日比野衣里亜『AREA UNIVERSE』自分の人生は自分でクリエイトする

日比野衣里亜『AREA UNIVERSE』自分の人生は自分でクリエイトする

『地球を楽しみたい女』日比野衣里亜のブログ

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こんにちは!


 
『地球を楽しみたい女』

日比野衣里亜です。


 
幼少期はコンプレックスだらけ

苦しい事だらけで消えちゃいたい

 
何度も自分を辞めようと思っていた私が


いかに自分をクリエイトしてきたか?

 
『AREA UNIVERSE』のエッセンスを


必要としている人へ届けたい!
 

そんな思いで綴っていきます。


 
誰だって失敗するし

 
気が付いたら真逆を進んでいる事だってある。
 


でも気が付いた時がチャンス!
 


生立ちや年齢なんて関係ない。
 
さあ地球を楽しもう!

 
私の自己紹介を見てない方はこちら☟
https://ameblo.jp/eliavenus/entry-12794960415.html

 

 

 

明日は!とお伝えして

13日も経ってしまいました。

 

お約束を守れずすみません。

 

さあ頑張ろう!と自分へのエールの意味も込めての

初めてのブログをアップした日

 

『3月23日』

 

ブログを上げてから気がついたのですが私にとって

いろんな巡り合わせがある数字で

感慨深いものがあり

 

自分の細胞に向かって本当に発信してみたい?

私の黒歴史を本当に公開していいの?

大丈夫かい?って

 

自分の殻を破るための期間になってしまいました。笑

 

きっと見る人にとっては何にもない小さな事だと

 

頭では分かっていたはずなのに

 

変にドキドキしてしまいます。

 

それくらい本当は恥ずかしい。

 

でも10年前の私と今の私は全然違う!

 

さあ地球を楽しもう!っということで

 

ブログをアップさせて頂きます。

 

後半の生立ちですが少々

ヘビーな内容と思う方もいらっしゃる

かもしれないので

苦手な方はお控え下さい。

 

少し長いですが、興味のある方はお付き合いください!

 

10年前の3月23日

 

私は初めて主人と出会いました。

 

 朝起きてすぐに夫からの

『今日は何の日?』の質問に

私はいつもドキドキしてしまいます。

 

私よりも女子力高めな夫の方が

記念日はいつも覚えていて私が忘れる始末。

 

でも今回は大丈夫です!

 

先週から主人に3/23で出会って

10年経つね♪って言われていたから。

(本当良かった 笑)

 

ハグしながら夫は

結婚してくれてありがとう!

出会ってくれてありがとう!と

言ってくれた耳元で私が

『色々ありすぎたね!』って言ったのは

余計だったみたいです。笑

 

そしてちょうど

昭和2年3月2日生まれだった 

私の尊敬する祖父が95歳で亡くなってから 

100日目。

 

何だか私は祖父とは数字の繋がりを感じます。

 

私は平成2年7月2日生まれ

そして娘は平成30年7月30日生まれ

 

きっとこの地球で祖父の孫で生まれた

意味が何かあるんじゃないかと

勝手に感じています。

 

お医者さん一筋だった祖父は

亡くなる4年程前まで自宅の横の

病院で看護師さんにサポートされながら

患者さんを診ていました。

 

母が亡くなってから

祖父の養女だった私は

祖父には感謝しかありません。

 

そんな日に私は自分の黒歴史を

公開しようとしていたなんて・・・

 

でもそこ隠しては今の私は居ません。

 

あの時があったからこそ

今の私がいるので

どうせなら生かそう!と思っています。

 

 

私は北海道の札幌時計台の

今はなき助産院で産まれました。

 

父は苦労人でイケメン好きの祖母が

何回か結婚し引越しが多かった為

かけ算は学校で習ってなかったり

お金がなくて苦労した事が沢山あったそうで

堅実で節約好き、浪費大嫌いな大学の先生でした。

 

母は町医者の娘、母が幼い頃は

とても祖父母は忙しく家にいなかったからか

アメリカの留学中ホームステイ先の

家族に憧れて帰って来た時には

モルモン教徒の洗礼を

受けて帰って来たそうです。

髪が長くいつも三つ編み一本でお化粧は

ほぼ口紅くらいナチュラルで素朴な人でした

私が保育園の時位まで中学校の英語の先生でした。

 

両親は厳格なモルモン教徒の

コミュニティーで出会い

 

学生結婚後すぐ私が産まれます。

 

そこから物心つく前に

東京の田舎 府中市へ

(23区外は東京じゃないって言わないで)

砂壁の暗くて小さなアパートで

家族3人つつましく暮らしていました。

 

その後小学生になる前後で

父がアメリカの研究室へ行くのに

家族でついていく事になりました。

 

アメリカメリーランド州の

確かボルティモアの近く

 

英語も話せないまま現地の小学校

エレメンタリースクールへ通い

 

何で日本人なのに英語なんか

話さないといけないの?と

反発しながらも夢まで英語になりました。

 

あのままでいたら

きっと私は今頃ペラペラで

最強だったはずです!

 

数年して日本に帰ってくると

母に癌が見つかり闘病生活へ

小学4年生の時に母は亡くなりました。

 

父は母の事が大好きすぎて受け入れられず

とても落ち込み鬱になりました。

 

その頃の父の口癖は『物憂い』

小4の私にはさっぱり分かりませんでしたが

 

大好きな家族が出来た今なら気持ちが分かります。

 

父は少し時間が空くと気分が沈んでしまうらしく

仕事や出張を頑張っていたので私は鍵っ子でした。

 

寝込んでいた時期もありますが

 

父なりに私を育てようと必死で頑張って

くれていたのだと思います。

 

私は母が亡くなってから実感するまでに

なぜか時間がかかりました。

 

悲しくもなかったし。

無でした。

 

あまりにも落ち込む父を見て

私はしっかりしなきゃと

思っていたのかもしれません。

 

でも小学4年生。

父に甘えたくもなります。

 

父は自分を生きることに精一杯で

俺にお母さんとお父さんの2役は

できないんだ!と言って声を荒げることがあったけど

 

私はお父さんにお母さんを

求めていたのではなくて

ただお父さんに甘えたかっただけなのですが

 

あの頃の私と父は空回りしていたのかもしれません。

 

そんなこんなで荒れている父を

側で見ていて何も出来ない私自身にも

 

少しずつ歪みが出てきます。

 

お腹が空いていないのにパン一斤

冷凍うどんにピラフなど

冷蔵庫にあるものを気持ち悪くなるまで

食べるのが一定期間続く

お腹がパンパンになれば

気持ち悪いけど心は落ち着くのです。

 

今度は少しでも食べ物を口にすると

気持ち悪くなって飲み物だけ口にする

 

父が心配しないように

食べ物は捨ててました。

 

今思うと本当にもったいない事を

したと反省しています。

 

それでも心が埋まらなくて

食べる食べないの繰り返しで

自分が生きている実感を得ていました。

 

体重の増減も激しく

小学生の身体に立派な

ストレッチマーク

 

幼い頃から背が高く一番後ろで前ならえしか

してこなかった私の背が高いこととストレッチマークは

私のコンプレックスになります。

 

父か私が上手く出来ない事があると

とても声を荒げて怒るように

手を上げるようになります。

 

父は段々と成長する私に

母の面影を重ねていたのでしょう

そして体調も悪かったから余計に

イライラしてしまったのだと思います。

 

私は段々壊れてきます。

 

父は小銭やお札に書いてある

珍しい年号などを集めていたのですが

 

父の目を盗みお金を使うようになります。

 

お菓子や食べ物いらない文房具

 

これは親であっても決して

しては行けない事です。

 

誰に相談したら良いのか

どうしたらこの気持ちが

無くなるのか分かりませんでした。

 

学校も休みがちになります。

 

父は父なりに悩み私の為に

お見合いをしたりして

何人か家に女の人を連れて

来た事もありました。

 

でも小学生の私の中では

お母さんは1人だけ!

他は誰が来ても嫌!

今思えばもっと良いよって

言ってあげれば良かったのに。

考えもせず家の中に他の人を

連れてくるのを嫌がってしまいました。

 

落ち着かない日々が続き私は

お金を親から盗んでは

どんどん勝手に使うようになります。

 

そして堪忍袋の尾が切れた父は

同時担任だった小学校の男性の先生に

SOSを出しました。

 

私は散々怒られて登校してから

担任の先生に別室へ呼ばれます。

 

『どうしてお金を勝手にとったの?』

 

『使いたかったから』

 

本当は他の事も色々言いたかったけど

男性の先生には言えない事だらけで

どうしても言えませんでした。

 

こんなんじゃダメな人間になってしまう。

私はお母さんに心に中で何度も謝りました。

 

どうして良い子になれないんだろう。

どうして早く心も体も大人になれないんだろう。

 

中学生になり私は新しい環境で

心機一転楽しい1年間を過ごします。

 

仲良しな子も出来て

好きな子も出来ました。

 

やっとここからやり直せるかな?

 

そんな矢先1年生の終わり

 

父は母が救えなかったと無念も

あったと思うのですが

働きながら子育てしながら

医者を目指し医学部に見事合格

 

岡山へ引っ越す事になります。

 

引っ越したくない私と

引っ越し作業を進める父

反発する気持ちがたくさん出てきます。

 

やっと自分の気持ちを話せる友達ができたのに。

 

その時の私の心の救いは友達との時間でした。

 

岡山に引っ越す前から

私に手を挙げることがあった父ですが

学生になり学業に勤しみながらの

子育ては余計大変だったからか

私に暴力を振るうようになります。

 

体にはあざができて

私の心にも限界が来ます。

 

だんだん勉強にも打ち込めなくなって

勝手に涙が止まらない。

 

テレビを見ていて笑ってても涙が出てきたり。

自分でも変だと思ったのですが環境が変わったので

なかなか周りに相談する事ができなくなります。

 

いつか父に殺されてしまう。

私が死ぬか父を殺すか?

 

中学生になってからは私が朝ごはんを

作ったりしていたのですが

気がついたら父の枕元まで包丁を

持って行っていた事がありました。

 

母が悲しむ顔が脳裏に浮かんで

殺すことはできないけど

もう叩かれたり蹴られるのも限界があります。

 

不安定な日が続いてから

 

中学3年になる直前の春先のある朝

 

私はほうれん草のおひたしを作ったのですが

茹でる前にしっかり洗えていなかったようで

 

父が噛んだ時に砂を感じたこと

私がおひたしに自分だけお醤油をかけたこと

 

をきっかけに朝からブチギレられます。

父はお箸を私に投げつけて声を荒げ家を後にしたのですが

 

私は学校から帰ってからの

父との時間を想像するだけで

暴力を振るわれるのが分かっていたので

もう家に帰る勇気がありませんでした。

 

他のことでイライラしていたのかもしれませんが

父を止めてくれる人も

私を守ってくれる人も

居ません

せっかくあざが治ったばかりなのに・・・

 

そんなことを考えながらも泣きながら学校に行きました。

 

父も私も一杯一杯でした。

 

学校に着くと私は

少し前からSOSを出していた先生へ

 

泣きながら家に帰りたくないと伝えました。

 

先生は児童相談所へ電話するけど良い?

と確認をとってから連絡を入れてくれました。

 

これからどうなってしまうのか怖かったけれど

 

とにかく誰か大人に助けて欲しかった。

 

私はその日から学校へも通わず児童相談所の

隔離施設の中で夏過ぎまで約5ヶ月過ごすことになります。

 

沢山泣いた後外部との連絡は取れないので

携帯電話に家に鍵所持品は制服を含めて全て預け

 

上下スエット。

 

いろんな年代の事情があって家に帰れない

18歳までの子供が職員の方に見守られながら

生活していました。

 

入れ替わりいろんな子がいたけど

みんな優しくて心が安らいだ

職員の人たちも話を聞いて

見守ってくれて現実から少し離れて

リラックスできた。

私にとっては暴力がない天国。

 

夏を過ぎた頃私は岡山県内の

児童養護施設に入所することになり

そこからまた別の

新しい中学校へまた通うことになるのですが

なぜか私はフラッシュバックや不眠で

過呼吸に悩まされました。

 

保健室は私の心のよりどころ。

 

普通の生活を送れば送るほど

怖かった場面や辛かった事を思い出してしまって

 

考えないようにすればするほど呼吸ができなくなります。

 

でも新しくできた友達も出会って間もない

私を助けてくれて心強かった。

 

程なくして私は祖父母の養女になります。

 

父との裁判は辛かったけど一緒には暮らせませんでした。

 

高校は母の実家の福岡へ行くことを決め

 

10月からいきなり高校受験勉強スタート!

 

3ヶ月しかありませんが

 

朝や放課後に担任の先生に勉強を習い始めます。

 

いとこ家族のサポートもあり塾へ行ったり短いながらも頑張りました。

 

周りのサポートのおかげ様で久留米の私立へ合格します。

 

「普通科 ドリームコース」

 

ドリームコースの詳細はまた別の機械に

お話しするとして高校生活は楽しかった。

 

久留米に住んでいるいとこ家族のサポートと

 

祖父母のサポートのおかげで

 

普通の生活を送れていたと思います。

 

でもそんな時にまたフラッシュバックが襲ってきます。

 

おそらくPTSDだったのかもしれませんが

 

普通の生活は幸せで良いはずなのに

 

そんな時になぜか辛かったことを思い出してしまいます。

 

生きている意味はあるんだろうか?

 

父は私が死んでおけば良かったと思っているのでは?

 

私がそもそも生まれてこなければ

 

祖父母を悲しませたり

 

いとこ家族に迷惑をかけなくて良かったのでは?

 

そんなある日私はバカなことをしてしまいます。

 

痛いことをして死ぬ勇気がなかった私

 

今まで処方された薬を

いつかのために取っておいた薬を

大量に飲み干します。

 

意識が朦朧とする中

気持ちが悪くて嗚咽する私を発見したのは

私の親代わりをしてくれた叔母です。

 

本当に今は反省しています。

 

いとこの彼氏に救急車まで運んでもらった記憶を

最後に意識がなくなりました。

 

次の瞬間見えたのは病院の天井と1つ下の年のいとこの声。

 

致死率の3分の1の量の薬を飲んでしまったそうです。

 

死ねなかった。私は本当に悲しかった。

 

父といた時はあんなに生きたかったのに。

 

今はこんなに死にたい。

 

母のところに早く行きたかったのです。

 

でも久留米のいとこ家族を含め母の兄弟や

祖父母のサポートのおかげでまた私は高校生活へ戻ります。

 

死ねなかったってことはまだ生きてる意味があるのかも?

 

今度は30代半ばで亡くなった母よりも

 

長生きしたい 

 

母が見たかったものってなんだろう?

 

生き死には自分では操作できないのかも。

 

母は生きたがっていたのに私を産んでくれたのに

 

命をまっとうしないと失礼だな

 

そんな思いが芽生えてきました。

 

早く自立しよう。

 

誰だって自分を諦めたくなる時だってある。

 

でもそんな時は休めばいい。

 

自分を守れるのは自分以外いないよ。

 

命を投げ出したくなったら休む・逃げる・守る

 

バカなことをして気がついたことがあります。

 

死にたいは生きたいってこと。

 

自分を守りたい愛したい大切にしたい。

 

そんな心の声。

 

自分の扱い方が自分でわかってないだけ。

 

地球に生まれたちっぽけな命だけど

 

私は自分は小さな宇宙だと思う。

 

自分のエリアを心地よく天国にも地獄にも出来るのは

 

自分しかいない。

 

生まれた時代や場所・親と自分の顔や体は選べない

(私は最近自分できっとこれも選んで生まれてきたんじゃないかって思ってる)

 

でも思想や生まれてからの環境・物事の捉え方変えられることなど自分で選べることは山ほどある!

 

どうなりたいか?何が心地よいのか悪いのか?

 

明確に分かればわかるほど自分のアンテナは自分の宇宙をより理想的なものへ導いてくれる。

 

 


次回はそんな私の高卒後をご紹介します。



こんな人も今は元気に地球で息してるんだから


私ももう少し地球を楽しんでみようって思ってもらえたら嬉しいです。

 



さあ!地球を楽しもう!