直輝の言うように、人は誰しも土足で踏み込まれたくない場所がある。心の聖域とでも呼べば良いかもしれない。そして、その聖域に立ち入ることを許せるのは、やはり、その人にとって最も近しいか、慕わしい存在であるだろう。
直輝にとっては、その聖域に立ち入らせて良い者は有喜菜であって、紗英子ではなかった。その違いというか、意味は大きいと思う。しかし、直輝との結婚生活をこれからも維持していくつもりならば、これ以上、そのことについて言及するのは避ける方が賢明だ。
紗英子もまた裸のまま上掛けの下にすべり込んだ。パジャマや下着は直輝に脱がされたまま、まだ下に散らばっている。
それを見ると、余計に空しい想いが胸にひろがってゆくのは、どうしようもなかった。自分たちを繋ぐのは身体の繋がりだけ、直輝は自分に対して、大切なものを見せても良いと思える人間だと思うほどの価値を見出してはくれなかった。それは信頼という言葉で置き換えても良いかもしれない。
夫は十三年間、連れ添った妻よりも有喜菜をより信頼していたのか。
身体だけの繋がりなんて、何の意味もない。直輝と有喜菜は確かにただの友達にすぎなかったのかもしれないけれど、彼は有喜菜に、恋人であり妻でもあった紗英子には見せられないほど大切なものを見せていた。しかも、今から二十三年も前に。
紗英子は彼との間に二十三年分もの月日を積み重ねてきたのに、実は、その重みは彼にとっては何の価値もなかったということだ。
百歩譲って、それが言い過ぎだとしても、結局、紗英子と直輝の二十三年間は、有喜菜と直輝のたった一年間にも及ばなかった―そういうことだろう。
ヒーターが効いているはずなのに、俄に室内の温度が下がったような気がする。紗英子は思わず小刻みに身体を震わせ、慌てて上掛けを顎の上まで引き上げた。
その拍子に、上掛けが剥き出しになった乳房を掠めた。さんざん愛撫されて、敏感になった乳房の突起が布に触れる刺激にも、ぞくぞくする。
直輝によって火の点された身体はなかなか静まってくれない。そのこともまた今の紗英子には、やるせなさと哀しみをもたらした。
直輝と気まずい雰囲気になってからというもの、紗英子に眠りは訪れなかった。仕方なく、六時前には起き出して、キッチンで簡単に朝食の用意を整えた。
二人がけの四角いテーブルにいつものように向かい合って座る。リビングの方には昨夜のパーティの名残というか残骸がまだそのまま手つかずで残っていた。
直輝と二人で迎える聖夜のために心を込めて焼き上げたブッシュ・ド・ノエルや鶏肉の詰め物焼き、冷蔵庫にはよく冷えたシャンペンとグラスが入ったままだし、心弾ませて飾り付けた小さなツリーの点滅するイルミネーションは朝の白々とした光の下では何とも侘びしく興ざめに見えた。
あれを片付けなければならないと考えただけで、溜息が出そうになる。
キッチンにはこんがりと焼けたトーストと淹れ立てのコーヒーの匂いが立ちこめた。コーヒーを淹れるのは毎朝、直輝の担当になっている。直輝はむっつりとした顔で二人分のカップにコーヒーを注いだ。
この白いペアのカップは有喜菜が二人の結婚祝いにと贈ったものだった。共通の友人がわざわざ選んでくれたものだからと、紗英子も大切に愛用してきた。だが、今は、このカップを床にたたきつけて粉々にしてやりたい衝動に駆られる。
まあ、流石にそこまではやる気はないけれど、この際、新しいペアカップを買うのも悪くはないかもしれない。有喜菜を思い出すようなものはできるだけ身近に置いておきたくない。
そこで、紗英子はおや?と 首を傾げた。
いつもなら、朝、コーヒーを淹れた後は、早々と新聞をひろげる直輝が何を思ったのか黙々と食べ始めている。
結婚してから、紗英子はこの夫の癖を事あるごとにたしなめてきた。
―食事中に新聞を読むなんて、お行儀悪いわよ。今はまだ良いけど、子どもが生まれたら、躾けに悪いから止めてちょうだい。
結局、子どもには恵まれなかったが、夫のこの癖は十二年間、ついに直らなかった。最近では、紗英子ももう言うだけ無駄だと思っている。いつか義母―直輝の母に訊ねたら、彼の父親にも、そういう習慣があったという。
―私も子どもの教育に悪いと思ったから、止めてちょうだいって何度も頼んだんだけどねぇ。結局、直らなかったのよ。
義母は笑いながら言った。その言葉は直輝を咎めているようにも聞こえなくもないが、穿った見方をすれば、自分も諦めたのだから、紗英子にも諦めて見て見ないふりをしろと言っているようにも取れる。
直輝は上に姉、下に弟がいる。三人兄弟の真ん中だが、初めての男の子でもあった。中二のときから直輝と交際していたので、もちろん、直輝の母淳子には紗英子自身が中学生の頃から面識がある。さっぱりとした気性で嫁いびりとかいう言葉などとは無縁の人ではあるが、何しろ長男の直輝を溺愛している。
その点では、嫁として色々と付き合いにくい面もあるにはあった。いずれにせよ、義母は長男夫婦ではなく、弟夫婦と同居しているから、長男の嫁とはいえ、紗英子は気楽な立場ではあった。
直輝は結婚と同時に家を出て、紗英子と直輝は小さなコーポラスで新婚時代を送った。今のこのマンションに引っ越したのは、直輝のサラリーがかなり良くなった頃―三十前のことになる。
現在、直輝の実家は弟夫婦が暮らし、姑は彼等と一緒に暮らしている。義弟のところには子どもが次々と生まれて、いつ訪ねても三人の子どもたちの声でかしましい。姑は大変、大変と言いながらも、弟嫁が昼間は共稼ぎで仕事に出ているので、孫を保育園に送り迎えしたり、弟嫁が帰ってくるまで面倒を見たりするのが楽しくてならないようだ。
直輝が朝、新聞を読まないなんて、天地が引っ繰り返るくらい珍しいことなのである。
と、紗英子は夫が物問いたげにこちらを見ていることに気づいた。
「紗英―」
「直君―」
二人ともに声を発したのは、ほぼ時を同じくしていた。
「あ、そちらから、どうぞ」
「いや、お前から」
またも声が揃ってしまい、二人は顔を見合わせた。やがて、また同時にプッと吹き出してしまう。
「さっきはごめんな」
直輝が照れたように髪の毛をかいた。これも紗英子だけが知っている直輝の癖の一つ。夫は困ったときには、必ずと言って良いほど髪の毛を弄る。
「ううん、私も悪かった。ごめんなさい。直君に酷いことを言っちゃった」
紗英子は敢えて昔のように〝直君〟と呼んだ。バターを塗ったばかりのトーストを直輝に差し出す。
これも直輝の習慣の一つ。トーストには絶対にバターしか塗らない。ジャムや蜂蜜などの甘いものは大嫌いなのだ。もちろん、コーヒーにも砂糖やミルクは一切入れない。どんな料理にでも、余分な味付けをするというのが嫌いな男である。
「いや、俺の方こそ、おとなげなく怒鳴ったりして、悪かったと思ってる」
直輝はトーストを手にしたまま、しばらく思案顔だった。やがて、トーストを皿にのせ、立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
キッチンから出て、リビングの方に向かっている。何をするつもりなのかと眼を丸くして見ていたら、ほどなく裁縫箱くらいの大きさの箱を後生大事に抱えてきた。
四LDKのマンションは、キッチン、バスルーム、トイレの他には四部屋ある。それぞれ、夫婦の寝室、直輝の書斎、紗英子の居室、リビングという風に割り当てて使っている。
その箱は直輝の書斎ではなく、いつも居間の液晶テレビが据え付けてある台の下の棚に置かれていた。直輝個人のものなので、紗英子が無断で触れたことはない。
見た目は裁縫箱くらいの大きさで、木製の温もりの感じられる仕様だ。蓋にはアイボリーで〝WOODY TIME〟とプリントされている。あまり飾り気はないが、宝石箱か、小物入れといった感じだ。
直輝は箱の蓋を開いたままの状態で、紗英子に指し示した。
「見てごらん」
「凄いわ」
紗英子は思わず歓声を上げた。
上蓋が開いた箱の中は紅のビロード張りで、中には数え切れないほどの腕時計が並んでいた。
「どうだ、なかなかだろ」
得意げに言う様子は、中学生どころか小学生の男の子が宝物を披露するようである。
「有喜菜に見せたときは、まだ、この十分の一も集まってなかったと思う」
せっかくの夫婦の語らいに、またしても有喜菜が登場したことに―しかも直輝の方から先に出してきたことには鼻白んだものの、こここで指摘すれば、元の木阿弥になりかねない。
「これだけ集めるのは大変だったでしょ」
「まあ、な。仕事で海外に行ったときとか、国内でも仕事柄、あちこち行く機会があるから、そういうときに珍しい時計を探すんだ」
広告代理店といえども、様々な部署がある。直輝は営業だから、出張は多いのは確かだ。
「それにしても、よく集めたものねぇ。よほど時計が好きじゃないと、これだけ揃えるのは無理だわ」
「京都に行ったときに、凜工房も訪ねたことがあるんだ。何しろ、あの工房は時計に興味のある人間にとっては一度は脚を運んでみたい場所だからな。けど、そこの職人っていうのがまだ二十代の若さだっていうのに、頑固爺ィも顔負けの偏屈さで、何度訪ねても逢ってくれないんだ。結局、三度訪ねても逢えずじまいで、それきり、もう諦めてた」
直輝によれば、凜太という職人は基本、特注、個別注文でしか仕事は受けないという。一般店舗で売るために時計を作るということはまずないので、紗英子が時計店で凜太の作った時計を見つけたというのは奇蹟に等しいらしかった。
「どういう経緯で凜太の作った時計がその店にあったかは判らないが、まぁ、ラッキー中のラッキーだったってことだな」
よほど嬉しいらしく、直輝は左腕に時計を填めたままで、今も撫でさすっている。
「だから、本当に嬉しいよ、ありがとな」
これだけ歓んで貰えれば、贈る側も甲斐があったというものだ。正直、五万の出費はきつかったけれど、直輝がこれだけ手放しで歓ぶのなら、惜しい出費ではない。あのお金はいつか有喜菜と二人で韓国旅行に行こうと思い貯めていたものだ。
韓流ドラマを見て韓国ファンになった紗英子は是非、一度、韓国を訪れてみたかった。しかし、直輝はそういうものには全く興味がなく、有喜菜に打診したところ、独身の身軽さもあり、一緒に行くことを快諾してくれた―のだが。
もう、有喜菜と海外旅行なんてすることもないだろう。夫と有喜菜の間に、紗英子の知っている以上のものが存在すると知った今、有喜菜とは今度、あまり拘わりたくはなかった。判っている。二十年以上も昔、互いに幼かった子どもの頃の出来事でいちいち目くじら立てても仕方ない。
だが、プラトニックであれ、何かしらの感情が二人の間にかつてあったのだとすれば、紗英子にしてみれば二人にまんまと騙されたような気がするのは当然だった。いや、プラトニックだからこそ、余計に嫌なのだ。肉欲だけの交わりであれば、所詮はそこまで。しかし、身体よりもより深い部分―精神的な繋がりがあるのなら、その方がよほど厄介といえよう。
しかし、ここでこれ以上事を荒立てるのは、けして利口とはいえなかった。大切なのは、たとえ二十二年かかっても、やっと直輝が心の奥にしまっていた大切なものを紗英子にも見せても良いという気持ちになった―そのことだろうと思う。
むろん、はるか昔に有喜菜には見せた大切なものを紗英子にはずっと見せなかったことは、実は重大な意味を持つとは理解している。が、ここで騒ぎ立てれば、直輝の心が自分から離れていくのは判っていた。
だから、今は我慢する。
私は直輝の妻。たとえ彼が大切なコレクションを有喜菜にだけは見せたとしても、彼が人生の伴侶として選んだのは、この私なのだ。有喜菜なんかに、彼の心は渡さない。
立場的には、有喜菜よりも自分の方がはるかに優位なのだから、こんなことくらいで動揺する必要はさらさらない。子ども同士の他愛ない出来事だと笑い飛ばして、毅然としていれば良いのだ。
「別に深い意味があって、お前に見せなかったわけじゃないんだ」
弁解のように言う直輝に向かって、紗英子は笑顔で首を振る。
「良いの、今、直輝さんが見せてくれたから、私はそれで十分」
言い訳なんてされたら、余計に惨めになるし、二人の間を勘繰りたくなってしまう。
紗英子は口早に言うと、微笑んだ。
「さ、冷めない中に早く食べましょう」
言うだけ言い、後は夫の顔を見ようともせず、ひたすら味のないパンをかじり、苦いヒーヒーを飲んだ。
紗英子はコーヒーはどちらかといえば苦手で、紅茶党だ。しかし、直輝がコーヒー好きなので、いつも朝は彼に合わせている。時計にしろ、コーヒーにしろ、直輝は拘るとなると、とことん拘る性分なのである。
結婚する前から、自分の好みよりも直輝の好みを優先させて、ひたすら堪えてきた。何よりも直輝が好きだったし、直輝の側にいたかったから。だからこそ、大勢の美人で知的な女の子たちに言い寄られながらも、直輝のような良い男が自分みたいな平凡な女の子を選んでくれたのだと思う。
モデル並のルックスを持つイケメンと冴えない女の子、いつも誰もが二人をそんな眼で見てきた。直輝に嫌われない、飽きられないようにするために、紗英子はエステにも通い、いつも最高の自分でいるように心がけた。お化粧の仕方もわざわざ教室に通ってまで憶えたし、料理も習った。すべては直輝にふさわし良い女でありたいと願ったからだ。
それはけして金銭的にも精神的にも生半な努力ではなかった。でも、そのお陰でずっと直輝の側にいられたし、彼は結局のところ、自分を選んだ。だから、それらの努力もけして無駄ではなかったと思っている。
それから後は、いつもと変わらない静かな朝の時間が過ぎた。まだ、少しぎごちなさは残っているものの、少なくとも表面上、二人は何もなかったかのようにふるまっている。
♠RoundⅣ(踏み出した瞬間)♠
直輝を会社に送り出した後、紗英子は洗濯機を回し、すべての部屋中に掃除機をかけた。
イブの夜のご馳走は取っておけるものはラップをかけて冷蔵庫に入れた。今日はまだ二十五日なので、ツリーももちろん、そのまま飾っている。
ついでに風呂場とトイレも簡単に掃除し、すべてが終わる頃には洗濯が終わっていた。
住んでいるのは七階の比較的陽当たりの良い部屋なので、洗濯物を干すには助かる。その分、他の部屋よりは家賃も高いのは致し方ない。
紗英子はベランダに出ると、張ってあるロープに洗濯物を手際よく干してゆく。直輝と紗英子の二人分しかないので、干すといっても知れている。これで育ち盛りの子どもでもいれば、毎日、汚れ物がどっさりとあるのかもしれない。
一時は大変かもしれないけれど、そんな暮らしを夢見た。でも、それはついに叶わず、見果てぬ夢となった。
いつまでも終わった過去にしがみついているのは、愚かなことだ。日が経つにつれ、紗英子はそんな風に考えられるようになりつつある。もう子どもを持つという望みは完全に絶たれたが、直輝ではないけれど、かえって、その方が気楽に生きてゆけるかもしれない。セックスだって、排卵日を気にする必要もないし、昨夜のように奔放に楽しもうと思えば楽しめる。
何より直輝にはかえって心の重しが取れたようで、以前より明るくなった。それほど不妊治療が彼に負担をかけていたのかと思えば、申し訳なさよりはやはり面白くない気持ちが先に立つ。が、とにかく一つの段階は終わった。後は〝お二人さまの老後〟を迎えるまで、夫婦で共通の趣味でも持って人生を前向きにエンジョイすることを考えよう。
そうはいっても、直輝はまだ三十五歳だ。定年を迎えるまでにはかなりの年月がある。土日以外、彼は仕事で殆ど家にいないから、夫婦の趣味だけでなく、紗英子自身もまた何か夢中になれるものを見つけた方が良い。
時間はたっぷりとあるのだ。焦らず、探してゆこう。そんな風に自然に考えられるようになったのは、やはり、昨夜の直輝との満ち足りた一夜のお陰だろうか。
昨夜、直輝はここで紗英子を求めてきた。骨太の手が紗英子のセーターをたくし上げ、荒々しく乳房を鷲掴みにし―。夫の口に胸の突起を吸われたときの感触を思い出し、乳房が重くなった。触れられてもいないのに、想像しただけで、突起がツンと立ち、ブラジャーに当たるのが判った。昨夜、一晩中、直輝に抱かれていた身体の芯は、まだかすかに欲望が燠火のようにくすぶっている。
直輝にとっては、その聖域に立ち入らせて良い者は有喜菜であって、紗英子ではなかった。その違いというか、意味は大きいと思う。しかし、直輝との結婚生活をこれからも維持していくつもりならば、これ以上、そのことについて言及するのは避ける方が賢明だ。
紗英子もまた裸のまま上掛けの下にすべり込んだ。パジャマや下着は直輝に脱がされたまま、まだ下に散らばっている。
それを見ると、余計に空しい想いが胸にひろがってゆくのは、どうしようもなかった。自分たちを繋ぐのは身体の繋がりだけ、直輝は自分に対して、大切なものを見せても良いと思える人間だと思うほどの価値を見出してはくれなかった。それは信頼という言葉で置き換えても良いかもしれない。
夫は十三年間、連れ添った妻よりも有喜菜をより信頼していたのか。
身体だけの繋がりなんて、何の意味もない。直輝と有喜菜は確かにただの友達にすぎなかったのかもしれないけれど、彼は有喜菜に、恋人であり妻でもあった紗英子には見せられないほど大切なものを見せていた。しかも、今から二十三年も前に。
紗英子は彼との間に二十三年分もの月日を積み重ねてきたのに、実は、その重みは彼にとっては何の価値もなかったということだ。
百歩譲って、それが言い過ぎだとしても、結局、紗英子と直輝の二十三年間は、有喜菜と直輝のたった一年間にも及ばなかった―そういうことだろう。
ヒーターが効いているはずなのに、俄に室内の温度が下がったような気がする。紗英子は思わず小刻みに身体を震わせ、慌てて上掛けを顎の上まで引き上げた。
その拍子に、上掛けが剥き出しになった乳房を掠めた。さんざん愛撫されて、敏感になった乳房の突起が布に触れる刺激にも、ぞくぞくする。
直輝によって火の点された身体はなかなか静まってくれない。そのこともまた今の紗英子には、やるせなさと哀しみをもたらした。
直輝と気まずい雰囲気になってからというもの、紗英子に眠りは訪れなかった。仕方なく、六時前には起き出して、キッチンで簡単に朝食の用意を整えた。
二人がけの四角いテーブルにいつものように向かい合って座る。リビングの方には昨夜のパーティの名残というか残骸がまだそのまま手つかずで残っていた。
直輝と二人で迎える聖夜のために心を込めて焼き上げたブッシュ・ド・ノエルや鶏肉の詰め物焼き、冷蔵庫にはよく冷えたシャンペンとグラスが入ったままだし、心弾ませて飾り付けた小さなツリーの点滅するイルミネーションは朝の白々とした光の下では何とも侘びしく興ざめに見えた。
あれを片付けなければならないと考えただけで、溜息が出そうになる。
キッチンにはこんがりと焼けたトーストと淹れ立てのコーヒーの匂いが立ちこめた。コーヒーを淹れるのは毎朝、直輝の担当になっている。直輝はむっつりとした顔で二人分のカップにコーヒーを注いだ。
この白いペアのカップは有喜菜が二人の結婚祝いにと贈ったものだった。共通の友人がわざわざ選んでくれたものだからと、紗英子も大切に愛用してきた。だが、今は、このカップを床にたたきつけて粉々にしてやりたい衝動に駆られる。
まあ、流石にそこまではやる気はないけれど、この際、新しいペアカップを買うのも悪くはないかもしれない。有喜菜を思い出すようなものはできるだけ身近に置いておきたくない。
そこで、紗英子はおや?と 首を傾げた。
いつもなら、朝、コーヒーを淹れた後は、早々と新聞をひろげる直輝が何を思ったのか黙々と食べ始めている。
結婚してから、紗英子はこの夫の癖を事あるごとにたしなめてきた。
―食事中に新聞を読むなんて、お行儀悪いわよ。今はまだ良いけど、子どもが生まれたら、躾けに悪いから止めてちょうだい。
結局、子どもには恵まれなかったが、夫のこの癖は十二年間、ついに直らなかった。最近では、紗英子ももう言うだけ無駄だと思っている。いつか義母―直輝の母に訊ねたら、彼の父親にも、そういう習慣があったという。
―私も子どもの教育に悪いと思ったから、止めてちょうだいって何度も頼んだんだけどねぇ。結局、直らなかったのよ。
義母は笑いながら言った。その言葉は直輝を咎めているようにも聞こえなくもないが、穿った見方をすれば、自分も諦めたのだから、紗英子にも諦めて見て見ないふりをしろと言っているようにも取れる。
直輝は上に姉、下に弟がいる。三人兄弟の真ん中だが、初めての男の子でもあった。中二のときから直輝と交際していたので、もちろん、直輝の母淳子には紗英子自身が中学生の頃から面識がある。さっぱりとした気性で嫁いびりとかいう言葉などとは無縁の人ではあるが、何しろ長男の直輝を溺愛している。
その点では、嫁として色々と付き合いにくい面もあるにはあった。いずれにせよ、義母は長男夫婦ではなく、弟夫婦と同居しているから、長男の嫁とはいえ、紗英子は気楽な立場ではあった。
直輝は結婚と同時に家を出て、紗英子と直輝は小さなコーポラスで新婚時代を送った。今のこのマンションに引っ越したのは、直輝のサラリーがかなり良くなった頃―三十前のことになる。
現在、直輝の実家は弟夫婦が暮らし、姑は彼等と一緒に暮らしている。義弟のところには子どもが次々と生まれて、いつ訪ねても三人の子どもたちの声でかしましい。姑は大変、大変と言いながらも、弟嫁が昼間は共稼ぎで仕事に出ているので、孫を保育園に送り迎えしたり、弟嫁が帰ってくるまで面倒を見たりするのが楽しくてならないようだ。
直輝が朝、新聞を読まないなんて、天地が引っ繰り返るくらい珍しいことなのである。
と、紗英子は夫が物問いたげにこちらを見ていることに気づいた。
「紗英―」
「直君―」
二人ともに声を発したのは、ほぼ時を同じくしていた。
「あ、そちらから、どうぞ」
「いや、お前から」
またも声が揃ってしまい、二人は顔を見合わせた。やがて、また同時にプッと吹き出してしまう。
「さっきはごめんな」
直輝が照れたように髪の毛をかいた。これも紗英子だけが知っている直輝の癖の一つ。夫は困ったときには、必ずと言って良いほど髪の毛を弄る。
「ううん、私も悪かった。ごめんなさい。直君に酷いことを言っちゃった」
紗英子は敢えて昔のように〝直君〟と呼んだ。バターを塗ったばかりのトーストを直輝に差し出す。
これも直輝の習慣の一つ。トーストには絶対にバターしか塗らない。ジャムや蜂蜜などの甘いものは大嫌いなのだ。もちろん、コーヒーにも砂糖やミルクは一切入れない。どんな料理にでも、余分な味付けをするというのが嫌いな男である。
「いや、俺の方こそ、おとなげなく怒鳴ったりして、悪かったと思ってる」
直輝はトーストを手にしたまま、しばらく思案顔だった。やがて、トーストを皿にのせ、立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
キッチンから出て、リビングの方に向かっている。何をするつもりなのかと眼を丸くして見ていたら、ほどなく裁縫箱くらいの大きさの箱を後生大事に抱えてきた。
四LDKのマンションは、キッチン、バスルーム、トイレの他には四部屋ある。それぞれ、夫婦の寝室、直輝の書斎、紗英子の居室、リビングという風に割り当てて使っている。
その箱は直輝の書斎ではなく、いつも居間の液晶テレビが据え付けてある台の下の棚に置かれていた。直輝個人のものなので、紗英子が無断で触れたことはない。
見た目は裁縫箱くらいの大きさで、木製の温もりの感じられる仕様だ。蓋にはアイボリーで〝WOODY TIME〟とプリントされている。あまり飾り気はないが、宝石箱か、小物入れといった感じだ。
直輝は箱の蓋を開いたままの状態で、紗英子に指し示した。
「見てごらん」
「凄いわ」
紗英子は思わず歓声を上げた。
上蓋が開いた箱の中は紅のビロード張りで、中には数え切れないほどの腕時計が並んでいた。
「どうだ、なかなかだろ」
得意げに言う様子は、中学生どころか小学生の男の子が宝物を披露するようである。
「有喜菜に見せたときは、まだ、この十分の一も集まってなかったと思う」
せっかくの夫婦の語らいに、またしても有喜菜が登場したことに―しかも直輝の方から先に出してきたことには鼻白んだものの、こここで指摘すれば、元の木阿弥になりかねない。
「これだけ集めるのは大変だったでしょ」
「まあ、な。仕事で海外に行ったときとか、国内でも仕事柄、あちこち行く機会があるから、そういうときに珍しい時計を探すんだ」
広告代理店といえども、様々な部署がある。直輝は営業だから、出張は多いのは確かだ。
「それにしても、よく集めたものねぇ。よほど時計が好きじゃないと、これだけ揃えるのは無理だわ」
「京都に行ったときに、凜工房も訪ねたことがあるんだ。何しろ、あの工房は時計に興味のある人間にとっては一度は脚を運んでみたい場所だからな。けど、そこの職人っていうのがまだ二十代の若さだっていうのに、頑固爺ィも顔負けの偏屈さで、何度訪ねても逢ってくれないんだ。結局、三度訪ねても逢えずじまいで、それきり、もう諦めてた」
直輝によれば、凜太という職人は基本、特注、個別注文でしか仕事は受けないという。一般店舗で売るために時計を作るということはまずないので、紗英子が時計店で凜太の作った時計を見つけたというのは奇蹟に等しいらしかった。
「どういう経緯で凜太の作った時計がその店にあったかは判らないが、まぁ、ラッキー中のラッキーだったってことだな」
よほど嬉しいらしく、直輝は左腕に時計を填めたままで、今も撫でさすっている。
「だから、本当に嬉しいよ、ありがとな」
これだけ歓んで貰えれば、贈る側も甲斐があったというものだ。正直、五万の出費はきつかったけれど、直輝がこれだけ手放しで歓ぶのなら、惜しい出費ではない。あのお金はいつか有喜菜と二人で韓国旅行に行こうと思い貯めていたものだ。
韓流ドラマを見て韓国ファンになった紗英子は是非、一度、韓国を訪れてみたかった。しかし、直輝はそういうものには全く興味がなく、有喜菜に打診したところ、独身の身軽さもあり、一緒に行くことを快諾してくれた―のだが。
もう、有喜菜と海外旅行なんてすることもないだろう。夫と有喜菜の間に、紗英子の知っている以上のものが存在すると知った今、有喜菜とは今度、あまり拘わりたくはなかった。判っている。二十年以上も昔、互いに幼かった子どもの頃の出来事でいちいち目くじら立てても仕方ない。
だが、プラトニックであれ、何かしらの感情が二人の間にかつてあったのだとすれば、紗英子にしてみれば二人にまんまと騙されたような気がするのは当然だった。いや、プラトニックだからこそ、余計に嫌なのだ。肉欲だけの交わりであれば、所詮はそこまで。しかし、身体よりもより深い部分―精神的な繋がりがあるのなら、その方がよほど厄介といえよう。
しかし、ここでこれ以上事を荒立てるのは、けして利口とはいえなかった。大切なのは、たとえ二十二年かかっても、やっと直輝が心の奥にしまっていた大切なものを紗英子にも見せても良いという気持ちになった―そのことだろうと思う。
むろん、はるか昔に有喜菜には見せた大切なものを紗英子にはずっと見せなかったことは、実は重大な意味を持つとは理解している。が、ここで騒ぎ立てれば、直輝の心が自分から離れていくのは判っていた。
だから、今は我慢する。
私は直輝の妻。たとえ彼が大切なコレクションを有喜菜にだけは見せたとしても、彼が人生の伴侶として選んだのは、この私なのだ。有喜菜なんかに、彼の心は渡さない。
立場的には、有喜菜よりも自分の方がはるかに優位なのだから、こんなことくらいで動揺する必要はさらさらない。子ども同士の他愛ない出来事だと笑い飛ばして、毅然としていれば良いのだ。
「別に深い意味があって、お前に見せなかったわけじゃないんだ」
弁解のように言う直輝に向かって、紗英子は笑顔で首を振る。
「良いの、今、直輝さんが見せてくれたから、私はそれで十分」
言い訳なんてされたら、余計に惨めになるし、二人の間を勘繰りたくなってしまう。
紗英子は口早に言うと、微笑んだ。
「さ、冷めない中に早く食べましょう」
言うだけ言い、後は夫の顔を見ようともせず、ひたすら味のないパンをかじり、苦いヒーヒーを飲んだ。
紗英子はコーヒーはどちらかといえば苦手で、紅茶党だ。しかし、直輝がコーヒー好きなので、いつも朝は彼に合わせている。時計にしろ、コーヒーにしろ、直輝は拘るとなると、とことん拘る性分なのである。
結婚する前から、自分の好みよりも直輝の好みを優先させて、ひたすら堪えてきた。何よりも直輝が好きだったし、直輝の側にいたかったから。だからこそ、大勢の美人で知的な女の子たちに言い寄られながらも、直輝のような良い男が自分みたいな平凡な女の子を選んでくれたのだと思う。
モデル並のルックスを持つイケメンと冴えない女の子、いつも誰もが二人をそんな眼で見てきた。直輝に嫌われない、飽きられないようにするために、紗英子はエステにも通い、いつも最高の自分でいるように心がけた。お化粧の仕方もわざわざ教室に通ってまで憶えたし、料理も習った。すべては直輝にふさわし良い女でありたいと願ったからだ。
それはけして金銭的にも精神的にも生半な努力ではなかった。でも、そのお陰でずっと直輝の側にいられたし、彼は結局のところ、自分を選んだ。だから、それらの努力もけして無駄ではなかったと思っている。
それから後は、いつもと変わらない静かな朝の時間が過ぎた。まだ、少しぎごちなさは残っているものの、少なくとも表面上、二人は何もなかったかのようにふるまっている。
♠RoundⅣ(踏み出した瞬間)♠
直輝を会社に送り出した後、紗英子は洗濯機を回し、すべての部屋中に掃除機をかけた。
イブの夜のご馳走は取っておけるものはラップをかけて冷蔵庫に入れた。今日はまだ二十五日なので、ツリーももちろん、そのまま飾っている。
ついでに風呂場とトイレも簡単に掃除し、すべてが終わる頃には洗濯が終わっていた。
住んでいるのは七階の比較的陽当たりの良い部屋なので、洗濯物を干すには助かる。その分、他の部屋よりは家賃も高いのは致し方ない。
紗英子はベランダに出ると、張ってあるロープに洗濯物を手際よく干してゆく。直輝と紗英子の二人分しかないので、干すといっても知れている。これで育ち盛りの子どもでもいれば、毎日、汚れ物がどっさりとあるのかもしれない。
一時は大変かもしれないけれど、そんな暮らしを夢見た。でも、それはついに叶わず、見果てぬ夢となった。
いつまでも終わった過去にしがみついているのは、愚かなことだ。日が経つにつれ、紗英子はそんな風に考えられるようになりつつある。もう子どもを持つという望みは完全に絶たれたが、直輝ではないけれど、かえって、その方が気楽に生きてゆけるかもしれない。セックスだって、排卵日を気にする必要もないし、昨夜のように奔放に楽しもうと思えば楽しめる。
何より直輝にはかえって心の重しが取れたようで、以前より明るくなった。それほど不妊治療が彼に負担をかけていたのかと思えば、申し訳なさよりはやはり面白くない気持ちが先に立つ。が、とにかく一つの段階は終わった。後は〝お二人さまの老後〟を迎えるまで、夫婦で共通の趣味でも持って人生を前向きにエンジョイすることを考えよう。
そうはいっても、直輝はまだ三十五歳だ。定年を迎えるまでにはかなりの年月がある。土日以外、彼は仕事で殆ど家にいないから、夫婦の趣味だけでなく、紗英子自身もまた何か夢中になれるものを見つけた方が良い。
時間はたっぷりとあるのだ。焦らず、探してゆこう。そんな風に自然に考えられるようになったのは、やはり、昨夜の直輝との満ち足りた一夜のお陰だろうか。
昨夜、直輝はここで紗英子を求めてきた。骨太の手が紗英子のセーターをたくし上げ、荒々しく乳房を鷲掴みにし―。夫の口に胸の突起を吸われたときの感触を思い出し、乳房が重くなった。触れられてもいないのに、想像しただけで、突起がツンと立ち、ブラジャーに当たるのが判った。昨夜、一晩中、直輝に抱かれていた身体の芯は、まだかすかに欲望が燠火のようにくすぶっている。