抗ガン剤治療が出来なくなった父は落ち込む事なく、できるだけ体力を戻すように歩いたりしていたようです。15キロくらい痩せたから。

私も四月から新しい職場で働く事に決めたので三月に一度実家に帰ったらあの震災が起きました。
実家は一応被災地に入っていたのですが、大きな被害もなく済みました。

7月には最強兵器の孫が誕生。
私も名古屋から会いに帰ってきた。

父がね、タカラモノを抱く様に抱くんだな。そうして感慨深げに顔を見ている。
良かったねお父さん、孫が抱けて。
その顔は私や弟には向けられた事が無いのではないかというくらいに優しい顔だった。

そうして秋、10月。
泌尿器科の受診で採った採血で腫瘍マーカーが上がったと電話が来た。

やっぱりだ。
やっぱりオペして1年で再発した。
父には

明日、外科を受診して

とだけ言った。
母に

本当にお姉ちゃんが言っていた通りになったね、凄いね。

と言われた。
何が凄いの?
何が?
もう、本当に自分が嫌だった。

とにかく父を在宅で看取る方向で準備をしないといけない。

やはり再発だった。それも広範囲に。
父は外来で主治医にきいたそうだ。

あとどのくらい生きられますか?来年の桜は見られますか?

主治医は何も答えてくれなかったらしい。しかも、娘さんならわかるかもしれないみたいな事を言ったんだよね…何で私なの…。
電話が来た

やっぱり全身に転移と再発をしていたよ。お父さんは余命を知りたいのに先生は答えてくれなかった。お前なら嘘はつかずに言ってくれると信じてる。
お父さんは来年の桜は見られるか?

私に父への予後告知をしろっていうこと?
私が?何で私がしなきゃいけないの?看護師だから?

お父さん、桜が見たいんだね。
うーん、そうだねーそれはちょっと欲張りかなぁ。
梅の花が見られたらラッキーと思おうか。

私の精一杯だ。3ヶ月あるかないかと告げた様なものなのだから。
なぜ私が言わなければならなかったの?
電話口で涙声になる父に、私はすぐ行って何かする事ができないのに。どうして私が?看護師だから?
私は今でもあの、涙を堪えて話す父の声を忘れない。

それから母と電話でやり取りしながら在宅に向けての準備をし始めた。
お正月、実家にも帰った。父との最後のお正月だから。その時、父の姿を見て

これは2月まで持たないかもしれないと思い、名古屋に帰ってすぐに退職の手続きを始めた。

今でも思う。
なぜ予後告知を私がしなければいけなかったのか。
娘から告げられた父はどう思ったのか。
私が看護師でなければ知らないままでその方が実は幸せだったのではないか。
私が看護師でなければ…そればかりが頭の中をグルグルと回っていた。