抱けば?」
「この―」
直輝の両脇に垂らした拳が震えている。
結婚して以来、いや、十三歳で付き合い始めてから、夫がここまで怒るのを見るのは初めてのことだ。
もしかしたら、殴られるのかもしれない。紗英子は眼を瞑った。殴りたければ殴れば良いのだ。それで気が済むのならば。
紗英子と違って、所詮、直輝の怒りはその程度のものなのだろうから。
でも、私のこのやり場のない感情はどこに持って行けば良い? 自分の宿命について誰を恨むこともできず、何のせいにもできない、この想いは。直輝のように、誰かにぶつけて済む程度のものなら、とっくにそうしている。ここまで悶々ともだえ苦しむ必要はないだろう。