英語教育は学習指導要領をはじめ、少なくとも方針は私が中学生の頃から比べればずいぶん変わったはず。


現場もより話す機会を増やしたりできるだけ英語で授業をしようと頑張っているはず。


なのに、成績評価をするにあたって重要なテストの内容、形式が変わらないのはなぜなんだろう。


ワークの内容も変わっていない。


私たちの時代にやっていた穴埋めや並び替え等、文法チックな問題がいまだに多く出題される。


授業のノリは変わってるのに、試される内容は変わらないというのはどういうことなのか。


問題のレベル自体は私たちの時代のそれよりもむしろ簡単なのに平均点がすごく低い。


これは英語力が低下しているのではなくて(英語力というのもずいぶんおおざっぱな言葉だけれども)


評価方法に問題があるのではと思ってしまうのですが


みなさんはどう思われますでしょうか。


まあだからこそ塾業界はきっとすごく儲かっていたりするのでしょうけれど…。
やりたいことがたくさんあるということは


案外やりたいものはこれといって特にないということを意味する場合が多い


気がします


今年はいよいよ卒業論文


みなさんそれぞれ関心のあるテーマから論文で扱う内容を決めていくわけですが


なかなか定まりません


今まで、いろんなことに興味があってどれから手をつけていいのかわからないとか


散々ぬかしてきましたが、いざ一つをとりあげてそれと向き合うという局面になると


私の目の前には何一つ映っていないことに気がつきました


なんというか


今まで歩んできた道は


たとえぼんやりとでも答え、つまりゴールなるものがあらかじめ想定されていて


それに向かって


練習したり、暗記したり、考えたりというものが全てでした


いざ、やりたいことを見つけ、自ら道を切り開いていくとなると


先が見えないことに対してものすごい不安があります


果たして自分のやりたいものとは…?


やりたいことを見つけるためにいろいろな本を読んできましたが、それでもまだ見つかりません


焦っても仕方がないのですが、どうしても…ね。


さあ、来週までに構想をまとめないといけないということで


なかなか詰んでおります


やらねば。
久しぶりの投稿です。


最近卒論の関係で本屋さんに行く機会が多いのですが


教員向けの、つまり学校教育系の本棚と教育学系の本棚はほとんどの本屋で別個になっていて


その背表紙からタイトルから何というかノリが明らかに違う


よく現場の人間は大学の人間は理論ばかりで何もわかってないみたいなことをよく聞くけど


何ていうかもっと歩み寄れたらいいのにって思う


教育を少しでもましな方向に持っていくために両方が研究やら何やらしてるはずなのに


対立してしまったら、お互いの成果が共有されないというかさ


もったいない気がします


しかもその理論云々はやっぱり現場の経験やこれまでの蓄積をもとに発展していくわけだし


やっぱり現場が大学を目の敵にする意味がどうもわからない


まだ私が勉強不足だというのももちろんあるのだけれど…
Hello, and long time no see.


How have you been?


I've studied sociology of education, particularly about disadvantaged children.


They' ve been suffered from poverty since they were born, and this has made a lot of problem in their life.


For example, it is discussed that disadvantaged children has lower scores.


Many people has stated that it was derived from poverty.


Therefore, some people say, " government has to improve their access to education.


More and more study they do, they will be richer".


Is it really? We have to give other things to them, not education.


This education perhaps means "Studying for exams".


Can "this education" really make their life better?
立岩真也という人の『人間の条件 そんなものない』という本を読んだ。


著者(以下、「彼」とする)によると、今の社会では機会の平等というものは皆を同じスタートラインに立たせるためのものであり、同じスタートラインに立たせてあげたのだからその後に生まれる結果の差というものは自己責任であると考えられており、そして彼はその考え方はおかしいと述べている。


機会の平等についての話は彼も言及しているが、教育の機会均等の話にも同じようなことが言える。


今日の日本においては教育を受ける権利というものが憲法によって保障されている。


これは憲法の世界では職業選択の自由など、ある程度後になって必要となる権利を不可分に保障するためのものだと解釈されることもある。


医者になりたいといくら叫んだところでそれ相応の知識(学力と言い換えることもできるかもしれない)がないとなることはできないのは当然。つまり教育を受ける機会は与えたのであるから、それを十分に享受しなかった、あるいはできなかった場合は権利の幅が狭くなるのは当然のことだ。というのが法律レベルでの議論だと言えるであろう。


このように国の考えと今の社会の考えは大筋一致している。この議論に関して、とりわけ「同じスタートラインに立たせた」というところに私は疑問を感じる。



 機会を平等に与えたところで、義務教育レベルで考えるならば同じ内容を教えたところで、同じ結果が生まれることはない。


彼が述べるように同じだけの努力で同じ結果が生まれることはないからである。


これについての理由はいくつもあるだろうが、まず家庭での暮らしや、経済状況の差というものが大きい。(教育の機会均等、教育を受ける権利を実質的に全員が享受できるのは義務教育期間、つまり小学校に入ってからである。その後中学を卒業した段階で、全員が同じ内容を学習してるはずなので、それは同じスタートラインに立っていると言える、というのが先に述べた教育を受ける権利における理屈である。)


教育を受ける権利を享受する以前の間にそもそも相当な能力差が生じている。


読み書き計算、運動神経などをはじめ多くの能力において差がある。つまりスタートラインに向かい始める時点(つまり小学校に入る時点)でかなりの差があるということになる。これは平等という議論をする上で大変重要な問題である。そして同時に学校という世界を生きにくくしているものであるように思える。



 同じことをしてもその差はすぐには埋まらない。はじめから差があるのであるから、差を埋めるためには遅れている子どもは進んでいる子どもよりも頑張る必要がある、という話になってしまう。


そして同時に子どもたちは遅かれ早かれその差を自覚し、それは優越感あるいは劣等感となり、他者との比較を覚えていく。さらに学校という世界では絶えず大人からの評価がつきまとう。


その結果、学習内容への興味は次第に大人からの評価や子ども社会における自分の立ち位置への興味にシフトしていく。テストでどれだけの点数が取れるか、自分は学年でどれくらいの位置にいるのか。こういったことを基準に生活しなくてはならなくなってしまう。


成績が悪い子どもはさらに、先生や親からもっと頑張りなさい、◯○くんはもっとできるのになどと言われ劣等感はどんどん大きくなっていく。このような環境に置かれてしまっては勉強離れするのも無理はない。勉強というもの自体がまさにまわりからいろいろと言われる原因であるからである。


以上のことから考えると、私たちのように将来子どもたちに指導する立場になる人間は、同時にある程度の量の子どもたちに対して、自覚的、無自覚的を問わず、劣等感を与えてしまうと言えるようである。


教師は子どもに夢を与える職業であるなどと世間で言われることがあるが、裏を返してみれば絶望をも与えかねない職業なのである。


そしてこの劣等感を与えるという行為は今の学校社会において、また今の社会システムにおいてはおそらく止められない。


そんな中私たちが考えなければならないのはその与え方ではないだろうか。そもそもできないことがあって当然だと教え込むのも重要かもしれない。


この与え方の話については長くなりそうなので次回以降に持ち越したい。