ありがとうございました(T_T) | るな¨̮♡H28.5&H31.3♡*°

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初期流産5回、子宮外妊娠2回、右卵管切除後の
妊娠、出産、育児の日々の記録と呟き
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父の生きた証…
2013年11月28日発覚後
大腸がん肝転移ステージⅣの闘病記。
【2014年7月8日永眠】


2014年7月8日    

AM 10時16分

父が亡くなりました。゚(゚´ω`゚)゚。


58歳でした。





葬儀も無事に終わり、
いろんな手続きで
バタバタしていますが、
私はどうにか頑張っています。



7日の朝、血圧が70前半で、
看護師さんに
いつどうなるかわかりません
と言われました。

夜、病室で身内会議をしました。
我慢強い父で、痛いも苦しいも
あまり言わない父ですが
ここ最近、しんどそうでした(´;ω;`)
私はもう寝させてあげたいと
4日頃から思っていました…

先生や看護師さんの提案は

モルヒネ(このとき1.2ml/h)を増やして
アタラックスP(うとうと薬)を増やす。

または
鎮静剤(ミダゾラム)で意識を下げる。
血圧がもうかなり低いので
スーッと逝ってしまいます。



私は鎮静剤がいい!
苦しんで生きんでいい!

と言いました。
兄も叔母ちゃんも黙っています。
朦朧としながらもハッキリ意識のある父。

お父さん聞こえとるやろ?
どっちがいい?

「鎮静剤でええ」

ハッキリ言いました。

お父さん!ごめんなぁ。゚(゚´ω`゚)゚。

「何で謝るんや」

またそんな会話をしました。



●20時15分    鎮静剤

朦朧とする時間が増えていたのに
このときハッキリ戻ってきていて
0.5ml/hから初めて、
急ピッチで上げましたが
なかなか眠りにつけず…
めちゃくちゃ焦りました(T_T)
苦しむ父を助けたかったです。
結局アタラックスPを追加してもらい
痛みや苦しみに約2時間耐えました。

孫2人とは最後のお別れと
父は分かっていたようです。
苦しいけど一生懸命手を振り
お別れをしたのです。

姪っ子はまだ11ヶ月で
まだ手を振ったり振らなかったりですが
このときは病室を出るとき
満面の笑みで手を振っていました。



やっと眠りについて
何の反応もなくなったとき
私は安心と同時に、
父の死を早める自分の
無力さを悔やみました。

誰も私を責めはしません。
それはわかっていますが…
私が鎮静剤がいいと言ったから(´;ω;`)



夜中、
干潮時間付近、特に気をつけていました。
酸素を3ℓからはじめました。
血圧が50まで落ちました。
反応はありませんが
耳は聞こえている。
…と言われています。

独り言を言いながら
お父さんに付き添いました。
目は完全に閉じておらず
たまに瞬きをさせてあげないと
乾燥するので

「目痛いやろお父さん」

言いながら、まぶたを下げます。
酸素マスクの耳にかけるゴムが
少し痛そうだったので、

「耳痛いやろ?ゆるめるよ~」

言いながら、ゆるめます。



お父さんと手を繋ぐのは
何年ぶりでしょうか?
私が握ってるだけですが
最後に撮っておこうと思いました。



朝になると
叔母ちゃんが来てくれました。

顔を洗ってコンタクトを入れて
お父さんを見ると、呼吸がなんか浅い!
看護師さんを呼ぶよりも先に
叔母ちゃんに叔父を呼んでもらい
私は兄に連絡しました。
看護師さんに先生を呼んでもらいました。

「私が鎮静剤がええって言うたから
    お父さんの寿命を早めてしまった…
    ごめんな(´;ω;`)」

今にも呼吸が止まってしまいそうな父に
私がこう言うと、

「違う!違うよ!LUNAちゃんの
    せいじゃない!本人が選んだんよ!」

と叔母ちゃんが否定してくれました。

叔母ちゃんのこの言葉がなかったら
どこかでずっと自分を責めたまま
この先を生きていたかもしれません。

救われました。



叔父(父の兄)がギリギリ間に合いました。
兄は間に合いませんでしたが
こればかりは仕方がありません。

姉ちゃんと兄ちゃんがおってくれたら
いいよなぁ!お父さん。゚(゚´ω`゚)゚。

すごく安らかに逝きましたが
苦しかったかな?
悲しかったかな、
無念だったかな…

父の目から涙が一筋、流れていました。

私は無念です。゚(゚´ω`゚)゚。



少しでも何かの役に立つ
情報となればと思い、
このブログはずっと残しておきます。

父が生きた証としても(TωT)

今まで応援してくださった方々、
ありがとうございましたm(*_ _)m


ってか、来週から母が入院ですが…



…………( ゚Д゚)ナニカ?