伊達家重臣、鮎貝家十二代鮎貝太郎平盛房(たろへいもりふさ)の次男・亀次郎として1861年に生まれる。14歳で仙台神道中教院を主宰する落合直亮(なおあき)の養子となり、伊勢神宮教院において国学、漢籍を学ぶ。皇典講究所、第一高等中学校、早稲田専門学校で国語学、国文学を講ずるとともに『日本文学全集』『ことばの泉』など多くの名著を上梓した。
近代短歌の先駆者として和歌革新に大きな役割を果たすとともに、『老女白菊の歌』『橘公の歌・桜井の訣別(わかれ)』『陸奥の吹雪』など、後世に残る新体詩の名作を発表した。
森鴎外とも親交があったほか、1893年には短歌史上初の結社「あさ香社」を創設し、若い歌人の育成に貢献。門下には与謝野鉄幹、尾上紫舟、金子薫園など多くの優れた歌人がある。また1900年、鉄幹が文芸誌『明星』を創刊すると、初めて「恋人」を詠んだ短歌を発表。1903年、かねてからの病が悪化し42歳で永眠。



緋縅の 鎧をつけて 太刀はきて みばやとぞ思う 山ざくら花

(華麗な赤色の鎧を身に着け,太きな刀をさして,花見をしたいと思う,咲き匂うこの山桜の花よ。)

武勲を上げようとしている勇ましい若武者は,日清戦争の時代のヒーロー像で、直文は当時の若者の心をとらえ「緋縅の直文」と言われるようになった。直文が「桜井の訣別」という楠木正成の死を覚悟した出陣をうたった歌を作詞したこともあり、直文は戦時中の「忠君愛国」(君主に忠義を尽くして、国を愛すること)という明治時代の考え方の象徴する人のように考えられていた。 一方で、

砂の上に わが恋人の名をかけば 波のよせきて かげもとどめず

(波打ち際の砂の上に書いた愛する人の名前を寄せる波が消してしまい,あとも残さない。ぼくの恋ははかなく終わってしまった)

忠君愛国の勇ましいヒーローを讃えた歌風と打って変わり、恋の儚さと無常を浜辺の情景とともに描いている。また、

霜やけの 小さき手して 蜜柑むく 我が子しのばゆ 風の寒きに
糖尿病の療養先から、幼き我が子を思いやる歌もある。