あの日、あの時間から四年が過ぎました。
自分はちょうど被害が大きかったすぐ側に住んでいました。
今、被災地では悲しい裁判がたくさん起こっています。
「なぜ助けられなかったんだ」と、会社や市や国を求めての裁判など・・・。
悲しみが深かくて、誰か憎む対象を求めてしまうものなのかもしれません。
自分は住んでる近くの海が大好きで、中学の頃からしょっちゅう行っていました。
二十代になってからはほぼ毎日と言っていいくらい。
朝は四時から海辺を走って、空いた時間には海辺を歩いたり寝転んだりしていました。
かつての深沼海岸の朝の海です。
ちょうどデジカメを手に入れた時期で、自分の撮る写真の対象は主に深沼でした。
話は戻りまして、自分は地震が起きた時は薬局にいました。
棚が倒れて来て、隣におばあさんがいたから自分は棚を支えていました。
防災への取り組みについて後付けの論議も起こっていますが、宮城は防災の意識は高かったです。
震災が起きる前、宮城で大きな地震が来る確率は99パーセントと言われていました。
震災の前年、前々年にも震度6クラスが起きました。
「これで宮城県沖大地震終わりだよな?」と、みんなそのたびに動揺しては、宮城県沖大地震とは違うと結果を知ってガッカリしていたものです。
宮城では37年前にも大地震があって、その日6月12日は防災の日のようにされていました。
避難訓練も毎年やっていたし、避難グッズの準備など、意識は高かったはずです。
でも、想定以上でした。
誰もここまで想定も予言もできていませんでした。
ほんとに後付けで想定していたように言っているような人がいましたが、その人自身も被害に合っていて説得力がなかったです。
地震の後のマナーが世界的に賞賛されていたらしいけど、実際はそんなに綺麗なことばかりではありませんでした。許せないようなことが多々起きていました。
自分が居た薬局でも客がなだれ込んできて、ペットボトルは一人一本までと言われているのに「十本寄越せ!」と騒いでいた醜い若者がいました。
外に出て、信号機が止まって交通が麻痺していたのを見て愕然としました。
携帯はもちろん通じません。
電気が復旧するのにも自分のところは一カ月から二カ月かかったから、現地の人よりテレビを見られる人たちの方が状況に詳しかったと思います。
自分はまず実家に駆けつけました。
津波の情報なんてこの時点ではありません。
自分含め、あの時まず家族の安否を確認しに行ったり、家族のもとに子供を届けに行った人たちがほとんどだと思います。
運命を分けたのは、その時どこに居たかでした。
自分の住んでいるところは津波が到達しなかったギリギリの地点です。ただ運がよかっただけです。
同じように家に駆けつけて亡くなった友人や知人がいます。
最近の裁判や防災論議などを見聞きして悲しいのは、そうして亡くなってしまった人たちのことを考えていないこと。
まるで「そんな時に津波の来るところに行くなんて馬鹿だ」と言われているようです。
誰が、好き好んでそこに行ったか・・・。
家族を心配する気持ちや、様々な施設に通う人たちを助けようとした善意が、まるで悪意のように言われてしまっています。
後付けで語ることは本当に簡単です。
実際にその時どんな行動を移すか、それはどこでもたいして変わりないでしょう。
自分は国とやらには特に期待していません。
そもそも国とはなんなのか、その定義も状況によって変わるでしょう。
仮に津波を想定できていたとして、海辺を要塞のようにしたり、移住を強制していたらどうでしょう。
間違いなく国とやらは叩かれたでしょう。
実際、今海辺に大きな防潮堤を作ろうとしていて、それに反対の意見も多くあがっています。
日本は海に囲まれて、海と共に生きる国です。
そして天災は言ったらもうキリがありません。
最近だと火山もありました。
温暖化で気象が変わることにより竜巻も増えています。
ロシアでは隕石もありました。
すべてから守られた生活を望むなら、人は地下に強固なシェルターでも作って地上から離れるしかないかもしれません。
そんなことは望まないし、自分は国に過度な期待をするよりも、自分自身で出来ることを準備しておきたいです。
あの地震が影響で亡くなられた人たち、みなさん明日が続くと思っている今の自分たちと同じような気持ちだったでしょう。
突然の恐怖と苦しみ、亡くなった友達や知人のことをよく想像してしまいます。
誰も、悪くなんてない。
みなさんに合掌することしかできません。
そして残された人たち。
憎しみの矛先を求めてしまった人たちもいます。
現地の人間でも自分さえよければいいって人たちもいました。
家族や周りの人を失って孤独になってしまった人もいます。
震災や原発を利用した政治家や詐欺集団もいます。
本当に苦しんでいる人たちにどうか、幸せが訪れますように・・・。
これは震災に限らず、すべての人に言えることですが・・・。
人は変わります。
だけど、人は変わりません。
何かの人生体験で良くも悪くも変わる人もいますが、大多数の人間はいつの時代でも変わりません。
どれだけ優れた指導者がいようと、その大多数の波に飲まれてしまうことでしょう。
変わらない人間たちは恐ろしい現実ほど目を逸らしていくだろうし、震災の記憶も薄れていくのは免れないと思います。
それでも、覚えていられる人は覚えていければ。
そして、世界は理不尽なものだけど・・・それでも理不尽な別れが起こらないことを願います。
深沼海岸の側には防風林の松がたくさんあって、そこには車が通れないような細い道がありました。
その松林の中でキノコ狩りをする人たちもたくさんいました。
松林には近くの荒浜小学校の子供たちが火災が起きないようにと、一本一本の木に防火の標語のような看板がつけられていました。それを見て回るのも楽しかったです。
上記の写真は小学生のものではなく、地元を愛していた方が書いたものだと思います。
今はその松林もほぼ全滅してしまいましたが、あの美しい景色を忘れることはありません。
いつかまた、多くの松林が育って、この方のようにフカフカの落ち葉道を愛してくれる人が来てくれますように。
関係ないですが、仙台では東西線という地下鉄が誕生します。
震災以前に、作られる前から大不評でした。
というのも、特に発展もしていない地域に向けて地下鉄が作られることになって。
でも、地下鉄ができるからバスは減らされることになったんです。
そしてバスを減らされるのが、まさに被災地の場所なのでした。
なら地下鉄に乗ればいいじゃんと思われるかもですが、たいていの人が地下鉄のある場所まで遠い道のりです。
その辺、仙台のエライ人たちには困ったものです。。

