ここ(つまり東京)に越してきてから一ヶ月が経とうとしている。あるいは自分が振り返るときの記念碑的なものとなるかもしれないとの期待を込めて、簡単に心境と思想(果たしてそんな大層な名前をつけていいものか自信がないけれど)を記していきたいと思う。

 

東京は窮屈な街だと思う。高層ビルが林立し人々は時計を見ながら歩き、太陽は冗長な暇を持て余してただアスファルトのみを明るくしている。空が狭いという形容は使い古されているが、同時にあらゆる「一人称単数」が闊歩しているその光景に目を見張り自分の足元を確かめることがあることもまた事実である。

 

大学と自宅の位置関係上、渋谷をよく利用する。東京の第四象限にある自宅から第三象限を原点から等距離を保ちながら山手線等で渋谷まで行き、そこからx軸上を負の方向へ井の頭線で移動して大学を目指すのだ。渋谷は人の宝庫である。人が海波のように流れていく。人海という言葉を当てはめてみたくなる。多くの人がいる。疲れた顔をするサラリーマン。ビラ配りをするメイド服の女性。学校帰りの中学生。

彼らはそれぞれの人生における主体であると同時に見られる、肩がふれる、そして時には舌打ちをされる、において客体である。主体と客体の交差・倒錯が混沌としながらも行われている様子が煌めきのように眼前で飛び散っていく。海の存在がそこで認められるから生じる現象である。梅田、京都での経験がこれに敵うわけもなかった。

 

ある種の窮屈さは電車の中でも発揮される。東京では満員電車が多い。そこではある不文律が存在するようだ。その不文律は乗車時に発揮される。背負っていたリュックサックを一度下ろし体の前方に移動させ、もう一度背負う。リュックサックと腹がくっつくように前方で背負うのだ。(背負うの「負う」の部分を考えればいささか滑稽な表現である。閑話休題)関西に住んでいた頃は経験はなく見渡す限りそのような「珍奇」な格好をした人間がいることを発見し、面食らった。そして同調してみようと思い彼らと同じようにリュックサックの位置を移動させてみることにした。しかしどうもその格好では、本を読むにもスマートフォンを見るにも腕を動かしづらい。おそらく相応の慣れが必要なのだろう。その意味では私は東京外の者である自分を意識させられる。慣れた手つきで自らの世界に没頭しようとしている周りの乗客を見ながら。

 

所属しているコミュニティを離れたときに初めて、自分が密かにアイデンティティとしていたものや帰属先を強烈に意識させられるらしい。前掲の電車での話題もそうだが言葉の面でも、口を開けるたびに自分の側で帰属を囁かれているような感覚に陥る。東京の人の話し方はどうもしっくりこない。痒いところに手がとどかないような感覚である。関西弁に触れるたびにようやく腑に落ちるような感覚である。実際、私は東京生まれの母がいたこともあり、家では関西弁はほとんど使わなかった。家から一歩外に出ると関西弁へと頭をスイッチするような生活を15年以上送ってきた。しかし外での言語経験が私の中でのスタンダードとなり核となっていたようだ。「なっていたようだ」と書くのはそれがこの一ヶ月の間で認識できるようになり、その結果を正しく把握している自信がないからだ。標準語を聞けば相手を「他」と認識し、対して関西弁を話す者として「自己」をより強力に創造するようになった。あるいはそのような創造が自己を排他的にならしめているのかもしれないが。

 

今日、電車で強烈なピンクを見た。メタファーではなく実体のピンクである。スーツを着た女性の髪色がショックピンクだった。鮮やかな桃色が意識の下層で何らか作用をおこすのかと見るのも楽しい。下層での変革が玉突き的に多くのものの配置を少しづつかえ、やがて星回りを一変させ、形而下として何かが現れるかもしれないと期待をかけてみたりする。少しの変革ならそこかしこにありそうだ。なにしろ人はそれだけで海が作れるほど多いのだ。東京は楽しい街であるかもしれない。ひょっとすると。