アインシュタインの理論を離れ,宇宙は拡大している。


なんとも夢のある話だ。

個人的には,いじめは,いじめられる人が悪いと思う。

そもそも,誰がいじめて,誰がいじめられたかは特に興味ないが,

未成年の段階でいじめられるような人間は,

社会人になってからもいじめられるような気がする。

あくまで感覚論であるが。


では,逆に,社会的弱者と呼ばれる人は,

未成年,特に学生時代にいじめられる要素がなかったか?


逆は常に真とは限らないが,

思考として面白いと思う。


個人的には,

いじめられる人というのは,反社会的なのではないか,

と思う部分がある。


そして,その議論の前提として,反社会的とは,暴力団とか,そういう社会的ルールを公然を破るような人間に限られないような気がする。


もちろん,社会からいじめがなくなれば良いと思うが,

いじめる人間の弱さだけでなく,いじめられる人間の弱さも問題になると思う。


そして,人間は弱い。

これを前提とすると,

いじめられる人間を社会的に整合させる方がコスト的には少ないような気もする。


ただ,背が小さいとか,そういった合理性のない理由でいじめられるのは,

非常に不合理で,是正の方法も,非合理的な人間を是正するべき,ということになる。


そこで,いったい,いじめの実態として,いじめられる人間の側にどれだけ反社会的な要素があるのか,そういった「いじめ」自体の性質による分類ごとに

考察が必要なのではないかと考える。


そうでないと,そもそも「正義」とは何かといった議論が崩れる。

例えば,反社会的な暴力団は排除すべきという一般的な議論さえ,

「いじめ」として非難され,日本特有の「和」を求める社会に飲み込まれる可能性もある。現に,戦後の日本は,そんなものだったのだろう。


結論としては,かなり曖昧だが,

日本の社会は「いじめ」そのものについて,しっかり向き合っていないし,

分析も不足している気がする。

「いじめ」という社会の膿に対して,目を背けているような気がする。

なぜなら,「いじめは悪い」というよくわからない正義論を

あたかも常識であるかのように議論しているのを見かけるからである。


もちろん,非合理的な理由で,反社会的でもない人間を

あたかも反社会的であるかのように排除する行為,いわゆる「いじめ」は

よくないと思う。


しかし,実際そのような「いじめ」しかないのか。



もっとも,このような「社会的」な人間と「反社会的」な人間を区別する考え方を推し進めると,

障害者と正常者を差別し,いつまでもあらゆる人にとって参加できる社会の構成は難しくなってくるのかもしれない。

特に,日本は,障害者が参加しにくい社会になっているのは明らかだ。

そして,障害があったとしても,社会には参加し,自分の意見をしっかり述べ,

自分の考えを実行できる社会が豊かであるという価値観は,

多くの人に共通するものであり,

最大多数の最大幸福に資するものであろう。


ここまで考えてくると,

そもそも「正義」とは何かについて,しっかり自分なりの答えを持つ必要が出てくる。

そして,「正義」とは何かが人それぞれ異なるがゆえに,

社会に議論が生じ,曖昧な部分が出てくるのだと思う。


ちなみに,個人的には,自分なりの「正義論」は持っている。


原発反対運動に参加している人のなかに,乳幼児を抱えた母親が多いと思った。


子供への影響を考えると,電気を使うという贅沢よりも,原発がないという安心感を選択したのだろう。

しかし,子供への影響という点では,熱中症対策としての冷房も欠かせないだろう。

そういったことを総合考慮した判断だったらいいが。


電気量が減るというデメリットを具体的に洗い出して,自分の判断を定めるべきだ。