言葉が不幸をつくる
 私たちは、日常的にどういう言葉の使い方をしているかあまり意識していませんが、その言葉の使い方は、家庭生活や会社生活において、必ず周りの現象として現れます。私にも痛い体験がありますが、それは後ほど述べるとして、まずは新聞記事から紹介します。

 以前、新聞を見ていましたら壽川栄太さんという、つい最近亡くなられた評論家の方がこういうことを言っていました。この方は昔学校の先生をやっていたのですが、その学校の教師をやっていた頃の体験を書いています。その新聞記事です。

 教師をやっていた頃、子どもの日記帳を毎日読んだ。ある日子どもの日記帳にこういうのがあった。僕のお母さんはきっと無意識だと思うが、1日平均35回は馬鹿と言います。朝は、「早く起きなさい馬鹿」。「そんなにごはんを早く食べるんじゃありません、身体に悪いですよ。馬鹿」。「コラ忘れ物でしょう、お馬鹿さん」。学校から帰ると、「ズボンをこんなに汚して、馬鹿」。寝る前には、「布団をちゃんと首まで掛けないと風邪をひくでしょう、馬鹿」。だから、朝起きてから布団に入るまで僕は馬鹿と言われ続けている。僕に対するお母さんのキーワードは「馬鹿」なのだ。子どもは、母親のこれほどの馬鹿の連呼に対して、「無意識だと思うが」という冷静な分析をしている。そして、母親の一種の言葉の癖であり、習性と受け止め、甘受している。ある意味でその母親を許している。という事は、この子どもはひとつの山を乗り越えている。人間的成熟のひとつなのかと考えてしまう。
 ところがなのだ、何かの授業のときに私がこの子を褒めた。「君はやればできる子だね。本当にできる子だね。」その時の彼の表情はまさに自己懐疑。「僕は本当にできるのかな。僕は誰が何て言おうと絶対馬鹿だ」。私は身体が震えた。母親を許しているが、その彼の心の奥底が実に母親の連呼している馬鹿に自己同化しようとしている。あれほど母親が「馬鹿」というのだから、俺は馬鹿なんだ。という思いを紛れもなく心の断面に刻み込んでいる。言葉の怖さにまた私は震えた。

 という記事でした。このお母さんは「馬鹿!」という言葉を何気なく使っているのです。私たちも何気なく使っていることが多いと思います。「なにやってんの、馬鹿ね」、「言うことを聞かないからよ、馬鹿ね」など。ところがもうひとつ親がよく使う言葉があります。子どもに対して何気なく使う、「早くしなさい」という言葉です。一緒に歩いていても「早く歩きなさい」。電車に乗る時も「早く乗りなさい」。「早く学校に行きなさい」
 早く早くと子どもをせかしています。だいたい振り返ってみるとそんな感じです。父親も母親もこどもをせかしています。それはどういうことかというと、親のペースに子どもを乗せよう乗せようとしているのです。私には予定があるから早くしなさい、という潜在意識があって、それでそういう言葉をつい使ってしまいます。おそらく誰もが家庭で結構使っていると思います。早くしなさい、早く食べなさい、早くお風呂に入りなさい。早く寝なさい。つまり、何気なく使っている言葉で子どもはせき立てられています。その言葉で子どもは自己形成していくのです。いかに親の言葉が子どもに影響を与えているか、ということです。

 このように継続的に使う言葉は間違いなく周囲に影響を与えていきますが、ちょっとした不注意に発した言葉も周囲に決定的な影響を与えることがあります。

何気ない言葉の奥にあるもの
 私にも苦い体験があります。まだ十分にまちづくりの地権者対応が身についていなかった20代の後半、ある地域の再開発で、店舗配置の調整にかかわっていました。いろいろな方の希望も聞きながら、一階店舗の配置をまとめていました。漸くまとまったのは前面の道路側にいた製本屋さんが、自分は特に道路に面している必要も無いからと裏側の店舗に回ってくれたからです。さあこれでまとまったと安心していたら、夕方その方から電話がかかってきました。飛んでいくと、「やはり道路に面した所に区画で仕事がしたい」と。
 「ええー?他のみんなはこれで納得しているんですよ。あなたがもう一度前面に出たいとなったら、もう一度、配置のやり直しですよ。そんなことしたら今までのことは何だったのかと、あなた袋叩きに遭いますよ」。私は、すこし冗談っぽく言ったのです。しかし、内気な彼は、私の言葉を真に受け、沈黙してしまいました。私は、何とか受け入れてくれたのだと勝手に思い込んで、ほっと胸をなでおろして帰社しました。
 ところが、翌日、区の課長から呼び出しを受けました。「コンサルに脅迫されたと、区に泣きついてきたよ。このままいったら、彼は自殺するか訴えるか、何か行動に出るかもしれないよ」と注意を受けました。「よく要望を聞いてやってください」と。
 結論から言うと、彼はもう恐怖心で私とは会おうとはしませんでした。そして、今までの配置は振り出しに戻り、半年遅れで、上司が何とかまとめてくれました。最終型は前面道路に面した店舗を多く計画することとなり、半地下、半地上という2段の店舗構成に収まりました。配置の調整は収まりましたが、商業の活性化という点では、数年後に撤退するお店がぱらぱらと出てきて、賑わいのない寂れた住宅付き店舗となってしまいました。結果として、2層店舗は失敗だったのです。しかし、その時はそうするしか方法がありませんでした。失敗だったというのは、結果論です。

 今でも思い出すのがつらい嫌な体験でした。しかし、元はといえば私の何気ない言葉です。その何気ない言葉も、じつは「早く結論を出したい、早くまとめたい」という私の焦りや我見から出ていたのでした。自分にそういう我見があったと気づいたのは、相当年数が経って、経験を積んで、いろいろなことを体験してからでした。言葉というものは恐ろしいものだ、と何年か経って実感したものです。

言葉を変えれば、相手が変わる
 その後、プロとしての自覚が出てきたころ、ある地域の再開発で、そういう言葉の間違いに気がついた地権者の方に出会いました。自分が子どもを駄目にしていたのだと気づいた方がいたのです。とても、自己認識意のすばらしい人だったと今でも思い出します。その人の話です。

 長男が中学校の反抗期の頃のことでした。言葉で結構反抗してきました。あぁ言えばこういう、こういえばあぁ言う、で、1時間も2時間も言い争っていたことあります。ある時長男が、長男自身が悪いと分かり切っている問題に対して、私のことを悪いと責め始めました。とうとう頭にきた私は「おまえという男は本当に、ごめんなさいと謝ることを知らない男だね」と言ってしまったのです。すると長男からビックリするような言葉が返ってきました。それは、「おまえこそ謝っている姿を一度も見たことがないぞ」というものでした。いつもはお母さんと言うのですが、ケンカをするとおまえと言うのです。そして、「おまえだってお父さんに対してあぁ言えばこう言い、こう言えばああ言うと言っているじゃないか。俺に対しても一度だって謝った事があるか?ないじゃないか」というのです。 

 さらに「俺は、そういうおまえの姿をこれまで見ながら育ってきたんだ、だから謝り方なんて知らないんだ。おまえから教わっていないんだよ」と、こういうのです。私はびっくりしてしまいました。そして反省をしてみました。そうしたら長男の言うとおりだったのです、主人にはごめんなさいと心の中では謝っているんですが、照れがあってなかなか素直に謝れません。反対に、「でも」とか「だって」とか。挙げ句の果てには「そんなことをいうんだったら自分でやれば?」と言っていたのです。長男には、「お母さん駄目じゃないか」と言われると、「おまえがちゃんとしてくれないからお母さんがこういうことをするんだよ」と理屈をこねていました。長男の姿は自分の姿だったのです。
 よし、これからは自分の非は認めて素直に謝ろうと決心しました。

 ある時長男が「お母さん駄目じゃないか」と言ったので、「ごめん、ごめん、お母さんが悪かった」と謝りました。するとつり上がっていた目がすっと元に戻って、まんざらでもない顔をして、何も言いません。ああ、1時間も2時間も反抗させていたのは、私だったのだ。私の対応の悪さがそうさせていたのだと気がつきました。自分では自分の姿とは、なかなかわかりません。私はそんな自分を素直で良い人間だと思っておりました。

 という体験です。ここで、この方は、自分の姿というものはなかなか見えないというふうにおっしゃっています。実際に、自分では自分の姿はなかなかわかりません。確かにわからないものです。自分が何を考え、どういう言葉を発しているのかわかりません。自分の心がどういう状態なのか、子どものことを真に理解しているのか理解していないのか、それさえもわかりません。

 では、自分の状態を客観的に見るにはどうすればいいかというと、周りの反応です。子どもの姿です。男性であれば、奥様の姿です。女性であれば、ご主人の姿です。どういう反応をするかで自分の状態がわかります。子どもは親の鏡と言いますけれども、子どもだけではありません。周りの人すべてが自分の鏡なのです。間違いなく、周りの反応に表れているのです。会社においても、地域においても。だから、何か自分に対して嫌な反応だなと思ったら、それは相手の問題ではなくて、自分の心のあり方に何か間違いがあると考えるべきなのです。これを昔の人は、「立ち向かう人は心の鏡なり」と言いました。

 最初の事例の、子供に「馬鹿」と言い続けた母親然り。また、店舗配置における私の失敗体験然りです。気づかないうちにどこかで自分がその種をまいているものです。

わびる言葉、許す言葉
 こういう言葉の問題に関して、「愛は裁かず」(伊藤重平著、黎明書房)という本を取り上げてみます。著者の伊藤重平さんという方は、不登校や非行の子どもをずいぶん立ち直らせて、それを天職としておられた方なのですが、この本の中にはそういう子育てで失敗したお母さんがどうやって子どもを立ち直らせたかという話が沢山出てきます。その中の「母がわが子に謝るとき」—すさんだ生活をする高校生—から。

 ここに取り上げる事例は、高校二年の男子Kで、禁じられている喫煙、ときに怠学、マージャン遊びの夜遊びの習慣、金づかいが荒く、学業成績は入学当初より漸次下降、家の者との対話がなくなっている。これが主訴といわれるものであるが、どこにでもよくありそうな生徒である。家庭は両親健在で自家営業、就職をしている兄と中学一年の妹がある。
 私と母親との最初の面接は次のように行われた。「あの子は自分勝手なことばかりする子で、学校から帰っても、家へは立ち寄りません。私はあの子に、『おまえは近頃眼つきが悪くなったぞ』といってやったこともありますが、暗い顔で眼つきが悪いのです。夜遊びをして12時頃毎晩帰るので、『なぜもっと早く帰らないのか』というと『帰ろうと思うが帰られない』といいます。『よその子はよい子になるのに、なぜおまえはなれないのか』といって私が怒ると黙っています。」

 「今、お母さんの話を聞いてわかりましたが、K君は自分はもうだめな人間だと思い込んで、劣等感といわれる病気のような状態に落ち込んでいるようです。劣等感をもった人間は、欠点を指摘するとますます駄目になります。さきほどお母さんがいったことばですが、『おまえの眼つきが悪くなったぞ』といえばますます劣等感が深くなります。自分は悪い人間であると思い込むようになると、それに似合ったことしかできなくなります。K君も現に、『よいと思うことがやれない』といっているではありませんか。」
 そのとき母親は何か衝撃でも受けたように、「そうですか、病気のようなものですか」と応答した。

 そのあと、この方がいろいろと母親にアドバイスをした結果、この母親がどのようにして気づいたかということが書いてあります。効果が出てきたのです。

 それから5日たって再度の家庭訪問をした。父親も母親も喜びにあふれて玄関に出てきた。母親が、「先日はありがとうございました。あの日あの子が学校から帰ってきてから、あたりに誰もいなかったので、私は子どもの前にすわって、『お母さんは今まで怒ってごめんよ。わたしが口やかましくいって悪かった』と謝ると、Kは涙ぐんでいました。そして、『しっかりやってね』と頼むようにいうと『しっかりまじめにやる』といってくれました。それからあの子は変わりました。今まで学校から帰るとカバンを置いてすぐ外へ出て行ったのに、カバンを置いて友人の話をしたり、先生の話をしたりして家にいつくようになりました。お使いにも気もちよくさっさと行ってくれるようになりました。そして気持ちがやさしくなってきました」。深々と頭を下げ、心から礼を述べた。

 まことにみごとな転換である。母親が子どもを責めるようにガミガミいってきたことはよくないことであった、と母親が気がついて、それをやめただけではこのような急激な変わり方はしなかったであろう。そのような場合、子どもは、今日はガミガミいわれなかったが今にまたいうのではないかとの不安が解消されずに継続するからである。つまり母の決意が真に子に伝わらぬから子どもの目にうつる心理学的環境が変化しないのである。子どもを責める態度から謝る態度に転じたことは、子どもにとっては家庭環境の激変である。この激変が子どもの行動を好ましい方向へ激変させたことになる。この母親のわびる態度の中に、子どもの過去のよくない行動を裁かずゆるすということが含まれている。これを許す愛というが、これによって子どもの劣等感が消えたのである。

 という内容です。子どもの欠点を直そうと思って言葉で言えば言うほど、子どもはかたくなになって欠点が直せなくなります。そうではなくて、認めてあげる。あるいは許してあげる。あるいはさらに、これは自分の問題だと思って、「自分が悪かった」と親が勇気を持って子どもに謝るくらいのことをすると、こういう形で子どもの生活態度も激変する、ということです。これは法則です、子どもを変えようと思ったらまず親自身が変わったらいいのです。これは親子関係の法則です。
 さらに言えば、親子関係のみならず、人間関係の法則です。

 成績が悪いと子供を責める親。営業成績が悪いと部下を責める上司。

 家庭も、会社も、地域も、社会も、すべては言葉によって動いているといっても過言ではないでしょう。言葉の持つ意味、言葉の持つ力を改めて考えてみたいものです。
以上
 いま、日本は、経済や政治を見る限り、国家も社会全体も将来的な見通しもなく、漂流しているように見えます。大衆迎合的な政策を競っているだけで、希望の将来が見えてきません。今こそ国家の中心軸、社会の中心軸が必要です。それは、家庭においても同じでしょう。家庭における中心軸とは、父親の価値観です。最近そのことに、気づかされました。
 私の、高校時代の友人に宗教家になった人がいます。たまにクラス会で会ったりすると、貴重な話をしてくれます。他のクラスメートは、そんなこともあるのかなという軽い話として聞いていますが、私にはとても重いことのように思えるのです。最近聞いた家庭崩壊の話がそうでした。宗教家の友人は、次のような話を生々しく語ってくれました。

息子の病気
 ある時、大阪の男性から電話がありました、という出だしから友人は話し始めました。

 名前を聞いても全然私の知らない方だったのですが、高齢者関係のNPOのリーダーの紹介と言うことで電話を受けました。相談の内容は何ですかと聞いたところ、「息子のことです」といったのです。その方は、もともとはブラジルの日系人だったのですが、数年前に日本に来られた、いわゆる出稼ぎという方ではなくて、もう少し知的な仕事をされている人でした。日本の、ある大手の会社の関西支社長という役職の方だったのです。日本語は当然上手ですし、ポルトガル語も自由自在ですから、日本に来て、その会社の支社長として頑張っておられました。60才前後の方でしたが、その方が、相談したいということで来られました。
 息子の話というのは、じつは彼の息子は今ブラジルにいて、30歳になるのだけれど、精神病院に入ったままの状態で、ほとんど社会生活が出来なくて廃人寸前だ、ということでした。どうしてそうなったのですかと聞いたら、その息子さんは高校卒業後ブラジルから東京の大学に来て、文化人類学を専攻したということでした。その文化人類学の勉強をしているうちに、インドのヨガに興味を持って、インドへ旅行をしたそうです。そうして、ヨガのグループの中に入って、修行したのです。ヨガにはグルという導師がいるのですが、そのグルに会って心酔しているうちに、霊的な覚醒をしました。ヨガにはチャクラという、霊的覚醒が起こりやすい場所が、頭の頂上から眉間、喉、胸、丹田、それから仙骨と尾てい骨のあたり、全部で7カ所あるといわれています。そのうちの1カ所、胸のチャクラを開かれたというのです。
 ブラジルの息子さんは、途端に、霊的な覚醒が起こり、霊が見えるようになった、さらには啓示も降りるようになった、そして自動書記も始まった。最初のうちは素晴らしい自動書記だったのです。ところが、霊には良い霊と悪い霊と両方いるということも知らず、また心のコントロールの仕方を知りませんでしたので、彼には悪い霊も入り始めた、そうしたら急に苦しみが始まった。いわゆる悪霊というのが、自分の中に入り始めたわけです。
 自分の心のコントロールがまったくできないので、七転八倒。苦しみぬいたあげく、大学は中退して、ブラジルに戻ったというのです。その後、精神科に行って薬を飲んだりしたのだけれども、良くなったり悪くなったり、入退院を繰り返して、そのままだんだん悪くなって、7、8年たった。今はもう病院に入ったきりで廃人寸前だというのです。その息子をなんとか助けたいというのがそのブラジルの方の希望でした。
これまで、いろいろな人の体験を見たり聞いたりした結果として言えるのは、これはもう精神科のお医者さんでも救えない。原因ははっきりしている。息子さんがそうなるには何か深いわけがあるはずだと、聞いたのです。何かお父さんとして思い当たる事はありませんかと聞いた。そしたら、「じつは」といってそのお父さんは自分の過去を語ってくれました。

息子の病気の原因
 じつはブラジル人の彼は息子が6歳のときに離婚しました。なぜ離婚したのですかと聞いたら浮気をしたというのです。つい浮気をしてしまった。なぜ浮気したのですかとさらに聞くと、「じつは私の家内は、気が強くて気が強くて一緒の生活に耐えられなかった。同じ家にとても一緒に住めなくて、ついふらふらと浮気をしてしまった」というのです。じゃあその人と再婚したのですかと聞いたら、そのふらふらと浮気した相手とも別れて、別の女性と再婚したというのです。
 再婚した相手とは、どういう人ですかと聞いたら、ともかく気の強い女性はもう嫌だというので、優しい女性を求めました。家柄とか学歴とか関係ない、ともかく優しい女性と思って次の女性と再婚したというのです。それでうまくいったのですかと聞いたら、いやそれともまた駄目になりましたというのです。どうしてと聞くと、気は優しくて非常に良い女性だったのだけれども、家を片づけるのが嫌いで、家が汚くて汚くて耐えられなかったというのです。そしてまたふらふらと浮気したというのです。それで、そういうことを繰り返してきて、「今は?」と聞いたら、「じつは今、日本に連れてきている女性は、相手にも所帯があって、自分もまだ離婚した状態ではなくて、つまり、ふたりとも不倫の状態で、駆け落ちのような形で日本に来ている」という話をされたのです。

 それを聞いていて、私はかなり強い口調で言いました。「これは息子さんの問題ではなくて、あなたの問題だ」と。「息子が病気になっている原因はあなたにあるのだ」と、びしっと言ったのです。そうしたらその男性はボロボロと泣き始めました。声を上げて泣いてしまいました。「助けてください、助けてください」と言って。じゃあ助けてあげようと、教団の教えを説きました。「あなたはこの教えを信じますか」と問うと、ともかくその場で泣きながら、信じますと言って男泣きに大泣きしながら信仰の道へ入ったのです。そして大阪に帰られました。ともかく息子をなんとか救いたいという一念でした。

信仰の奇跡
 宗教家は話を続けます。

 それは土曜日の午後のことでした。その方はまた大阪へ帰ったのですが、翌朝、日曜日の朝10時頃その男性から電話がかかってきました。「ありがとうございました。じつは、昨日家に帰ったら久しぶりにブラジルの息子から電話がかかってきました。『パパ、もう大丈夫。もうひとりで生きていける。お父さんが言っていたように、人のために生きていこうと思う』という息子からの電話でした」という内容です。「息子は、電話の口調で、本当に元の状態に戻ったということが分かりました」と。あまりの嬉しさに、喜んで電話がかかってきたのです。ありがとうございましたといって、その方も電話の向こうで泣いていました。奇跡が起こったのです。
 その奇跡は、地球の裏側に届いた奇跡なのです。日本で信仰の道に入ったお父さん。泣きながら自分は間違っていたと懺悔しました。自分の心の間違いが息子をこんなに苦しめていたのだ、と気づいて、キリスト教でいう洗礼、仏教でいう三帰誓願をした途端にその信仰の光が、それが地球の裏側に伝わったのです。

波長同通の法則
 お父さんは、過去何度も女性関係で失敗を繰り返し、だんだん不幸になっていきました。自分の息子をも不幸にしていきました。ところが自分の間違いに気づき、懺悔して信仰の道にはいりました。心の波長が、執着の強い迷いの波長から、精妙な高次元の波長へと変換したのです。その結果、奇跡が起こりました。

 この息子さんが体験したように、精神病というのは99%「悪霊の憑依」という状態なのです。悪霊がついている状態なのです。日本的に言うなら、狐憑きの状態です。よく町を歩いたり、電車に乗ったりしていると、ひとりでぶつぶつぶつぶつ喋っている人が、時々います。あれは自分にとりついている霊と喋っているのです。精神的におかしくなっている人というのは、自分が自分ではなくなっています。話しても全くとんちんかんなこと言っています。それは、その人ではない別のものが肉体に入ってしまっているからです。
 ブラジルの息子さんの場合も同じで、彼は大学時代以来ずっと悪霊に取り付かれていましたが、原因をつくっていた父親が反省した結果、取り憑いているものが抜けたのです。抜けたから荒々しい波長から精妙なる波長に変わったのです。その瞬間、元に戻ったのです。正しい自分に戻ったのです。そういうことは現実に起こります。これを波長同通の法則といいます。今風に言えば、「引き寄せの法則」ということでしょう。

 ここで、その宗教家はスイスの哲学者ヒルティの著作を引用しました
 20世紀の偉大な思想家の一人であるヒルティはこのような悪霊のことを知っていたようで、その著書「眠られぬ夜のために・第一部」(ヒルティ著、岩波文庫)の中で次のように語っています。

 【 キリストみずからの言葉として伝えられるものは、きわめて大きな「真実性」をもっている。これらの言葉は、つねに文字通り受けとらねばならない。これはマルコによる福音書16の17,18(*)さえあてはまる。キリストの言葉が少しもぴったりしない場合、その人のキリスト教の信仰は、それがありうる、またあるべきものにまだ完全になりきっていないのである。
(*)「信じるものにはこのようなしるしが伴う。すなわち、彼らは私の名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、ヘビをつかむであろう。また毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけばいやされる。」 】

信仰の世界は時空を超える
先のブラジルの男性の場合にはあきらかに、宗教的力によって、ヒルティによるところの信仰の力によって、悪霊が追い出されたのです。
 ブラジルの息子さんはまさにこれを体験した。あるいはお父さんはこれを体験したのです。信じたらそういう苦しい人生を覆すことができた。10年間の時間があっという間に消えてしまった。地球の裏側という距離も完全に覆されてしまった。聖書の中で、イエスが証明したことと同じことが起こったのです。
 この話において、私たちは重要なことを学べます。それは、心の世界というのは全部繋がっているということです。私たちの心の世界というのは全部繋がっているのです。通常はなかなか感じられませんが、こういう何か大事な時には繋がっているという事を感じることができます。

重々無尽の縁起
 これを仏教の言葉では、重々無尽の縁起(じゅうじゅうむじんのえんぎ)と言います。要するに世の中の人の心は全部繋がっているということです。人の心だけではなく、動物や植物・鉱物ともつながっています。重々無尽に繋がっています。
 お釈迦様は、菩提樹の下で悟ったときに、自分の意識が宇宙大に拡大するという体験をしました。宇宙のすべてが自分の意識の中にあるという体験をしました。人の心はもちろん、すべての存在が全部繋がっているのだということを見抜いたのです。

 以上が、宗教家が話してくれた内容です。

家庭の中心軸
 宗教家が言うように、家庭における中心軸は父親です。家庭の経済を支え、子育てのポリシーをしっかりと持つ。それが父親の役割です。その父親が狂うと家庭は崩壊します。家庭の中心軸が揺らぐからです。だから、中心軸回帰が必要になります。
 では、このように心を根本的に入れ替えるためには何が大事かというということを考えてみました。それは、自分の周りに起こった不幸を受け入れて、それは自分の問題なのだと懺悔して受け入れる勇気です。この失敗は自分が原因を作ったのだ。申し訳なかったと懺悔して受け入れる勇気です。これがないと心の中心軸というのはできません。

地域の中心軸  
 以上のブラジル人が体験したような劇的な変化というのは、もちろんそう多くあるわけではありませんが、再開発の現場にいると、それぞれの心の状態が伝わってきます。地元の地権者の方と話していると、まさしくその人の価値観が出ます。再開発組合の役員会や総会などでも、その人の発言や態度を見ていると、その人の人生観や過去の人生が見えてきます。個別相談会でもその家庭の価値観や過去が見えてきます。中心軸がしっかりしている人、中心軸がなくて人生が漂流している人、さまざまです。
 今まで再開発事業を担当した地区でも、地権者の方々のなかには、素晴らしいと思える人が何人かいました。ある一人の方は、会合のたびに、その礼儀正しさ、発言のメリハリで、地域社会に対して圧倒的な影響力を待っていました。正しいと思うことは真直ぐに主張するという、地域社会の鑑のような方です。もう70歳近い女性でしたが、その人の前では、無理な主張をする人は賤しく見えてしまうというぐらい、毅然とした方です。しかし、冷たいという感じではなく、本当に人間的な暖かさを持ちつつ、しっかりと筋が通っているので、地域の皆さんもその方を尊敬しているのが良くわかります。いつも和装で出席されるのですが、和装であるのに神聖な雰囲気というものが漂っていました。
 しばらくして、そのお宅にお邪魔したときに、家の中も全くその人格と同じで、見事に整理整頓が行き届いていて、それこそチリ一つ落ちていないのに感心したものです。その後も何度も行きましたが、いつ行っても、仏壇には必ず新鮮なお供え物があり、神棚の榊はいつも青々としていました。
 何度かお邪魔する内に、その方のご主人は何年か前に脳出血で倒れて、少し話すのが不自由なために、その奥様がご主人に代わって出席されていることを知りました。さらに、遡ること20年近く前に跡取息子として期待していた長男を、突然の病気で亡くされたのだということも知りました。多分そのときに、人生というものを深く考え、その結果心のリセットをされたのであろうということは間違いありません。凛とした強さと穏やかさ、そして超然とした雰囲気、これは信仰を持った人の雰囲気です。地域の相談役としても、また智慧袋としても尊敬を集めているのは、そうした背景からでしょう。
 地域に中心がある、しかも聖なる中心がある。これは旧き良き時代の日本が持っていた雰囲気です。この方が、その再開発地区をまとめるのに、目に見えない部分でどれほど貢献したか計り知れません。

国家の中心軸
 さて、再び国家の中心軸の話に戻ります。日本はいま、経済不況と北朝鮮の核ミサイル危機という、二つの国難に直面しています。なぜこうなったのか、それは明らかです。国家の中心軸がしっかりしていないからです。
 国家の中心軸とは何か。それは、結局、現憲法の問題に行き着きます。占領軍によって、一方的に与えられた憲法だから、どこを読んでも自分の言葉になっていません。国民が自分の頭で考え、自分で納得したものとはなっていないというところに根本的な原因があります。

 家庭における父親と、国家における総理大臣とは同じ位置づけにありますが、総理大臣は憲法の枠の中で政治を行いますから、憲法こそが国家の中心軸です。

 中心軸をしっかり確立して、真なる自立国家を目指すときが来ているように思います。
 今回は、プロフェッショナルの話ですが、簡単な話から入っていきます。

 松下幸之助氏の言葉に、
「どんな仕事であろうと、その道のプロになれ」
「プロとは、その道を職業としている専門家のことである。その道において一人前にメシが食えるということである」
というのがあります。

 最近、高齢者介護のヘルパーさんにそういうプロの精神を見ました。

介護ヘルパー
 88歳の老人は、とても頑固で自己中心的です。介護の専門家といっても、その老人とうまく付き合っていくのは大変です。はじめは、お互いに警戒心が強かったといいます。しかし、そのヘルパーさんは相手の状況に合わせていく寛容さと柔軟性を持っていました。
 自己中心的なその老人は時間に厳格です。5分早くても5分遅くても気に入らないのです。10時なら10時ぴったりでなければ気に入らないのです。そのヘルパーさんは、5分前に訪問宅に着き、玄関先で5分間待って、10時ぴったりに「キンコーン」と鳴らします。老人はその瞬間から満足です。
 また、頑固なその老人は、たとえサービスと思ってやったとしても、それは頼んでいない余計なことと思ってしまう偏屈な人です。ヘルパーさんは頼まれたことだけをきちっとやって、ぴったり2時間で帰っていきます。
 要はその老人は、他人に自分の生活のリズムを乱されたくない偏狭な性格なのです。ヘルパーさんは見事にその偏屈な老人にリズムを合わせて、とてもよい関係を築いていました。今では、とても信頼されていて、微笑ましいくらいの会話が弾んでいます。
「さすがプロだなー」と思いました。

JRの駅員
 もうふた昔ほど前、あるJRの駅にとても絵になる駅員がいました。当時、朝のラッシュ時に、入線してくる電車に向かって指差し確認というのをやっていましたが、今でも時々目にしますから、JRでは、安全確認の大事な日常行為なのでしょう。電車が入線してくると、電車に向かってきちっと人差し指で安全を確認します。そして、乗降が終わって、また発車していくときに再び指先で安全を確認する、というたったそれだけのことでしたが、それがなんとも絵になっていて、さわやかです。白い手袋に、キンモールの入った白い帽子、そしてきりりとした顔で、人差し指を伸ばし、メリハリのある行為で安全を確認する。形ができている。ほかの駅員とはまったく違った気持ちよさです。しかも、この駅員が電車や乗客を注視している限り、絶対に事故は起こらないだろうなというような気持ちよさです。これも忘れられないプロの光景です。
 こういうプロはどの世界にでもいるものですが、さらにその上を行く一流のプロとなるとなかなかいません。

 しかし、いました、いました。あの伝説のドアマンが。ミッション21で紹介した、さるホテルの伝説のドアマンです。

伝説のドアマン
 そのドアマンは、若い頃ある方から「ドアマンとして一流になるためには人と同じことをやってちゃだめだ。人が驚くようなことをしなくてはだめだ」と教えられて、ドアマンとして一流になるためにどうしたらいいか考えました。そこで、自分でノートを作ってひとりひとりのお客様の情報を少しずつ集めていった。つまりそういう一流のホテルに来る方は一流会社の重役ですから、その方の顔、肩書きや経歴、趣味から家族構成まで、新聞のニュースや、会社情報、それから紳士録等の情報を全部メモにしていった。それをひたすら覚えていって、わからない時にはその会社の総務部にまで出かけて行って、その情報を聞いて、そして情報をストックしていった。その情報量は、だいたい四千人分把握していたらしいのです。東京の一流会社の重役クラス四千人分を把握していたというのです。 
 そこまで、頭の中に情報が入っていると、顔を見ただけで、「何々さん。この度は専務就任おめでとうございます」とドアを開けながら言ってあげることができる。そうしたら、当然その方はビックリする。「今朝の新聞に出たばかりなのに」とつい嬉しくなる。つまり、そういう情報まで全部仕入れて、その方が見えたら早速そう言ってあげる。それほどの、感動的なサービスをしてあげる。だからこの方はホテルのドアマンとして一流となった。

 どんな職業であれ一流になるにはそれなりに努力が必要です。四千人分の情報を自分で作るのは大変なことです。顔を覚えて、家族構成や趣味等含めて、さまざまな情報を知っているというのは大変なことです。わからないことはその会社に行ってまで、聞いてくる。そういうドアマンです。そのドアマンという人は、他の本でも紹介されていたところをみると、非常に有名な方らしいのです。その本の中に、この方が定年退職をする時に、本当に一流の会社の重役さん数10名をはじめとして、それ以外にも何百人という方が集まって、ご苦労様でしたと慰労会をやったということが書いてありました。

 つまり、感動を与えるくらいのサービスをしようと思うと、それくらいの努力をしなくてはいけない。それは一朝一夕で出来ることではありません。ひたすら根気よく努力し続ける、その努力も人の何倍もの努力をしてはじめて実績が出る。そうするとホテルのドアマンとして破格の年収3千万円という収入を得る。

 一流になるには、一流の努力が要る。人並み以上の努力が要る。それは、別の言葉でいうと日々真剣勝負であるということです。

超一流のプロフェッショナル
 プロには、さらにその上があります。一流を超えた超一流のプロの世界があります。そういう超一流のプロフェッショナルというと、大リーグのイチローがすぐに思い浮かびます。日本での実績のみならず、大リーグに行ってからの輝かしい実績。

 ただし、そのイチローも今回の2009年のWBCでは苦しみました。あまりの打撃不振に、その痛々しい姿に日本中が心配しました。
 しかし、さすがにイチローです。最後の最後に、神技ともいうべき一打で日本に優勝をもたらし、日本中を感動に巻き込みました。

 「苦しいところから始まって、つらさになって、つらさを超えたら心の痛みがきて、やがてその心も折れそうになった」

 これは、優勝したあとの最初のインタビューでの言葉です。

 この言葉は、イチローの自己客観視能力を現しています。よく言われるように、イチローは冷静に自己を分析する客観視能力と、自己の中に入り込んで集中する集中力とこの二つを兼ね備えています。超一流といわれるゆえんです。このコメントで日本中が、ほっとすると同時に、彼の人間性を改めて感じたものです。
 さらに今回は、そのあとがあって、その後胃潰瘍が発覚し、大リーグを開幕戦から欠場せざるを得ないというハプニングがありました。

 再び、未体験との闘い。自己との闘い、孤独との闘い。

 しかし、8試合のブランクのあと出場した最初のゲームであっさりと張本さんの日本記録に並び、その翌日には3086本の日本新記録を打ち立てたのでした。

 「張本さんの見ていた景色がどんなものか、感じてみたかった。あのヒットでそこに登ると、すごく晴れやかな感じで、いい景色だった」

 この情緒的な言葉もまた、イチローらしい。クールでありながら、節目節目で感情の入ったコメントを入れる。イチローの、表現力の豊かさというのか、心の深みというのか。
 こうした、イチローの性格はいかにしてつくられていったのか、その原点はどこにあるのか。もう一度、彼の人生を振り返ってみます。私たちも学ぶべきものがあるはずですから。

イチローの原点
 過去、イチローに関する本は何冊も出されていますが、そのほとんどは、イチローの実績から彼の思考形態や能力を読み取るというものです。しかしながら、あまりに違いすぎるこの天才の能力分析からは、私たちの参考になるものは少ない。むしろ、イチローが何を悩み、それをどう克服したか、そのプロセスにこそ学ぶべきものがある。イチローのプロセスないしは原点を探るという意味では、1994年に、日本で初めて200本安打(正確には210本)を達成した直後に出版された『イチロー物語』(佐藤健著、毎日新聞社)がもっとも生々しく伝えていると思う。

 この本には、ただ者ではないイチローの才能がどうやって開花し成長したのか、子どもの頃から遡ってずっと書かれてあります。このイチローの鍵は、たぶんご両親にあるのではないかと思っていたら案の定そうでした。ゴルフのタイガー・ウッズがそうであったように、特に鍵はお父さんです。
お父さんという方はイチローの才能を育てるために、自分の欲望を捨てたということがこの本のなかに書かれてあります。次の一節は、この本の著者がイチローの実家を訪ねた時の光景です。

 華やかなスーパースターの実家としては想像以上に慎ましやかな家だ。「イチローは、僕が友達を連れて行っても泊まれる様な家を建てたらと言ってくれているんです。でも、私は10年早いと言ってるんです。プロ野球の選手というのは、いつケガをするかわからない。イチローが10年20年と活躍してからでも遅くはない。それに、私と家内とのふたり暮らしなら、今の家で十分なんです」と父親の宣之さん。 
 イチローの夢は、建築家になった兄の一泰さんの設計で両親の家を建てることだったという。それが十分に可能となった今でも、宣之さんはそれを許さない。その話を聞いた時、この人はイチローという才能を育てる為に多くのものを「捨てたな」と思った。宣之さんほどの実力があれば家の一軒くらいは建てられただろうし、或いは名誉ある職にも就けたかもしれない。しかし、宣之さんはイチローと野球をする為にその欲望を捨てたのである。それを宣之さんは、自分の人生のほとんど全てを捨てて掛けた。仏教者に似ている。と思ったら、宣之さんは浄土宗の教えで教育をする東海学園の中高校で学んでいるのだった。「当時の校長は林霊法先生という方でした。先生は、人は自分ひとりで生きているのではないという事を徹底的に教えてくれました」という。

 「先生は、法然上人の教えを私たちに易しく語ってくれましたが、その根本は、私たちが生きているということは、天地広大なる仏の無量寿無量光によって生かしていただいているということです。私たちの身体は両親をはじめ、多くの人々、自然の恵みによって生かされている。それだけに、無駄の人生を歩めば、私たちの心を支えている全ての物も死んでしまうということです」と、宣之さん。
 「私はことあるごとに、二人の息子たちに、林先生の教えを語ってきました。子どもたちも知らず知らずのうちにその心をわかってくれたかと思います」
宣之さんに仏教者の雰囲気を感じるのは、酒やたばこを飲まず、贅沢をしないからではない。宣之さんのイチローに対する徹底的な付き合い方の中に、仏教の「行」と「信」を感じるからである。イチローもその父親を深く信頼している。イチローが94年、210本の安打を放ち、スターダムにのし上がりながら、日常生活では常に謙虚で、控えめで人々に対して礼儀正しいのは、子どもの頃からの父親の教育があったからではないか。

ということを、この著者は書いています。イチローはその後、大リーグに移籍して、さらなる実績を残してきたわけですが、人並みではない、あのような超一流の実績を維持するには、やはり基礎が必要です。その基礎は、この文章を読むかぎり、二つに絞られるように思います。一つは当然のことながら、バッティング技術です。お父さんはイチローの小さい頃からバッティングセンターに連れていって、付きっきりで練習してきたということ。もう一つは、仏教的精神をベースとした家庭における親子の信頼関係です。

 イチローは、プロ野球に入ってから一気に210本安打を放ったのかというとそうではありません。そこに至るまでにものすごい苦労がありました。悩みがありました。その悩みをイチローは、この二つの基礎力によって乗り越え、乗り越えるプロセスにおいてさらに基礎力を強化していったのです。次の文章にそのことが表れています。

長所に光を当てる
 二年目の1993年イチローはシーズン初めから一軍入りし、開幕一、二戦には、先発メンバーで出ていたが、11試合に12打数1安打で一軍の選手登録を抹消された。結局この年、イチローは三度も一軍と二軍をエレベーターのように昇り降りを繰り返す事になった。「ある日、夜中の11時過ぎにイチローから電話がありましてね。いま広島から電話していると言うんです。どうしたんだ、と聞くと涙声で、僕、二軍なんだってと言うんです」と愛工大名電の中村監督。その後、イチローは一軍をはずされ、広島にいる二軍に合流するよう、球団から命じられたのだ。「オイ、イチローが泣いているようだから、おまえ変わってくれと主人に電話機を渡されたんです。主人は泣かれるのが苦手なものですから、私が代わり、聞いてみるとやっぱり二軍に落とされたと言う。慰める言葉もなくて、イッ君、二軍ならばナゴヤ球場でも試合ができ、私たちも応援に行けるからいいじゃない。たまにはファンサービスもするもんよ、と言ったんです。あの夜のことは一生忘れません」と監督の妻の保子さん。

 その時期のイチローを知る河村コーチは「イチローは悲しくて泣いたんではないと思います。くやし泣きでしょう。実力は一軍でも十分に通用するものを持っていたんです。その力を認めてもらえないくやしさだと思います」

 プロ2年目のイチローは一軍と二軍をたびたび往復していた。二軍での成績が良いから上にあがれるのだが、まもなく落ちてくる。「一軍から落ちてくると、イチローのバッティングフォームはズタズタになっていた」と当時二軍のコーチだった河村さんは証言する。一軍でフォームを直されるからだ。イチローのフォームのどこがいけなかったのか。二軍にたびたび落とされたことについて、日本記者クラブで質問が出ると、イチローは「要するに世渡りがヘタだったんです」と答えているが、改めて聞くと「一軍のレベルに達していなかったということでしょうね」と謙虚に答えた。事実は一軍のコーチから「フォームを直せ」と言われ、それに従うと、フォームがバラバラになり逆に打てなくなるからだった。イチローが長い間、自分で考えて作り上げてきたバッティングフォームは逆だったのである。

 これらの文章を読んで分かるように、イチローは自分なりの打撃のスタイルを持っていたのですが、一軍に上がるとコーチがその打撃フォームを見て、これでは打てないということで欠点を修正する。それでイチローは欠点を直そう直そうとするためにかえってフォームがズタズタになって打てなくなる、ということを河村コーチは理解していました。次はそのくだりです。

 イチローが一軍から二軍に落ちてくるたびに、河村コーチは丁寧にイチローのフォームを診察した。「イチローを百と見ると、イチローの八割は長所なんです。残りの二割は短所ですね。一軍のコーチはその二割の短所を直させようと懸命になる。ところが、その二割の短所を直そうとすると、八割の長所がなくなってくる。僕はむしろイチローの八割の長所をもっと多くするにはどうしたらいいかを考えたんです」コーチと選手の間にはすぐれた教育論が隠されている。イチローと河村コーチの出会いはその幸運な例だ。

 要するに、人は誰でも長所と欠点があって、欠点を直せばよくなる部分もあります。ところが、もっと大事なのは、長所を伸ばすということです。会社の発展においても、会社の欠点を直そうとするとそちらのほうへ意識が行ってしまって、良さがなかなか発揮できない。むしろ会社を発展させるためには、まずは会社の長所を伸ばすことです。人生も同じで、人生を好転させるためには、まずはその人の長所を伸ばすという方が、より早くより効果的です。河村コーチはそのように実践した。
 しかし、問題はイチローの打撃スタイルという全体像をどう見るかということです。正統の打撃理論でいくと、あの打撃フォームではとても打てないとなります。
 事実、伝えられるところによると、かつて「打撃の神様」と言われた川上哲治元巨人軍監督でさえ、ある日イチローの練習を見て「あのフォームでは打てない」と言ったといわれています。それほどイチローの打撃フォームは「正統」から離れたものなのでした。

 たぶん、川上元監督はオーソドックスな野球理論で、イチロー選手の才能を見ていた。ところが、イチローの打撃のスタイルというのは、通常の野球の理論からはずれていて、完全に自分のスタイルで作りあげた野球のバッティングフォームです。だからなかなか見抜けなかったということかもしれません。  
 しかしながら、イチローは自分のスタイルにこだわり続けましたが、かえってそれを評価してくれた人がいた。それが、元オリックスの故仰木監督です。

 この年、イチローは仰木監督に出逢えたことも幸運だった。「僕は監督によって一度死にかけた命を生き返らせてもらったと思っています」と正直に語っている。「監督は、たとえ数打席安打がでなくても、代えないで根気よく使ってくれました。その監督に感謝するためにも、いい成績をだしたかった」とも言う。イチローは外見はクールな現代青年だが、義理人情に厚い側面をしばしばみせることがある。

 このように、イチローという選手が1シーズン210本安打という、日本において今後恐らく破られることはないだろうというような、記録をうち立てた背景に、どれだけの努力と苦労があったかということをかいま見ることができます。この努力と苦労の中で、イチローは冷静な自己客観視能力と自己陶酔ともいうべき集中力を磨いていったわけです。

イノベーション
 それからさらに、大リーグに行って活躍した2001年12月21日の新聞の記事があります。そこには、その後大リーグでイチローはどういうことを学んだかということが書かれてあります。

 今シーズン大リーガーと共にプレイしながら、学んだ点は数多くありました。その一つが、いつの日か自分の野球人生に変化が生じて、何かを変えなければいけなくなった時に、どう対処すべきかその仕方を学んだことです。例えば、マリナーズの同僚のベテラン、エドガー・マルティネス選手はとにかく体を鍛えている。オフシーズンの今も球場に行き、室内のケージでバッティング練習をしていると思うんです。彼はいつも「自分の感覚を失いたくない」と言うんです。かといって、彼らは決してハードワークだけがいいと思っているわけではない。自分のことを実によく知っている。今の僕にとっても大事なのは、自分をよく知ること、自分が今やるべきことは何か、をしっかりわかっていることだと思います。何年たってもそういう選手でありたい。そうすれば変化に対応することも可能だと考えます。

 これはよく企業経営の言葉で言うところの、イノベーションということです。状況の変化に対応して、自分をどう変えていくか。あるいは、社会の変化に対して会社をどう変えていくか。イノベーションが必要だとよく言われています。この記事は、自らの決意で常に変化に対応していかなくてはならないということを、イチローが自覚しているということを伝えています。そして、その思いを語っています。

 自分の好きなことをやって報酬を得て、それによって世の中の人に影響を与えることができる仕事は限られている。それを生活の手段だけにとどめておくとはすごくもったいない。野球を始めた時の熱い思いをずっと抱き続けていないと、つらくなってくるはずです。当然。自分を磨いていこうという気持ちもわいてこなくなるでしょう。

 ということで、自分を磨くと共に、多くの人に影響を与えるということを彼は非常に自覚しています。良い野球を見せること、良いプレイを見せることを常に心がけて選手生活を送っているということがここからも読みとれます。このイチローの発言のなかに、非常にレベルの高いプロの自覚を感じます。

プロフェッショナルの由来
 ところで、プロとは何かということをここで改めて考えてみます。これまで、プロ、プロと何気なくこの言葉を使ってきましたが、プロとは一体何でしょうか。プロフェッショナルについて参考になるのは『自由と自己責任のマネジメント』(高橋俊介著、ダイヤモンド社)です。
 この本には、プロフェッショナルの定義が正確に書かれています。いまの日本において、特にビジネスの世界で必要とされるプロフェッショナルとはどういうことか、冒頭の松下幸之助氏の言葉よりもさらに具体的に書かれています。その一部を紹介します。

 顧客の都合を理解し、顧客に対してバリュー(付加価値)を生み出すことのできる人材をプロフェッショナルと呼ぶ。日本では残念ながら、プロフェッショナルという概念についての認識が浅い。スペシャリスト専門職、専門家と混合されて使われているのが現状だ。欧米では、プロフェッショナルの概念はかなり古くから存在し、スペシャリストとの違いも、明確に認識されてきた。
 プロフェッショナルはもともと、信仰を告白する人、すなわち「聖職者」が語源だった。このことからプロフェッショナルには二つの意味合いが含まれるようになった。ひとつは自己管理ができること。キリスト教の聖職者は他人との相対的な関係において存在するのではなくて、神との対峙において自分を律していかなければならない。つまり、あるひとつの倫理感に基づいて自己管理ができることが求められる。それと同時に、聖職者は信者の悩みを解いて心の安らぎを与えていかなければならない。つまり、一種のサービス業とも考えられる。相手に対してバリューを生み出すという、プロフェッショナルのもう一つの意味合いは、ここから出てきたわけだ。

 つまり、プロフェッショナルの意味は自己管理ができるということと、信者の悩みを解いてあげるということです。ここからいわゆるビジネスの世界におけるプロというものが生まれてきたということです。
  
 イチローの大リーグでの活躍を見るとまさに、ここでいうプロの定義そのものです。先ほどの新聞記事で見たように、「いつの日か自分の野球人生に変化が生じて何かを変えなければいけなくなった時に、どう対処すべきかその仕方を学んだことです」。常に自分を変えていかなければいけない。状況に合わせて変えていかなければいけない。そして、「今の僕にとっても大事なのは、自分をよく知ることだ」。つまり先ほどの、自己管理ができるということは、自分を客観的に知って、自分をどう変えていかなければいけないか、わかるということです。これがプロのひとつの条件。これをイチローはきちっと満たしています。
 それからもうひとつ、「自分の好きなことをやって報酬を得て、それによって世の中の人に影響を与えることができる仕事」ということを言っていますが、それは、自分のプレイがいかに人に影響を与えているかということを、イチロー自身が深く認識していることを表しています。だから、付加価値の高いプレイを見せよう。できるだけ良いバッティングをしよう。できるだけ素晴らしい守備をしようというサービス精神で貫かれている。これがプロの2つ目の条件です。

真のプロフェッショナルとは何か
 この自己管理ということと、人々に喜びや安心感や安らぎを与えるということ。それがプロの二つの条件である。どんな状況が来ても、不撓不屈で、屈しないで自分を変化させていく。

 それは、イチローというプロ野球における才能だけではなくて、現在のビジネスの世界でもまさしくそれが問われている。不況という非常に厳しい中に置かれて、その中で会社がどう変化していかなければいけないのか。あるいは一人ひとりの社員が、自分の置かれた立場でどう変化していかなければいけないのか。
ビジネスにおけるプロとは何か。それは、結局、自己管理をしなければいけない、そしてお客様に徹底的にサービスをしていかなければならない、ということです。

 ただ、このプロの世界には、段階があるということを知っておかなければなりません。

 一般的にいうプロという人たち。これは、どの業界にもいる、輝いている人たちです。次に一流のプロの世界。それは書籍等で紹介されるぐらいのプロ。そして、究極のプロともいうべき超一流のプロの世界です。これは世界に通用するプロです。

 イチローはこの段階を、10年ほどの間に一気に駆け上った。なぜそれができたかというと、毎試合、毎試合、真剣勝負をやり続けたからです。いかなる打席も、いかなる守備も、常に気迫に満ち満ちて勝負をし続けたからです。

 ビジネスの世界にいる私たちも、このイチローから学ばなければなりません。いま自分がどの段階にいて、つぎにどこを目指すべきか、それを自己客観視しなければなりません。仕事のプロであるかぎり、自己客観視しつつ、尽きることのない情熱をもって成長していかなければなりません。冷静な視点と情熱的な行動。この二つを、ビジネスの現場において追求し続けること、それが真のプロフェッショナルです。それは、日々真剣勝負し続けることによって可能となる道です。