愛犬のトワを、ペットホテルに預けたのは、ほんの二泊三日だった。
急な仕事で、どうしても都内を離れなくちゃいけなくて。
トワはどうしても一緒に行けない。
泣く泣くホテルに預けた、あの日。
あの決断が、私にとって忘れられないものになるなんて、思ってもみなかった。
帰ってきたトワは、まるで別犬だった。
目に力がなくて、食欲もない。
おまけに、お腹を壊していて、帰宅直後にベッドの上で下痢をしてしまった。
「これは…環境が変わったことによるストレスでしょうね」
ホテルのスタッフさんはそう言ってくれた。
でも、私の心には別の言葉が深く突き刺さっていた。
「もしかしたら、分離不安の傾向があるかもしれません。
一度、プロのトレーナーさんに相談してみるのもいいかもしれませんね」
分離不安。
言葉は知ってた。SNSでも見かけるし、「甘えん坊のワンちゃんあるある」みたいな文脈で、なんとなく読んだこともある。
でも、うちのトワが…?
正直、信じたくなかった。
けど、思い返せば思い返すほど、心当たりは山ほどあった。
私が出かける支度をし始めると、そわそわと落ち着かなくなる。
靴を履く音に反応して、玄関の前で「行かないで」と言わんばかりに座り込む。
帰ってきたときには、部屋のクッションが破れていたり、決まってトイレ以外の場所で粗相していた。
…ごめんね。
ずっと、私のせいだったのかもしれない。
それでも、ちゃんと向き合えてなかった。
「忙しいから」「時間がないから」「そのうちなんとかなるかも」
そんな言い訳をして、大切な家族のSOSを、私はずっと見て見ぬふりをしてきたんだ。
トワが体を壊して、初めて自覚した。
「これは、ちゃんと向き合わなきゃいけない問題だ」って。
でも、どうすればいいのか分からない。
ネットには情報が溢れてる。
「ハウストレーニングがいい」とか、「お留守番の練習を少しずつ」とか、確かに書いてある。
けど、その“正しさ”が、今のトワと私にとっての正解なのか、まるでわからない。
そんなとき、SNSのある投稿が、私のスクロールする指を止めた。
「うちの子、分離不安でした。
でも、“分離不安って治るんです”。
ちゃんとこの子に合った方法をすれば。トレーナーさんに感謝。」
投稿に添えられていた動画には、
以前は常に飼い主さんの足元にいたという子が、ケージの中で落ち着いて寝ている姿が映っていた。
……ほんとに? 治るの?
うちのトワにも、そんな未来が来るの?
それでも、なぜかそのとき、
「私にも、できるかもしれない」って——ふと、思ったんだ。
私は、トレーナーさんの名前を検索し、公式サイトのフォームに、長いメッセージを書き始めた。
ドッグトレーナーのまいさんとの最初のカウンセリングは、オンラインだった。
顔が見えるZoomはちょっと緊張するなと思っていたけど、
画面越しに映ったその女性——小柄でナチュラルな笑顔のまいさんは、
拍子抜けするほど、物腰がやわらかくて優しい雰囲気だった。
「はじめまして。トレーナーの中川まいです。今日は、トワくんのことでご相談ですね」
私はうなずきながら、事前に書いたメッセージの内容をなぞるように、
トワのこと、ペットホテルでの体調不良のこと、日頃の粗相や不安行動のことを、できるだけ正確に話した。
どこかで「こんな飼い方してたらダメですよ」と責められるかも、と身構えていたけど、
まいさんはまったく否定せず、私とトワの関係をじっと、丁寧に聞いてくれた。
「楓さん、トワくんはね——たぶん、ものすごく“楓さんのことが好き”なんです」
予想とまったく違う言葉に、思わず笑ってしまった。
「分離不安って、ただの“甘え”じゃないんですよ。
“この人がいないと自分は生きていけない”って、本気で思ってる状態なんです。
愛情が深すぎて、依存になってる。だからまずは、“大丈夫だよ”っていう経験を積ませていきましょう」
まいさんがノートを画面に映しながら、プランを見せてくれた。
▶ステップ1:まずは家の中で“ひとり時間”に慣れる練習
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トワをケージに入れ、飼い主は見える範囲で別行動
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最初は数分、徐々に時間を延ばす
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吠えても騒がず、静かに待つ。落ち着いたら褒める
▶ステップ2:“外出”のシミュレーション
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玄関まで行って戻る、靴を履いて戻る、など“外出の前触れ”に慣れさせる
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実際の外出は5分〜10分程度から。帰っても大騒ぎせず、落ち着いた声で対応
▶ステップ3:日常に“適度な疲労感”を取り入れる
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散歩を「ただ歩くだけ」ではなく、しっかり運動させる意識を持つ
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時間よりも“満足度”が大切。におい嗅ぎや小走りを組み合わせる
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「持ってきて(ボールなどを回収して戻す)」や「おいで(呼び戻し)」の練習も取り入れる
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全部をいきなりやろうとせず、今日はこれ、明日はこれと変化をつける
→ 人も犬も“義務感”ではなく“遊び感覚”で続けられる
▶ステップ4:生活の中に“小さなコマンド練習”を散りばめる
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「おすわり」「待て」「伏せ」など、基本のコマンドを日常動作の中でこまめに使う
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成功体験を増やして「飼い主の声を聞けば安心できる」という感覚を強める
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コマンドを通じて飼い主と犬のコミュニケーションを密にし、信頼を積み重ねる
「分離不安は“留守番だけ”の問題ではなくて、普段の暮らし全体を見直すことが大切なんです」
まいさんの声は落ち着いていて、それでいて芯があった。
「散歩や小さなトレーニングを通じて、トワくんが“満足した一日”を過ごせるようにしてあげると、留守番のストレスも下がっていきますよ」
私はハッとした。
お留守番のときだけ頑張ればいいと思っていた。
でもそうじゃなくて、“一日の積み重ね”そのものが分離不安を和らげるんだ。
トレーニングを始めた初日。
私は、まいさんから教わった通りに、ステップ1から挑戦してみることにした。
——といっても、たった3分間。
トワをケージに入れた状態で、私はソファに座って、あえて目を合わせないようにスマホをいじる。
たったそれだけのことが、こんなにも難しいなんて思わなかった。
「クゥーン……キュン……」
か細い声が、ケージの中から聞こえてくる。
胸がギュッと締めつけられる。
私は何度も振り返りたくなって、そのたびにスマホの画面に意識を戻した。
でも、トワの鳴き声はだんだん大きくなり、ついにはケージの中で吠え出してしまった。
「ワン! ワン! ワン!」
もうダメだ……。
私は耐えきれずに立ち上がり、ケージのドアを開けた。
飛び出してきたトワを抱きしめながら、「ごめん、ごめんね」と何度もつぶやいた。
——まいさんは「吠えてもすぐに構わないでください」って言ってたのに。
自己嫌悪でいっぱいになりながら、その日はトレーニングをやめた。
私には無理なんじゃないか。
トワに余計なストレスをかけてるだけなんじゃないか。
夜、ノートに今日のことを書きながら、私はまた泣いてしまった。
でも。
翌朝、まいさんから届いたメッセージを読んで、私はもう一度だけやってみようと思った。
「最初からうまくいかなくて当然です。
“うまくいかなかったこと”も、大事な観察です。
焦らなくて大丈夫。小さな変化が見えてきたら、それが第一歩ですよ」
それでも、まだ怖かった。
でも、やらなきゃ何も変わらない。
次の日、私は再びトワをケージに入れ、リビングの反対側にあるデスクに向かった。
今日はタイマーを2分にセットした。
昨日より短い。
でも、それでいいと思った。
トワはまた最初こそ小さくクンクン鳴いていたけど、
今日は吠えるまでには至らなかった。
私が2分後にそっと近づき、静かに「いい子だね」と声をかけると、
トワは私を見上げて、尻尾をゆっくり振った。
——あれ?
昨日より、ちょっと落ち着いてる?
その瞬間、私は胸がじんわり熱くなるのを感じた。
もちろん、また失敗する日もあるだろう。
長く離れる練習をしたら、また吠えるかもしれない。
でも、“この子と一緒に練習する”っていう感覚が、今までとは全然違う。
私が頑張るだけじゃなくて、トワも頑張ってくれてるんだ。
まいさんが言っていた。
「分離不安って、根気と信頼関係の積み重ねなんです」
きっと、すぐに“治った”っていう状態にはならない。
でも、あのSNSの投稿みたいに——
「この子と、ちゃんと生きていける」って、少しだけ思えた。
私は、また明日もトライすることに決めた。
焦らず、でも、あきらめずに。
次の日から、私は散歩の仕方を変えてみた。
ただ同じ道を歩くんじゃなくて、ときどき早足で一緒に走ったり、においをかぐ時間をちゃんと取ってあげたり。
途中で「おすわり」「待て」を入れて、できたらその場で褒める。
日によっては「持ってきて」のボール遊びをして、次の日は「おいで」の呼び戻しを練習する。
——“今日はこれ、明日はこれ”。
変化をつけるだけで、私もトワも、なんだかゲームをしているみたいに楽しめた。
最初はぎこちなくて、うまくいかないことも多かった。
でも、少しずつ、トワの目が私を見上げる時間が増えていった。
「次は何をすればいい?」と聞いてくれるみたいに。
ある日、散歩の帰り道。
昔ならリードをぐいぐい引っ張っていたトワが、私の歩幅に合わせて横を歩いていた。
ふと立ち止まって「おすわり」と声をかけると、すっと腰を下ろして私を見上げた。
その瞳の中にある落ち着きが、前とは違って見えた。
——ただ歩くだけの散歩が、“会話の時間”に変わっていく。
そのことが、私自身にとっても救いだった。
夜、ソファで隣に座るトワの顔を見ながら、私は思った。
「お留守番のトレーニング」じゃなくて、
「一緒に生きやすくなる暮らし」を、私たちはいま、作り直しているんだって。
もちろん、まだまだ完璧じゃない。
留守番のときに不安そうに鳴く日もあるし、粗相が完全になくなったわけでもない。
でも、その“揺れ”さえも「一緒に歩んでる証拠」だと思えるようになった。
トワは、私の声を聞こうと耳を傾けてくれる。
そして私は、トワの小さなサインを見逃さないようにしようと心を澄ませる。
その積み重ねの先に、きっと私たちの未来は広がっていく。
——大丈夫。
焦らなくてもいい。
今日できたことを喜びながら、また明日へ。
トワとなら、私はきっと乗り越えていける。
そう心から信じられるようになった。
