たぶん 想いはたくさんあるのに

書くことがこわい

伝えることがこわい


たぶん 知りたいこともたくさんあるけど

聞くことがこわい

触れることがこわい


自分と外界を遮断して

いいことないってわかってる


孤独が怖いのに 孤独をこのんでる



誰だっていろいろある

そんなの知ってる

自分だけが特別なんじゃない

そんなのわかってる


それでも 思いもよらぬ出来事たちに

とうの昔に息切れした

それでも起こる出来事たちを

無感情で受け入れてゆく



心と体は離れて行くばかり

あの頃に帰りたい

そんな無意味な欲望に

明日への希望は飲み込まれてゆく



普通

の定義なんて

自分でもわからない


きっとそもそも

定義がない


それでも望む

普通の幸せが欲しい



普通に暮らして

普通に毎日を過ごして

普通の幸せを得たい



どんな現実でも

いつもと同じように

桜は咲いて 散った



春が来た



そろそろ

陽の光を浴びに

出掛けようか



普通に笑っていられる

毎日を手に入れたい
「頑張ってください」


これは私がかけた言葉ではない。

私がかけられた言葉。

誰から?

宮城県の被災者の方から。


仕事でお話する機会があった男性だ。

ご自身は被災され、津波に巻きこまれている。

私が「お怪我はありませんか?」と伺うと、
「津波が大変でしたが、津波の中、人を助けることも出来て良かったです。私は無事です。」と。

その方が、最後に言った言葉が、「いろいろとご親切にありがとうございました。頑張ってください。」だった。
涙が出た。
私はごく限られたことを、仕事としてしただけなのに。


別の被災者の方は、骨折して入院したけれど、病院がいっぱいで退院した。けれど、待避命令が出ているからどこにもいけないと言っていた。

また別の方は、もう住む家がないと言っていた。


きっと、絶望感に覆われているはずだ。
私がいくら想像を巡らせても、計り知ることのできない現実の中生きている。

それなのに…
みなさんは、前を向いている。
そして、思いやりがあり、あたたかい。


離れた場所にいる者たちが前を向かないでどうする。
出来ることをみつけて、実行していかなければ。

ただ、前を向くことと、目を背けたり他人事のように日々を過ごすこととは違うように思う。
一見、大差ないが、大きく違うように思う。

それは心の遣い方の違いだと思う。
見えにくいものだけど、行動や言葉の端々に現れる。
自分を中心に置くか、誰かを思いながら生きるか。

価値観はいろいろあって当然で、良い悪いではない。
正解不正解もないだろう。


私は「頑張れ」という言葉が、自身も時々安易に使ってしまうが、好きじゃない。
何故なら、"頑張れ"は無責任な言葉に感じるからだ。
そして、"頑張れ"と言われる相手はたいてい既に頑張っている。
頑張れない時だってある。

便利な言葉にすぎない。
そう感じていたからだ。


ただ、今回言われた「頑張ってください」は、本当にありがたく、心に染みた。


私のこれからの人生にどんな困難が待ち受けているかはわからない。
けれど、窮地に立たされた時でも、あの男性のように、自分はさて起き、誰かにあたたかくおもいやりの言葉をかけられるような人になりたい。


おじさん、私も頑張ります。
一緒に頑張りましょう。