「コドモノクニ」が出てきたのなら、もうイイ加減コチラの方も…。

橋爪 豊 はしづめ ゆたか
1900(明治33)年7月18日
香川県 生
京都の西山翠嶂の画塾に学ぶ
1921(大正10)年 「婦人界」連載の絵物語『モントクリスト伯爵の復讐』の絵を担当する
1922(大正11)年 「コドモノクニ」創刊号より3号まで童画を手掛ける
1923(大正12)年 「主婦之友」の景品用童謡絵葉書を手掛ける
1924(大正13)年 主婦之友社に入社
1926(大正15)年 第7回帝展で初入選
1927(昭和2)年 第8回帝展でも連続入選となる
1934(昭和9)年 日本畫會展に入選
1935(昭和10)年 野田九浦門下第一回煌土社展より雅号を橋爪堆恩として出展し、以降この号で同展や日本畫院展などで出展を続ける
1943(昭和18)年 第6回新文展に入選
戦後は、日月社や再興煌土社展、日本画院展などで活躍しながら日展にも出展を続けた
1978(昭和53)年9月8日没 78歳
肖像画像写真は、昭和15年に美術雑誌「美術日本」に連載された第2回日本畫院展に出展された時の入選者集合写真に並ばれていたモノからのトリミング引用です。
日本画家橋爪堆恩としては、そこそこ情報も無いわけではなかったのですが、多くの資料では九浦門とされているだけで、いつから野田九浦門下となったのか…となると明確な資料に出会えておりません。一番古いモノでも昭和7年に刊行された「大日本画家名鑑 昭和7年版」に「九浦」と師匠筋の名前があるので、昭和7年以前には門下となられていたようではあります。
…ですが、拙ブログで取り合えているのは、あくまでも「挿絵画家」の橋爪豊であって、
橋爪堆恩の本名が豊で、さらに日本画家橋爪豊という人物が大正15年と昭和2年の帝展で入選されているといったところを官展入選歴重などで重ね合わせていき、
さらに、国立国会図書館デジタルコレクションや既出熊谷元一の所でも触れた1996年に久山社より日本児童文化史叢書として中村悦子、岩崎真理子編で刊行された「『コドモノクニ』総目次」という書籍などで目にすることができる橋爪豊の童画関連や「主婦之友」との関わりなどを詰め込んで何とか上記略年譜のようなところにはなる…のですが、
昭和18年に国民美術研究所編で美術春秋社より刊行された「西山画塾青甲社」という書籍掲載の「青甲社座談会」というモノで語られている西山翠嶂画塾が大正10年に立ち上げられた頃の回想の中に当時の門下に橋爪豊という若者がいたと語り残されており、香川生れの若者が日本画を学んでいたことも無く突然帝展に入選するとは考えられないと思えばこそ同一人物かなぁ…として取り入れてみております。
しかしながら、西山翠嶂画塾で学んでいたという橋爪豊という若者に関しては、座談会参加の青甲社の方々とは違って、大正13年の「第一回青甲社画集」に作品掲載がなく、京都日本画関連でもこの座談会に名前が出て来ているだけ…。となると、逆に、大正10年に「婦人界」で絵物語の筆を取っていたというのも、その頃には東京に出て来ていたから…ということであれば、以降の「コドモノクニ」の橋爪豊や「主婦之友」の橋爪豊とやっぱり同一人物で…と考えたくもなるのは人の性。
確認できる資料は無いんですけどねぇ…。
大正15年の帝展初入選の時は東京より出展となっているようですが、
主婦之友社では、「主婦の友社の五十年」などを見る限りでは洋裁記事の説明図などを担当していて、本誌連載小説などの挿絵に関してもほとんど描いていないというような、他の出展歴などの無い“日本画家”が突然帝展に入選する…というのも何とも気にかかるところ…となると、この頃には野田九浦門下として日本画研鑚しながら「主婦之友」の仕事をしていた…のかなぁ…とも考えられなくもないのですが、いかんせん、この時期の野田九浦の門下…といったところも目に止まる資料などが見つけられておらず、いやはや、推察するのみです。
…とこれまで出し渋っておりましたが、今のところはこんなところです。
何にせよ、何か補填できにるような情報御存じの方おられましたら、ご教示いただけますと嬉しい限りです。