前回は「秀吉に子ができないのは成長期の栄養不足が原因かも」について話ました。
今回は逃してはいけない時期・思春期についてです。
現在の日本では思春期を8歳~18歳と考えている所が多いようです(日本産婦人科医会など)。以前に比べ、だいぶ早くなった気がしますが、その理由は
子どもたちの栄養状態が良くなったから
だとか。なんて嬉しい理由。管理栄養士として、こんなに嬉しい理由はありません。
いつまでも ≪子ども達がお腹いっぱい食べられる世の中≫ であって欲しいと願います。
一方、秀吉の時代はどうでしょう?
きっと空腹の日が多かったと思います。なので、思春期の始まりも遅かったはず。
でも、だからと言って思春期の終わりも遅いとは思えません。逆に、栄養状態が悪いからこそ短期間で終わった可能性も考えられます。
ではここで、秀吉の半生を振り返ってみましょう。いろいろ謎に包まれている秀吉ですが、信長に仕えたのは15歳または17歳と言われています。仮に15歳(1554年)で信長に仕えたとして、若手時代の功績をまとめてみました。
1554年(15歳) 信長に仕え始める
1561年(22歳) 足軽組頭になる
1566年(27歳) 美濃の斎藤家を倒す奇策を信長に提示
1568年(29歳) 観音寺城の戦いで夜襲をかける
1570年(31歳) 金ヶ崎の戦いでシンガリを務める
シンガリとは敗戦覚悟で撤退する際に軍列の1番後ろで敵に対抗する軍のことで、この戦いで秀吉は “信長を浅井&朝倉軍から逃がした” という、歴史的な功績を上げます。
「すごいね!秀吉!!」と思いながら、もう1度、表を見て下さい。
15歳で信長に仕えはしたものの、奇策を提示したのは27歳。このことから、信長が秀吉を“武将”として認識し、使い始めたのはおそらく、22~27歳の間。
つまり、20代前半くらいまではそこそこ苦しい生活を送っていたと思われます。
いくら戦国時代でも22歳以降に思春期が始まり・終わるとは思えません。となると、秀吉の精巣は栄養不足による発達不良で思春期を終えた可能性が考えられます。つまり、精子が作れないまたは少し作れる程度で発達が終わったということ。
だから、秀吉には子どもができなかった。
そして、ここからわかることは
思春期は逃してはならない重要な時期
ということ。
人間にはその時期に取得しないといけない 人生の課題 のような物がいくつかあります(例:基本的信頼感や言語の取得など)。もちろん、後追いで取得することが
可能な場合もありますが、精巣はそれが困難です。
もし、それが可能ならば、秀吉はもっと子どもができたはず。でも、産まれたのは
鶴松と秀頼(プラス1男1女)だけ。
でも、そのおかげで(?)徳川家康は豊臣家を滅亡できたのだと私は思います。
もし、秀吉に他の武将と同じくらい子どもが居たら、例え歴史の表舞台から退いても誰かが豊臣家を存続させてたはずです。織田家がそうだったように。もしかすると、関ヶ原の戦いも大阪の陣も起きなかったかも。となると、日本の歴史が大きく変わってしまいます。
ある1人の子宝問題がそんなことに発展するとは・・・豊臣秀吉、やっぱり偉人だったんですね。
豊臣秀吉について考えてみた(4)に続く