前回
に引き続き、魚津の街並み。
北陸街道の宿場町にして港町として栄えた魚津。
蜃気楼や埋没林(あと、ホタルイカ)ばかりがクローズアップされますが、魚津はまた、とある事件に関係して小・中学校や高校の歴史の教科書などでも登場します。
世に言う、「米騒動」発祥の地がここなんですね。
大正7年(1918年)、以前から米価高騰に苦しんでいた魚津の漁師の妻達が米蔵に押しかけて一騒動になったことが新聞に掲載され、たちまち全国に飛び火、大規模な打ちこわしが各地で発生します。
警察だけではなく軍も出動するほどの騒動に発展し、当時の内閣が総辞職するほどの事件でした。
で、当時の現場がそのまま残っているということで、前回の旭新地から日本海沿いに西に向かって進みます。
旭新地のすぐ北側が日本海。
魚津の漁港を眺めながら西へ進みます。
年季の入った魚津漁業協同組合の建物。
そういえば魚津の魚市場では朝市も行われていて、魚好きの買い物客で賑わうそうです。
途中で日本海に流れる鴨川に差し掛かります。
前回引用した『全国遊廓案内』では旭新地ができる前、鴨川という街に遊廓があったことが記されていました。
向こうに歓楽街らしきものが見えますが、あの辺りでしょうか。
しばらく歩いていくと、米俵を模したモニュメントが建っているのを目にします。
案内板に「魚津の米騒動」と書かれていて、それを記念したもののようです。
そのすぐ近くには古い倉庫が2棟並んでいます。
石碑には「米騒動発祥の地」と刻まれています。
この年季の入った倉庫が最初に発生した米騒動の現場だったんです。
その建物の前にあった案内板。
案内板には「米騒動発祥の地 旧十二銀行 米倉」と書かれています。
米騒動発祥の地
旧十二銀行 米倉
大正七(1918)年,全国をゆるがせ た米騒動は,七月二十三日の魚津町(現・ 魚津市)で起こった汽船への米の積み出し 阻止が発端といわれています。
ここは,旧十二銀行の米倉庫でした。当 時は地元の米商人が買い付けた米(俵)は, 銀行管理の倉庫に預けられ,そこから汽船 に積み込んで出荷していました。現在は海 辺の景観も変ってしまいましたが,この 米倉が魚津の米騒動の名残りをとどめて います。
平成十八年十一月
魚津市教育委員会
学校の歴史の教科書でもお馴染みの米騒動が最初に発生した現場が当時のままの形で残っています。
そんな歴史的にも貴重な建物ですが、残念ながら中に入ることはできません。
旧北陸街道の側から建物を眺めると、モダンな外観だったとわかります。
こちらは旧十二銀行の事務所でした。
もっとも、米騒動は地元の人々にとって不名誉な事件と受け止められていたらしく、最近までこの話題がタブーであるの如く語られることはなかったそうです。
実際に、戦争に出征した魚津や滑川の出身者はそれだけで差別を受けてきたという話も。
戦前から、魚津港から多くの米が積み出されてきたのですが、男は出稼ぎのため、積み出しの作業は残された女房たちが行っていました。
女性の身であの重い米俵を背負っていたわけですから、当時はかなりの重労働だったと想像できます。
そこへ持ってきて米価高騰に買占めとあって、女房衆の怒りが爆発してあの騒動になったのでしょう。
もっとも、騒動といっても当初はさほどの規模ではなく、女房衆が米蔵に押しかけて文句を言ってきたという感じのようでした。
しかし、それがやがて新聞で全国に報じられると、各地に飛び火して、打ちこわしに発展していきます。
米騒動発祥の地の近くにはもう一軒、レトロな建物があります。
現在は床屋さんとして利用されていますが......
こちらは旧金沢貯蓄銀行だった建物とあります。
「貯蓄銀行」という名称は今ではお目にかかれませんね。
こうした建物が残っているところを見ると、どうやらこのあたりが魚津の旧市街地のようですね。
最寄り駅としてはJR魚津駅よりは富山地鉄の電鉄魚津駅のほうが近いです。
「アド街が放送しない東京散歩」改め 旅行ガイドに載らない街並み散歩
...
