愛犬のトワを、ペットホテルに預けたのは、ほんの二泊三日だった。

急な仕事で、どうしても都内を離れなくちゃいけなくて。

トワはどうしても一緒に行けない。
泣く泣くホテルに預けた、あの日。

あの決断が、私にとって忘れられないものになるなんて、思ってもみなかった。
 

帰ってきたトワは、まるで別犬だった。
目に力がなくて、食欲もない。
おまけに、お腹を壊していて、帰宅直後にベッドの上で下痢をしてしまった。
 

「これは…環境が変わったことによるストレスでしょうね」
ホテルのスタッフさんはそう言ってくれた。
でも、私の心には別の言葉が深く突き刺さっていた。
 

「もしかしたら、分離不安の傾向があるかもしれません。
一度、プロのトレーナーさんに相談してみるのもいいかもしれませんね」
 

分離不安。

言葉は知ってた。SNSでも見かけるし、「甘えん坊のワンちゃんあるある」みたいな文脈で、なんとなく読んだこともある。
でも、うちのトワが…?

正直、信じたくなかった。

けど、思い返せば思い返すほど、心当たりは山ほどあった。

私が出かける支度をし始めると、そわそわと落ち着かなくなる。
靴を履く音に反応して、玄関の前で「行かないで」と言わんばかりに座り込む。
帰ってきたときには、部屋のクッションが破れていたり、決まってトイレ以外の場所で粗相していた。
 

…ごめんね。
ずっと、私のせいだったのかもしれない。
 

それでも、ちゃんと向き合えてなかった。
「忙しいから」「時間がないから」「そのうちなんとかなるかも」
そんな言い訳をして、大切な家族のSOSを、私はずっと見て見ぬふりをしてきたんだ。

トワが体を壊して、初めて自覚した。
「これは、ちゃんと向き合わなきゃいけない問題だ」って。
 

でも、どうすればいいのか分からない。
ネットには情報が溢れてる。
「ハウストレーニングがいい」とか、「お留守番の練習を少しずつ」とか、確かに書いてある。
けど、その“正しさ”が、今のトワと私にとっての正解なのか、まるでわからない。
 

そんなとき、SNSのある投稿が、私のスクロールする指を止めた。
 

「うちの子、分離不安でした。
でも、“分離不安って治るんです”
ちゃんとこの子に合った方法をすれば。トレーナーさんに感謝。
 

投稿に添えられていた動画には、
以前は常に飼い主さんの足元にいたという子が、ケージの中で落ち着いて寝ている姿が映っていた。
 

……ほんとに? 治るの?
うちのトワにも、そんな未来が来るの?
 

それでも、なぜかそのとき、
「私にも、できるかもしれない」って——ふと、思ったんだ。

私は、トレーナーさんの名前を検索し、公式サイトのフォームに、長いメッセージを書き始めた。
 



ドッグトレーナーのまいさんとの最初のカウンセリングは、オンラインだった。
 

顔が見えるZoomはちょっと緊張するなと思っていたけど、
画面越しに映ったその女性——小柄でナチュラルな笑顔のまいさんは、
拍子抜けするほど、物腰がやわらかくて優しい雰囲気だった。
 

「はじめまして。トレーナーの中川まいです。今日は、トワくんのことでご相談ですね」
 

私はうなずきながら、事前に書いたメッセージの内容をなぞるように、
トワのこと、ペットホテルでの体調不良のこと、日頃の粗相や不安行動のことを、できるだけ正確に話した。
 

どこかで「こんな飼い方してたらダメですよ」と責められるかも、と身構えていたけど、
まいさんはまったく否定せず、私とトワの関係をじっと、丁寧に聞いてくれた。
 

「楓さん、トワくんはね——たぶん、ものすごく“楓さんのことが好き”なんです」
 

予想とまったく違う言葉に、思わず笑ってしまった。
 

「分離不安って、ただの“甘え”じゃないんですよ。
“この人がいないと自分は生きていけない”って、本気で思ってる状態なんです。

愛情が深すぎて、依存になってる。だからまずは、“大丈夫だよ”っていう経験を積ませていきましょう」
 

まいさんがノートを画面に映しながら、プランを見せてくれた。


▶ステップ1:まずは家の中で“ひとり時間”に慣れる練習

  • トワをケージに入れ、飼い主は見える範囲で別行動

  • 最初は数分、徐々に時間を延ばす

  • 吠えても騒がず、静かに待つ。落ち着いたら褒める


▶ステップ2:“外出”のシミュレーション

  • 玄関まで行って戻る、靴を履いて戻る、など“外出の前触れ”に慣れさせる

  • 実際の外出は5分〜10分程度から。帰っても大騒ぎせず、落ち着いた声で対応


▶ステップ3:日常に“適度な疲労感”を取り入れる

  • 散歩を「ただ歩くだけ」ではなく、しっかり運動させる意識を持つ

  • 時間よりも“満足度”が大切。におい嗅ぎや小走りを組み合わせる

  • 「持ってきて(ボールなどを回収して戻す)」や「おいで(呼び戻し)」の練習も取り入れる

  • 全部をいきなりやろうとせず、今日はこれ、明日はこれと変化をつける
     → 人も犬も“義務感”ではなく“遊び感覚”で続けられる


▶ステップ4:生活の中に“小さなコマンド練習”を散りばめる

  • 「おすわり」「待て」「伏せ」など、基本のコマンドを日常動作の中でこまめに使う

  • 成功体験を増やして「飼い主の声を聞けば安心できる」という感覚を強める

  • コマンドを通じて飼い主と犬のコミュニケーションを密にし、信頼を積み重ねる


「分離不安は“留守番だけ”の問題ではなくて、普段の暮らし全体を見直すことが大切なんです」

まいさんの声は落ち着いていて、それでいて芯があった。
 

「散歩や小さなトレーニングを通じて、トワくんが“満足した一日”を過ごせるようにしてあげると、留守番のストレスも下がっていきますよ」
 

私はハッとした。
お留守番のときだけ頑張ればいいと思っていた。
でもそうじゃなくて、“一日の積み重ね”そのものが分離不安を和らげるんだ


トレーニングを始めた初日。

私は、まいさんから教わった通りに、ステップ1から挑戦してみることにした。
 

——といっても、たった3分間。
トワをケージに入れた状態で、私はソファに座って、あえて目を合わせないようにスマホをいじる。
たったそれだけのことが、こんなにも難しいなんて思わなかった。

「クゥーン……キュン……」

か細い声が、ケージの中から聞こえてくる。

胸がギュッと締めつけられる。
 

私は何度も振り返りたくなって、そのたびにスマホの画面に意識を戻した。

でも、トワの鳴き声はだんだん大きくなり、ついにはケージの中で吠え出してしまった。

「ワン! ワン! ワン!」

もうダメだ……。
 

私は耐えきれずに立ち上がり、ケージのドアを開けた。
飛び出してきたトワを抱きしめながら、「ごめん、ごめんね」と何度もつぶやいた。
 

——まいさんは「吠えてもすぐに構わないでください」って言ってたのに。
 

自己嫌悪でいっぱいになりながら、その日はトレーニングをやめた。
私には無理なんじゃないか。
トワに余計なストレスをかけてるだけなんじゃないか。
 

夜、ノートに今日のことを書きながら、私はまた泣いてしまった。

でも。
 

翌朝、まいさんから届いたメッセージを読んで、私はもう一度だけやってみようと思った。

「最初からうまくいかなくて当然です。
“うまくいかなかったこと”も、大事な観察です。
焦らなくて大丈夫。小さな変化が見えてきたら、それが第一歩ですよ」

 

それでも、まだ怖かった。

でも、やらなきゃ何も変わらない。

次の日、私は再びトワをケージに入れ、リビングの反対側にあるデスクに向かった。

今日はタイマーを2分にセットした。
昨日より短い。

でも、それでいいと思った。

トワはまた最初こそ小さくクンクン鳴いていたけど、
今日は吠えるまでには至らなかった。
 

私が2分後にそっと近づき、静かに「いい子だね」と声をかけると、
トワは私を見上げて、尻尾をゆっくり振った。
 

——あれ?
昨日より、ちょっと落ち着いてる?
 

その瞬間、私は胸がじんわり熱くなるのを感じた。
 

もちろん、また失敗する日もあるだろう。
長く離れる練習をしたら、また吠えるかもしれない。

でも、“この子と一緒に練習する”っていう感覚が、今までとは全然違う。
私が頑張るだけじゃなくて、トワも頑張ってくれてるんだ。
 

まいさんが言っていた。

「分離不安って、根気と信頼関係の積み重ねなんです」

 

きっと、すぐに“治った”っていう状態にはならない。
でも、あのSNSの投稿みたいに——

「この子と、ちゃんと生きていける」って、少しだけ思えた。

私は、また明日もトライすることに決めた。
 

焦らず、でも、あきらめずに。


次の日から、私は散歩の仕方を変えてみた。

ただ同じ道を歩くんじゃなくて、ときどき早足で一緒に走ったり、においをかぐ時間をちゃんと取ってあげたり。
途中で「おすわり」「待て」を入れて、できたらその場で褒める。
日によっては「持ってきて」のボール遊びをして、次の日は「おいで」の呼び戻しを練習する。
 

——“今日はこれ、明日はこれ”。
変化をつけるだけで、私もトワも、なんだかゲームをしているみたいに楽しめた。
 

最初はぎこちなくて、うまくいかないことも多かった。
でも、少しずつ、トワの目が私を見上げる時間が増えていった。
「次は何をすればいい?」と聞いてくれるみたいに。
 

ある日、散歩の帰り道。
昔ならリードをぐいぐい引っ張っていたトワが、私の歩幅に合わせて横を歩いていた。
ふと立ち止まって「おすわり」と声をかけると、すっと腰を下ろして私を見上げた。
その瞳の中にある落ち着きが、前とは違って見えた。
 

——ただ歩くだけの散歩が、“会話の時間”に変わっていく。
そのことが、私自身にとっても救いだった。
 

夜、ソファで隣に座るトワの顔を見ながら、私は思った。

「お留守番のトレーニング」じゃなくて、
「一緒に生きやすくなる暮らし」を、私たちはいま、作り直しているんだって。
 

もちろん、まだまだ完璧じゃない。
留守番のときに不安そうに鳴く日もあるし、粗相が完全になくなったわけでもない。
でも、その“揺れ”さえも「一緒に歩んでる証拠」だと思えるようになった。
 

トワは、私の声を聞こうと耳を傾けてくれる。
そして私は、トワの小さなサインを見逃さないようにしようと心を澄ませる。
その積み重ねの先に、きっと私たちの未来は広がっていく。
 

——大丈夫。
焦らなくてもいい。
今日できたことを喜びながら、また明日へ。

トワとなら、私はきっと乗り越えていける。
そう心から信じられるようになった。


散歩が、怖い。

前はあんなに楽しみだったのに。

仕事終わりに、あの子と並んで歩く時間が、何よりの癒しだった。
少しずつ距離が縮まってきて、「あ、この子もやっと私に心を許してくれたのかも」って思えて、嬉しかったのに。

でも最近、他の犬とすれ違うたびに、あの子が吠えるようになった。

「ワン! ワン!!」って、地面を蹴る勢いで吠えかかる。

吠え始めたら、もう、私の声なんて届かない。
名前をいくら呼んでも、見向きもしない。
特別に大好きなおやつを目の前で見せても、それどころじゃないって顔。

「ダメ!」って叫んでも、こっちを見ようともしない。
私はびっくりして、咄嗟にリードを引いてしまう。

吠えるのを止めさせなきゃって焦るたびに、私の声もどんどん大きくなっていく。

ああ……またやってしまった。

本当は怒りたいんじゃない。ただ、どうすればいいかわからないだけ。
だけど、怒ってしまったことには変わりなくて。

その夜、隣で眠る彼女の寝息を聞きながら、私は何度も心の中で「ごめんね」とつぶやいた。

SNSで「犬 吠える トレーニング」と検索しても、動画やブログは山のようにあるけど、どれも一長一短で、「うちの子には効かない」って思ってしまう。

なんでうちの子だけ…?

なんで私だけ、ちゃんとできないんだろう?

そう思ってしまう時点で、きっと私がいけないのかもしれない。
 

そんな時、近所の犬友達に紹介されたのが、「吉川先生」だった。

「昔ながらのスパルタ式じゃないし、犬も飼い主も大切にしてくれる人だよ」って聞いて。

ほんの少しだけ、希望を持ってみようと思った。
このままじゃ、散歩が「我慢の時間」になってしまうから。
愛犬にとっても、私にとっても。


 

 公園のベンチで出会った先生との会話

 

土曜日の朝、吉川先生との待ち合わせは近所の大きな公園。
メールには「〇番のベンチに座っていますね」と書いてあった。

ナナのリードを握る手に、うっすら汗をかいていた。
近づいていくと、そこには優しげな女性が座っていて、老犬が足元ですやすやと眠っていた。

「美月さん?」

「あ、はい……はじめまして。美月です。今日はありがとうございます……!」

「どういたしまして。じゃあ、少しナナちゃんと一緒にお散歩しながら話しましょうか」

そう言ってくれた笑顔が、不思議と安心感をくれた。


「散歩中、他の犬に吠えてしまうって聞いてたけど……タイミングはいつ?」

「相手の犬が見えた瞬間です。距離があっても、すごく反応しちゃって……。
名前を呼んでもダメで、最近は“また吠えるんじゃないか”って私が先に身構えちゃうんです」

「うん、あるあるですね。じゃあ質問。ナナちゃんが他の犬に吠えてる時、美月さんを見てます?」

「……見てないです。完全に“スイッチ入っちゃってる”って感じで、私のことなんて存在してないみたいで」

「そう。吠え始めたら、もう何をしても届かない。
だからね、大事なのは“まだ火がついてない時”にどうするか、なんです」

「“ついてない時”?…じゃあ、吠える前?」

「そう。
吠える前って、絶対にナナちゃんから“予兆”が出てる。
耳が立つ、尻尾が上がる、歩き方が変わる、視線が固定される……。
そういう小さなサインを見逃さずに、“今だ”ってタイミングで、別の行動に切り替えてあげるの」

私はハッとした。
ナナのことを「吠える子」だと思い込んでいたけど、
もしかして“吠える前の気配”を、私がちゃんと見てなかったのかもしれない。


 

 失敗からの発見、そしてもう一つのアドバイス

 

その日から私は、散歩中にナナの“予兆”を探すようになった。

ある日、遠くに犬が見えたとき、ナナの耳が立った。
尻尾がすっと上がった。

私はすぐにおやつを取り出して、ナナの前に立ち、名前を呼ぶ。

……見ない。

それでもリードを軽くたぐり寄せて視界を遮るようにしてみたら、ナナが立ち止まった。

その瞬間、おやつを口に入れて「いい子」と声をかける。

それでも、すれ違いざまにナナは吠えた。
いつもより短く、一声だけだったけど――やっぱり吠えた。

私は焦らず、呼吸を整えてナナの名前を呼ぶ。
少し間を置いて、ナナがこちらを見た。ほんの一瞬だけ。

吠えは止まらなかったけど、「あ、見てくれた」と思えたことが、妙に嬉しかった。

吠えることを止めさせるよりも前に、
まず“私の声が届く瞬間”を増やすこと。

今はそれだけで、充分だと思えた。


先生にLINEで報告すると、こう返ってきた。

「失敗じゃないよ。
“予兆を見逃したら吠える”ということを、今日はナナちゃんが教えてくれた日。
次は、もう少し早く気づけるようになるだけ。大丈夫」

そのメッセージに、私は涙が出そうになった。


後日、吉川先生に直接会ったとき、もう一つのアドバイスをくれた。

「見えている問題を変えたいなら、まず“全体”を見ることなんです」

「全体……?」

「つまりね、日々の関わり方、安心感、信頼。
“吠えた時だけ言うことを聞いてほしい”ってのは、ちょっと人間の都合なんですよ」

「……たしかに、そうですね」

「だから、毎日でいいんです。たった5分でも。
呼び戻しの練習、アイコンタクト、遊びを通じたやりとり。
そういう“ふだんの時間”が、関係性の土台を作ってくれる。
それがあるから、ナナちゃんは“この人の声を聞こう”って思えるんですよ」

私は、言葉が出なかった。
ずっと「吠えるか、吠えないか」ばかりに気を取られていて、
その前の「関係性の積み重ね」を、おろそかにしていたかもしれない。

「吠えた瞬間だけで、その子の全部をジャッジしなくていいんです。
見直すべきは“その瞬間”じゃなくて、“毎日”なんだから」

先生の言葉が、心にすっと染みこんでいった。


 

 少しずつ、変わってきたこと

 

その日から私は、ナナと“会話する時間”を意識して過ごすようになった。

散歩に出る前に、まず「ナナ、今日もよろしくね」と声をかける。
ほんの3分、玄関前でアイコンタクトの練習をする。
名前を呼んで、私を見たらごほうび。
ただそれだけ。

でも、それだけで、出発前の空気がすこしだけ変わるのがわかった。

道の途中で立ち止まって、軽く呼び戻しをしてみたり、
家の中でも時々、声をかけて「見る」「来る」を繰り返したり。

“吠えないためのトレーニング”じゃない。
“伝わりやすくなるための準備”。

この一週間で、私はそれを学んだ気がする。


夜、ナナが足元に頭を預けて眠る。

その寝息を聞きながら、私はスマホに「今日の観察メモ」を記録する。

  • 吠えたタイミングとその前兆

  • 私の声に反応した瞬間

  • 次にやってみたいこと

反省もあるけど、不思議と落ち込まない。

吉川先生が言っていた。

「一つの問題を直すには、全体を整えること」

あの言葉が、毎日を支えてくれている。


 

 おわりに

 

「犬が言うことを聞かない」
「私にはコントロールできない」
そう感じていた時、私が見ていたのは“犬の行動”だけだった。

でも、本当に変えなければならなかったのは――
“関係の質”だったのかもしれない。

「この人といると安心」
「この人の声なら聞きたくなる」
そんな関係を、これからも少しずつ、育てていきたい。

私たちはつい、「問題行動」をボタンひとつで消せる“解決策”を探してしまう。
でもそれは、ただの空想でしかない。
そんな魔法は、どこにもない。

明日の散歩もまた、きっと練習の続き。
焦らず、でもたしかに、私たちは変わっていけると信じている。
 

ーーーーーー
 

筆者について

物語を書くことが好きなドッグトレーナーです。
しつけのヒントになることや愛犬との関係が少し良くなる話ができればいいな、と物語書いてます。

オンラインしつけレッスンしています。
しつけや愛犬とのことでお困りこと、なんでも気軽にご連絡ください🎵

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 独白

 

夜中の2時、またコロの鳴き声で目が覚めた。
小さな体で必死に訴える声に、私は布団を跳ねのけて立ち上がる。おむつを替え、水を少し飲ませて、体勢を直してやる。終わった頃には時計はもう2時半。ベッドに戻っても、心臓の鼓動がうるさくて眠れない。

「私しか、コロの世話をする人はいないんだ」
そう自分に言い聞かせてはいるものの、心と体の限界は確実に近づいてきている。

夫は協力的じゃない。最初の頃こそ「大丈夫?」と声をかけてくれていたけど、今は「俺、明日早いから」と寝室のドアを閉めるだけ。私はリビングでコロと過ごし、気づけば別々の生活をしているみたいになっていた。

「なんで、私ばっかり……」
心の奥で、そんな言葉が何度も浮かぶ。だけど、口には出せない。だって、コロは私が一人暮らしの時からずっと一緒だった大切な家族。私が介護を投げ出したら、誰がこの子を守れるの?

でも、正直に言うと、しんどい。
毎日が「介護をこなすための時間」になってしまって、コロと向き合うときに、以前みたいな“幸せ”を感じられないことがある。そんな自分に気づくたび、胸が締め付けられる。

「これじゃ、コロも私も、幸せじゃないよね……」

ため息と一緒に、声にならない呟きが漏れた。


 

 出会い

 

週末の午後、駅前の小さなカフェ。
コーヒーの香りが漂う店内で、私は胸の中がざわついていた。

「本当に来てよかったのかな…」

テーブルの向こうに座るのは、ドッグトレーナーのゆらさん。記事の写真で見た通り、柔らかな雰囲気の人だった。

「楓さん、今日は来てくれてありがとう」
そう言って微笑むゆらさんの声に、緊張していた肩が少し緩む。

「近所の方から、専門家に相談したほうがいいって言われて…それで検索してたら、ゆらさんの記事を見つけて」
「そうだったのね。読んでくれてありがとう」

私は深呼吸してから、ぽつりぽつりと話し始めた。
夜中の介護で眠れないこと、夫が協力してくれず孤独なこと、そして一番苦しいのは、コロと過ごす時間が“幸せ”じゃなくなってきていること。

「こんな風に思ってしまう自分が嫌で…でも、正直もう疲れてしまって」

声が震えて涙がにじんだ。するとゆらさんは、そっとカップを置いて、まっすぐ私を見た。

「楓さん、それを“ちゃんと口にできた”ことが、もうすごく大切なんだよ」

胸の奥で固まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。


 

 アドバイス

 

ゆらさんは、私の話を最後まで黙って聞いてから、ゆっくり言葉を選ぶように口を開いた。

「楓さん、老犬の介護はね……“一人でやるものじゃない”んだよ」

その言葉に、思わず顔を上げた。
「でも、夫もあまり協力してくれないし……頼れる人なんて、ほとんどいなくて」

「だからこそ、外の手を借りるんだよ。デイケアや訪問サービス、病院がやっているデイプランだってある。みんな“他人に預けるのはかわいそう”って思いがちだけど、実際は逆。飼い主が心身ともに疲れきってしまう方が、犬にとってずっと辛いことなの」

胸の奥を突かれたような感覚があった。
私は「私がやらなきゃ」と意地を張っていたのかもしれない。

ゆらさんは続けた。
「もうひとつね。コロちゃんとの散歩は、続けてあげてほしいの」
「……でも、もう立つのもやっとで。歩かせるのは無理だと思っていて」

「歩かせることが目的じゃなくていいんだよ。ドッグカートに乗せて外の空気を吸うだけでも、犬は五感をフルに使って楽しむから。風の匂い、子どもの声、街の音。立てるときは少し歩かせてもいいし、ずっと座っていてもいい。大事なのは、“一緒に外を感じる時間”を持つこと」

その言葉を聞いた瞬間、心の中に小さな光が差し込んだ気がした。
散歩=歩くこと、という思い込みに縛られていた私。でも、そうじゃなくてもコロは楽しめるのかもしれない。

「介護ってね、“消耗する作業”じゃなくて、“一緒に過ごす工夫”に変えられるんだよ」
ゆらさんの声は、柔らかいけど力強かった。

私は涙をぬぐいながら、小さくうなずいた。
「……やってみたいです。私も、コロと“楽しむ時間”を取り戻したい」


 

 実践

 

数日後、私は思い切ってドッグカートを購入した。
段ボールから出したばかりの新品のカートを前に、胸が高鳴る。
「コロ、これに乗ってみようか」

最初は少し不安そうにしていたけれど、毛布を敷いてそっと乗せてみると、コロは静かに身を落ち着けた。
その姿を見て、胸の奥がじんわり温かくなる。

玄関を出て、カートを押して歩き出す。
外の空気を感じた瞬間、コロの耳がピクリと動いた。
風の匂いを嗅ぐように鼻をひくひくさせ、遠くから聞こえる子どもたちの笑い声に小さく反応している。

「コロ……楽しんでるの?」
問いかけると、コロは目を細めてこちらを見上げた。
その表情に、思わず涙がにじんだ。

歩道を進みながら、私は気づいた。
確かに、ゆらさんが言っていた通りだった。
“歩くこと”だけが散歩じゃない。
“感じること”が、散歩の本質なんだ。

ただ、それでも現実は簡単じゃない。
カートを押す手は思ったより重くて、階段や段差では立ち止まらざるを得ない。
通りすがりの人の視線が気になり、「甘やかしすぎなんじゃない?」という心ない声も耳に入った。
胸の奥がざわついて、正直少し引き返したくなった。

でも、そのときコロが鼻を空に向けて、風を吸い込むように深く呼吸した。
その小さな仕草に、私はもう一度背筋を伸ばした。

「ううん、大丈夫。これは、私とコロの時間なんだ」

散歩を終えて帰宅すると、コロはぐっすり眠った。
いつもより穏やかな寝顔を見て、私の心にも静かな安堵が広がった。

まだ始まったばかり。
これからもきっと大変なことは山ほどあるだろう。
でも、ほんの少しでも“楽しむ時間”を取り戻せたなら、きっと続けていける。

私はそう信じて、カートの横に座り込み、眠るコロの背中をそっと撫でた。


 

 摩擦

 

「……これ、いくらしたの?」
帰宅した夫が、玄関に置いてあったドッグカートを見て眉をひそめた。

「えっと……そんなに高いものじゃないよ。コロが外の空気を感じられるようにって……」

でも夫はため息をついて、冷たい声を投げつけた。
「もう18歳なんだろ? 無理させなくてもいいんじゃないの? それに最近、介護にかかるお金だって増えてるだろ。俺たちの生活だって考えないと」

胸がぎゅっと締めつけられる。
「無理させてなんかないよ。ただ……少しでもコロが楽しめる時間を増やしたくて」

そう言い返したけれど、夫は黙ってテレビをつけてしまった。
部屋には、コロの小さな寝息とテレビの音だけが響く。

私はカートのそばに腰を下ろし、思わず涙がこぼれた。
「どうしてわかってくれないんだろう……」

その夜、私はゆらさんの名刺を手に取った。
「もう一度……話を聞いてもらおう」


 

 再相談

 

数日後、私はまたゆらさんに会いに行った。
駅前のカフェの同じ席に座ると、ほっとするような、でも泣き出してしまいそうな感覚に襲われる。

「前に教えてもらったカート、コロすごく気に入ってくれて……。外の空気を感じてる顔を見たら、涙が出ちゃいました」
私がそう話すと、ゆらさんは「よかったね」と微笑んでくれた。

けれど、すぐに言葉が続かなくなる。
「でも……夫が反対で。『無駄遣いだ』って。私ばっかりコロのことに夢中で、夫婦の間が冷たくなってる気がして……」

ゆらさんは少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「楓さん、旦那さんは“介護の現場”に立っていないから、実感が持てないんだと思う。だからこそ、“コロが外に出て幸せそうにしている瞬間”を見せてあげることが大事なんだよ」

「見せる……」

「そう。『こんなに気持ちよさそうだったよ』『今日は風の匂いを楽しんでたよ』って、写真でも動画でもいい。言葉で伝えるより、“目で見てもらう”方が心に届きやすいの。介護ってね、“一人で頑張る姿”だけだと、どうしても理解が得にくい。でも“犬が幸せそうにしている姿”なら、一緒に共有できるでしょ?」

その言葉にハッとした。
私はコロの世話をする姿しか夫に見せていなかった。おむつ替え、夜中の介護、疲れた顔……。
それじゃ、夫にとって介護は「大変なこと」だけに見えてしまう。

「なるほど……。私が見てる“コロの幸せそうな瞬間”を、ちゃんと夫にも届けてあげればいいんですね」

「そう。介護は“共有”できるもの。たとえお世話の作業を手伝ってもらえなくても、“気持ちの共有”から始めることはできるよ」


 

 小さな変化

 

翌日の午後、私はスマホを片手にコロをカートに乗せて散歩に出た。
空は少し曇っていたけれど、風がやわらかくて心地いい。
カートの中でコロは鼻をひくひくさせ、通りすがりの花壇をじっと見つめている。

その姿をそっと動画に収めた。
小さな耳が風に揺れて、まるで若い頃みたいに目が輝いている。

夜。夕飯を終えて、夫がソファに腰を下ろしたタイミングで、思い切って声をかけた。
「ねえ、ちょっとこれ見てほしい」

スマホの画面を差し出すと、夫は最初こそ「なに?」と気だるそうだった。
けれど動画に映るコロを見た瞬間、眉が少し動いた。

画面の中で、コロは風を感じながらゆっくり瞬きをしていた。
私の声も少し入っていて、「コロ、いい匂いするね」と笑っている。
夫は数秒黙ったまま動画を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……楽しそうだな」

その言葉に、胸が熱くなる。
「うん。歩けなくても、こうやって外に出るだけで、コロすごく嬉しそうで」

夫はスマホを返しながら、視線を逸らした。
「……まあ、たまには一緒に行ってもいいかもな」

驚いて夫を見つめると、彼は照れくさそうにテレビに目を戻した。
それ以上は何も言わなかったけれど、私には十分だった。


 

 ラストの独白

 

コロと暮らして十八年。
気づけば「大変な介護」に心を奪われ、あの子と過ごす時間を楽しめなくなっていた。
でもゆらさんに会って、そしてコロの姿を夫と一緒に見ることで、少しずつだけど大事なことを思い出した。

介護は“こなすもの”じゃなくて、“共に過ごす工夫”なんだ。
無理に完璧を目指す必要はなくて、誰かに頼ってもいい。
そして、たとえ歩けなくても、目が見えなくても、犬は五感で世界を楽しんでいる。

それを“楽しむ時間”にできるのは、私たち飼い主次第なんだと思う。

もちろん、これからも夜中の介護で眠れない日があるだろう。
夫との意見がぶつかることも、きっとなくならない。
でも、もう「一人で抱え込まなきゃ」とは思わない。
コロが風を感じて目を細めたあの瞬間を、私は忘れないから。

――もし、同じように老犬介護に疲れてしまっている誰かがいるなら。
どうか一人で背負わないでほしい。
外の手を借りてもいいし、犬と一緒に「楽しむ」ことを許してほしい。

それが、きっと犬にとっても、私たちにとっても、一番の幸せにつながるのだから。

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物語を書くことが好きなドッグトレーナーです。

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 可愛いはずの家族が、悩みの種になってしまった

 

朝、洗濯物を干しているときだった。
郵便配達のバイクの音が遠くから近づいてきただけで、うちの犬は突然わんわんと吠えだした。

「もうやめて…」

心の中で叫んでも、吠えは止まらない。
玄関の前で郵便屋さんが立ち去るまで、10分以上も興奮したまま。

その声に驚いた小学生の息子は宿題をやめて手を耳に当て、下の娘は「うるさい!」と泣きそうな顔をしていた。

――本当なら、子どもたちの兄弟のように迎えた存在だったのに。

愛おしくて、かけがえのない家族のはずなのに。
気づけば、犬の吠え声は「幸せ」よりも「ストレス」を運んでくるものに変わってしまっていた。

夜になると、その日の吠え声が頭に残って眠れないこともある。
「どうしてうちの子は静かにできないんだろう」
「もしかして、私がしつけを間違えたのかな」

愛情と後悔がぐちゃぐちゃになって、胸の奥で重たい石のように沈んでいた。

 

 苦情と孤独感で心が折れそうに

 

ある日、ゴミ出しに行こうと玄関を出たときだった。
隣の奥さんが、少し険しい表情で私を待っていた。

「奥さん…ちょっといいかしら? 最近、ワンちゃんの声がすごく響いてて…。子どもが勉強に集中できないって言うのよ」

心臓がドクンと大きな音を立てた。
頭が真っ白になって、何も言えないまま「すみません」と繰り返すことしかできなかった。

帰宅して玄関のドアを閉めた瞬間、全身から力が抜けて床にへたり込んだ。
「やっぱり…迷惑をかけてるんだ」
「ご近所づきあいまで壊れてしまうかもしれない」

夜、夫にそのことを話すと、返ってきたのはため息まじりの一言だった。

「このままじゃ本当に近所から嫌われるぞ。もっとちゃんとしつけないと」

その言葉に胸がズキッと痛んだ。
私はもう必死でやっている。吠えたら叱って、静かになったら褒めて…。
でも結果は出ない。

子どもたちも「また吠えてるよ」と不機嫌そうに顔をしかめる。
気づけば、家の中でも外でも「吠えること」が話題になり、私だけが責められているように感じてしまった。

リビングで一人、吠え続ける愛犬を抱きしめながら涙があふれた。
「この子を守りたい。でも、私には無理なのかもしれない」

その夜は布団に入っても、暗闇の中で心臓の鼓動だけが大きく響いていた。

 

 それでも諦めなかった理由

 

「もう無理かもしれない」
そう思った夜も、布団の中で愛犬の寝息を聞くと、涙が止まらなくなった。

丸くなって眠る姿は、まるで子どもたちと同じ。
小さな背中を撫でながら、私は心の奥で必死に言い聞かせていた。

――手放すなんて、絶対にできない。

子どもたちに「兄弟を」と迎えた命。
家族の一員として、一緒に生きていこうと決めた存在。
たとえどんなに吠えても、私にとっては愛しい我が子だった。

「だから、なんとかしてみせる」

そう決めて、携帯を握りしめた。
SNSで「吠え癖 改善」「犬 トレーニング」と必死に検索を繰り返した。

そのとき、ある投稿が目にとまった。

「プロのドッグトレーナーに相談して、吠え癖が嘘みたいに減りました!」

写真には、笑顔で犬を抱きしめる主婦の姿。
その文章を読むだけで、胸の奥に小さな光が灯ったような気がした。

「もしかしたら…うちの子も変われるのかもしれない」

諦めかけていた気持ちが、ほんの少しだけ前を向いた。
その夜、私は思い切って、そのトレーナーにメッセージを送った。

 

 プロに相談して見えた“吠え癖がなくなるまでの道のり”

 

返信は、思ったよりも早く届いた。
「吠え癖は、原因を探って正しく対応していけば、必ずなくなっていきます。根気強くトライしていけば大丈夫。一緒に取り組んでいきましょう」

その言葉を見た瞬間、肩の力が抜けた。
ずっと私一人でやっていくしかない、そう思っていたからだ。

オンラインで相談を重ねるうちに、トレーナーは私の話を丁寧に聞いてくれた。
どんなときに吠えるのか、吠えたあと私はどう反応しているのか、家族はどう関わっているのか。

一つひとつ質問されるたびに、「なるほど」と心の中で点と点がつながっていった。

「郵便の音や来客に吠えるのは、不安や警戒心が強いからですね。
叱るのではなく、“安心できる状況”をつくることが大切です」

プロの言葉は、私の中の思い込みを静かに壊していった。
吠えたらすぐ叱る、そればかりが解決策だと思っていた。

でも実際には――

  • 安心できる環境を用意する

  • 吠える前に気をそらす

  • 落ち着いたらしっかり褒める

そんなシンプルな工夫こそが、一番の近道だった。

「完璧を目指さなくていいんです。少しずつ“できたこと”を積み重ねていきましょう」

その声に、張り詰めていた心がじんわりとほどけていくのを感じた。
「私にもできるかもしれない」――そう思えたのは、この日が初めてだった。

 

 挫折しそうになった時の支え

 

最初の一週間。
教わった通りに試してみても、犬はやっぱり吠え続けた。

「やっぱりダメなのかな」

夕方、リビングで子どもたちが勉強している横で犬がまた吠えだし、夫がため息をついた。

「結局、変わらないじゃないか」

その言葉が、胸に突き刺さった。
家族に理解してもらえない孤独感。
私一人だけが必死に足掻いているようで、涙がこみあげた。

その夜、トレーナーにメッセージを送った。
「思うようにうまくいきません」

しばらくして返ってきたのは、落ち着いた言葉だった。

「すぐに完璧を求めなくて大丈夫です。昨日より今日が少し静かなら、それは大きな進歩です」

その一文を読んだ瞬間、張りつめていた心が少しゆるんだ。

「小さな進歩を見つける」
そう意識を変えただけで、目の前の景色が違って見えた。

たとえば、チャイムの音で吠えても、前より早く落ち着いたこと。
郵便のバイクに反応したけど、吠える時間が少し短くなったこと。

気づけば、犬も確かに変わり始めていた。
その小さな積み重ねが、私にとって何よりの支えになった。

 

 吠えない日常がくれた安心と幸せ

 

数週間後。
夕方のチャイムが鳴ったとき、私は思わず息を呑んだ。

いつもなら一斉に吠えだすはずの愛犬が、玄関を見つめるだけで声を出さなかったのだ。

「……あれ?」

信じられない気持ちでそっと振り返ると、子どもたちが嬉しそうに顔を見合わせていた。

「ママ! 今日は吠えなかったよ!」

その瞬間、胸の奥から込み上げるものがあった。
涙でにじむ視界の中、犬を抱きしめると、小さな体は穏やかに震えていた。

「頑張ったね」

声に出すと、犬の瞳がまっすぐ私を見て、しっぽを振った。

近所に迷惑をかける不安も、家族からの責められる気持ちも、少しずつ消えていった。
リビングには笑い声が戻り、子どもたちは「もうこの子は本当のお兄ちゃんだね」と笑っていた。

――あの日、諦めなくて本当に良かった。

吠えない日常は、ただ静かになっただけじゃない。
愛犬をもっと愛おしく思える心の余裕と、家族みんなが安心して暮らせる幸せを運んできてくれた。

夜、窓から見える街の灯りを眺めながら、私はふと過去の自分に語りかけた。

「大丈夫。あの時、勇気を出して相談してよかったよ」

そう思える今が、何よりの宝物だった。

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物語を書くことが好きなドッグトレーナーです。

しつけのヒントになることや愛犬との関係が少し良くなる話ができればいいな、と物語書いてます。

 

オンラインしつけレッスンしています。

しつけや愛犬とのことでお困りこと、なんでも気軽にご連絡ください🎵

 

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 あんなに楽しみにしてたのに――

 

子犬を迎えた日のこと、今でもはっきり覚えてる。
にこはふわふわで、目がくりっとしてて、とても小さくて。
「家族が増えたね」って、私も夫もすごく嬉しかった。

あれから、まだ2ヶ月しか経ってない。
なのに、なんでこんなに苦しいんだろう。

朝起きるたび、ため息が出る。
リビングのラグにはまた小さな水たまり。
掃除して、消臭して、それでも染みついた匂いが消えなくて。
「また失敗かよ」って、夫が呟く声が、地味に効く。

私だって、やってる。
SNSで調べたしつけ方法、動画で見た手順、全部試した。
褒めて、おやつをあげて、トイレの場所も変えて…。
でも、何ひとつうまくいかない。

SNSを開けば、「1週間で完璧になりました!」っていう投稿。
おしゃれな部屋、笑顔の飼い主、清潔なトイレトレー。
それを見るたびに、胸がざわざわする。

「うちの子だけできない」
「私だけ、下手くそ」
「なんでみんなは、上手にできるの?」

だんだん、にこのことを素直に可愛いと思えなくなってきた。
夫とも、ぎくしゃくしてる。
このままじゃダメだって分かってるのに、何から手をつければいいかも分からない。

私、ほんとに向いてないのかな。
こんなに頑張ってるのに、誰にも伝わらない。
「犬を飼う資格なんて、なかったのかも」

夜になると、涙が止まらなくなる。
にこを抱きしめながら、「ごめんね」って何度もつぶやいて。
そのたびに、小さなしっぽが優しく揺れて――
その優しさすら、つらく感じる。

誰かに、ちゃんと相談したい。
ネットの情報じゃなくて、リアルな声が聞きたい。
でも、「うちの子、トイレができないんです」って相談することが、なんだか恥ずかしくて……。

私は今、たぶん人生でいちばん、自分に自信がない。


 

 トレーナーとの出会い

 

画面に映った女性は、予想していたよりもずっと柔らかい雰囲気だった。

ショートカットに、控えめなメイク。
優しい目元と、落ち着いた声のトーン。
「真由美」と名乗ったその人は、私の緊張をすぐに察したのか、ふっと笑って言った。

「大丈夫ですよ。そんなにかしこまらなくて。
 こちらこそ、お話ししてくださってありがとうございますね」

その一言で、胸の奥がすっとゆるむのを感じた。
思えば、誰かに「ありがとう」って言われたの、いつぶりだろう。

「……すみません、何をどう話せばいいか、正直わからなくて」

「うん、いいんですよ。焦らなくて。
 まずは、“今つらいこと”を、順番とか気にせず話してみましょうか」

その言葉に背中を押されるように、私はゆっくり話し始めた。

——トイレの失敗が毎日続いていること。
——ネットやSNSを調べても混乱するばかりで、正解が分からなくなってしまったこと。
——夫とも距離ができてきて、今はにこのことも素直に愛せていないこと。

話しているうちに、どんどん涙があふれてきた。
パソコンの向こうで、真由美さんは静かに、何度もうなずいてくれていた。

「……私、こんなはずじゃなかったんです。
 本当は、もっと幸せな気持ちでこの子を迎えたかったのに。
 今は、毎日泣いてばかりで……」

「明日香さん、それはね、“あなたのせいじゃない”ですよ」

画面越しに、真由美さんの声が、しっかりと、私の中に入ってきた。

「“トイレができない子犬”じゃないんです。
 “まだ、トイレのやり方を知らない子犬”なんです。
 そして、“教え方がわからなくて不安なだけの、頑張ってる飼い主さん”なんですよ」

その言葉を聞いた瞬間、視界が一気に滲んだ。

私は、この2ヶ月ずっと、
「ちゃんとできないのは私のせいだ」って、自分を責めてばかりだった。

でも、違ったんだ。
にこができないんじゃなくて、
私がダメなんじゃなくて、
“知らなかっただけ”だったんだ。

「……そんなふうに、思っていいんですか?」

「もちろん。むしろ、そう思っていいんです。
 失敗を見て『なんでできないの?』と感じてしまうのは、明日香さんが真剣に向き合ってる証拠です。
 ただね、犬の学習って、“正しく伝えれば、ちゃんと伝わる”んですよ」

「……正しく、伝えれば……」

「その方法を、これから一緒にやっていきましょう。大丈夫、焦らなくていい。
 子犬がトイレを覚えるのは、飼い主と信頼関係を築く大事なプロセスでもあるんですよ。
 明日香さんも、ご主人も、そしてワンちゃんも――
 三人で、ちゃんとひとつのチームになれますから」

この人なら、大丈夫かもしれない。

画面越しなのに、初めて「わかってもらえた」と感じられたその瞬間、
私の中で、何かが少しずつほどけていくのがわかった。


 

 小さな一歩を積み重ねて

 

翌朝、目覚めると、私の中にほんの少しだけど、違う感覚があった。
「うまくいくかどうか」じゃなくて、「今から知っていけばいいんだ」っていう気持ち。

まず、真由美さんに教わったことをノートに書き出した。

  • トイレのタイミングは “寝起き”“食後”“遊んだあと” が狙い目

  • 失敗しても叱らない。“無言で片付ける”こと

  • 成功したら、1秒でも早く褒めて、おやつをあげる

  • トイレの位置は “落ち着いて排泄できる場所” に見直す

  • ラグなど染み込みやすい素材は、トイレシートと勘違いするので、覚えるまでは片付けておく

  • 何より、飼い主が “ピリピリしすぎないこと”


朝ごはんのあと、にこがふいっと動き出す。
リビングの隅のトイレトレーに、くんくん鼻を近づけた。
そして、しゃがみ込んで……。

……できた。

できた!

「えらい!! すごいすごい!」

ほとんど反射的に声が出た。
慌てておやつを取り出して、小さくちぎって渡すと、にこは嬉しそうにしっぽを振った。
私も、笑ってた。
久しぶりに、心から。

「……やったね」

その一言を、私自身に向けて言っていた気がする。


もちろん、すぐに全部がうまくいくわけじゃなかった。

その翌日は失敗。
しかも、よりによって夫が新品で買ったばかりのラグの上。

「あぁぁ〜〜〜…」

とっさに声が出たけど、真由美さんの言葉を思い出す。

『叱ることより、“次に成功できるように導くこと”のほうが大事なんです』

深呼吸して、無言で片付けた。
夫は何も言わなかったけど、私の顔をちらっと見ていた。


夜、LINEで真由美さんに報告した。
「今日、成功1回、失敗1回。でも、叱らずに片付けました」

すると、すぐに返事が来た。

すごいじゃないですか!
明日香さんが落ち着いて対応したことが、いちばん大きな“前進”です😊
小さな成功を丁寧に積み上げていきましょうね。

 

画面の文字を見つめながら、じんわりと胸が温かくなった。

“うまくやる”ことばかり考えてたけど、
“少しでも昨日より前に進む”ことが、いちばん大事なんだって思えた。


 

 にこと家族になっていく日々

 

ある日、ふとした変化に気づいた。

朝、にこがトイレで成功したとき、
いつもよりもしっぽの振り方が激しくて、こっちをじっと見ていた。

「見て! わたし、できたよ!」

――そんなふうに、聞こえた気がした。

「すごいすごい! ちゃんとできたね!」

思わず手を叩いて褒めると、にこは得意げに足元に飛びついてきた。
柔らかな毛並みと、あたたかい体温。
あぁ、やっぱり私はにこが好きなんだって、心から思えた。


その夜、夫と食事をしながら、なんとなく言ってみた。

「ねぇ、最近にこ、トイレのあと“見て”って顔するよね」

「……あー、確かに。なんか得意そうな顔してる」

「やっぱり、褒められるのって嬉しいんだね。犬も、人間と一緒だ」

「お前も、褒められたら機嫌いいもんな」

「なにそれ(笑)」

久しぶりに、心から笑えた気がした。
食器を片付けるとき、夫がぽつりと言った。

「……あのとき、悪かったな。お前に任せっきりだった」

立ち止まったまま、私は夫の横顔を見た。
不器用だけど、ちゃんと伝えようとしてくれてることが分かった。

「ううん、私も、ひとりで背負いすぎてた。
 だから……これからは、一緒にやろうね」

夫は少しだけ照れくさそうに笑って、うなずいた。


真由美さんにも、その出来事を報告した。

「犬ってね、“できたこと”を褒められると、もっとやる気が出るんですよ。
 でも実は、“それを見ている人が嬉しそうにしている姿”こそが、
 もっとも強い“ごほうび”だったりするんです」

 

たしかに、私が笑って褒めたときのにこの顔――
得意そうで、嬉しそうで、キラキラしてた。

それを見て、私も嬉しくなって、
私が嬉しいから、またにこも嬉しくて――

まるで、小さな輪ができていくみたいだった。


 

 にこが教えてくれた、感謝と絆

 

休日の朝。
窓からやわらかい光が差し込むリビングで、私はソファに座って、コーヒーを飲んでいた。
足元には、丸くなってすやすや眠るにこ。

静かで、穏やかで、どこか満ち足りた空気が流れている。

ほんの数ヶ月前――
この部屋は、にこの粗相と、私のため息と、夫の沈黙でいっぱいだった。

「もう無理かも」と泣いた夜も、
「私には向いてない」と自信を失った朝も、たくさんあった。

でも今、こうしてにこの寝息を聞きながら思う。

あの日、真由美さんに相談して本当によかった。
“できない子”なんていない。
“伝わっていないだけ”だった。

そして私も、“できない飼い主”なんかじゃなかった。
ただ、“ひとりで抱えすぎていただけ”だった。


にこは、もう失敗しない。

朝起きたら、自分でトイレに向かって,終わると私の顔を見上げる。
「できたよ!」って言ってるみたいな、その得意げな顔が、たまらなく愛しい。

私が「にこ、えらいね」って声をかけると,しっぽを全力で振る。
そのしっぽの動きが、毎日のご褒美だ。


夫とも、少しずつ会話が増えた。
「今日さ、にこが初めて寝ぼけながらトイレ行ったんだよ」
「お前の真似してんのかもな」って笑う夫の顔も。ずいぶん柔らかくなった。

以前は,にこの失敗が“ストレス”だったのに,
今は,にこの成長が“会話のきっかけ”になってる。


あの日々がなかったら,
私たち,こんなふうに笑い合えていなかったかもしれない。

にこは、ただの「ペット」じゃない。

私たちに、“誰かと一緒に生きることの大変さ”と、
“それでも手を取り合う意味”を教えてくれた。

そして、“完璧じゃない日々の中にも、小さな喜びがあること”を教えてくれた。


私は今、ようやく胸を張って言える。

「この子に出会えて、本当に良かった」って。

ありがとう、にこ。
あなたが私たちにくれた時間は、ちゃんと宝物になってるよ。

これからも、一緒に歩いていこうね。

 

 

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物語を書くことが好きなドッグトレーナーです。

しつけのヒントになることや愛犬との関係が少し良くなる話ができればいいな、と物語書いてます。

 

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