「僕はなぜ僕でいるのか夏の果て」という俳句が瞬時に浮かんだ


それは車一台分の幅しかない、小さな橋の上をスクーターで渡っているときだった。しかも、その両側にはなにもない。ユー太は毎朝この橋を渡って、仕事に行くのだ。田舎の田んぼのなかにある小さな川は綺麗で、のどかな世界を維持している


頭のなかで浮かんだ一句を忘れまいと心に書きとめながら、橋の終わりのほうの汀に目をやると、なにやらきらきら光るものがいる


時間的には少し余裕があるので、バイクを上流側のほうに停めてそこに向かった。すると滅多に目にすることのできない一匹のアカメの幼魚が、口をぱくぱくさせながら体をくねらせている。いくらなんでも魚が溺れることはないだろうにと思ったが、少し様子が違うようだ


幼魚は、はっきりと言った


「台風が近づいています。この橋も壊れて流されます。みなさんにも注意を促してください。それから、私のことは誰にも話さないでくださいね。では、いいことがありますように」


ユー太はまさか魚が話すとは、と仰天した。彼は手を添えてアカメを川水のなかに逃した。その後勤めさきで雨台風が明後日ごろやってくる旨をニュースで確認した。魚がしゃべったことは誰にも言わなかった


アカメの言ったとおり、台風で件の橋が流されていた。目の前は濁流が占領している。ユー太は迂回して本橋のほうを通って会社に向かった。ちょうどその日は、派遣職員としての女子職員がやってきている。ひととおりの挨拶紹介がなされたあと、彼の目の前の席に配された。ブイ子はまだ二十歳過ぎということで、清楚な感じを醸しだしている


流された橋は、近くの住民たちの切望によって一年後には少し頑健に再建された。ユー太は再びここを渡って通っている。そのさきの草地に曼珠沙華が咲いている。彼はあのとき作った俳句は、いまいちしっくりきていないと長らく思っていた。この花を見て「僕はなぜ僕でいるのか曼珠沙華」と季語を変えてみた。季語が「動く」感じは残るもののこっちのほうがいいかもと思って、悦にいっている。そこへブイ子がデータ処理の結果がおかしいと聞きにやってきた。分かりやすく説明したら、にっこり笑いながら席についた


このとき初めて、ブイ子の柔らかな香りにある種の懐かしいような感じを抱いた。そして訊いてみた


ユー太「ブイ子さんは、花はなにが好きですか?いやね、いまきみからいい香りがしたものだから」


ブイ子「えっ、そうですね〜。ローズマリーかな。でも香水はつけていませんよ。ただ、家にたくさん咲いています」


ユー太「あゝ、あれね。なんでだろう、この香りは僕には懐かしいような感じがしたものだから」


ブイ子「お家にはないのですか?」


ユー太「うん、ないなぁ。同じハーブ系のレモングラスならあるけど」


彼が何気に話しかけたことは、二人の先輩後輩としての関係を築くきっかけになった。ある日仕事しながら頭のなかで句を捻っていると、なぜか曼珠沙華が浮かんだ。そういえばこれは香りはしないはず、まさかあの「懐かしい」感じはこの花にあるのかもと思った。色は赤が多いものの、近ごろは白も見かける。ユー太の好きな花でもある。むかし花好きの祖母からこの花にまつわる話を、よく聞かされたことも手伝っている。死人花などの別名がたくさんあること、毒を持っていること、花言葉は「情熱」「再会」などであることも。「くつきりと茎と花のみ曼珠沙華」という句を作ったこともある。が、懐かしいという感情とは違うような気がする。もしかすると、それは香りではないのかもしれないと思った


となると、ブイ子のなにかと関係があるのだろうか。ローズマリーは「海のしずく」という意味があるらしい。海釣りをしているユー太にとっては、驚嘆すべきことである。だから「懐かしい」ということになるのだろうか。彼は煮詰めるためにも、さらに彼女に畳みかけた


ユー太「きみの姓は白波ですよね?」


ブイ子「はい、そうです」


ユー太「ひょっとして、お父さんは海釣りが趣味ですか?」


ブイ子「はい、やってますよ」


ユー太「おや、ぼくと同じだ」


ブイ子「そういえば、この間大きな魚を釣りあげたとか言ってました。でも絶滅危惧種なので、逃してあげたらしいです」


ユー太「ええっ〜、魚の名前は?」


ブイ子「う〜ん、アカメとか言ってたわ。目の赤いお魚さん」


ユー太は驚愕して、返す言葉を失ってしまった。気を取りなおすのに時間がかかったものだから、ブイ子はなにかマズいことを言ったかしらと俯いている。彼女の所作を気遣いながら、さらに訊いた


ユー太「釣れたところは、汽水域ですか」


ブイ子「えっ、それはなに?」


ユー太「海と川の境目のことです」


ブイ子「あゝ、そうなのね。川にも行くけど、いつも海なのでそこだと思うわ」


ユー太はあの懐かしい感じというのはそのことと無関係ではなさそう、と結論づけた


ユー太「もしよければお父さんに会って話がしたいけど、どうかな?」


ブイ子「はい、連絡しておきますね」


数日後、白波家を訪れた。アカメのことで小一時間ほど話ができた。父親もユー太も顔がふやけている。お互いに魚との約束を破って、告白したのだった。ただ父親のほうの、最後は「ユー太さんは好青年です。娘さんも気にいっているようです」というものだった


ブイ子「二人きりで、なんのお話だったの?」


天涯孤独のユー太は白波家に婿養子として迎えられ、三人での新しい生活がはじまった


ユー太はブイ子に俳句の季語の曼珠沙華の説明をしているときに、初めて気がついたことがある。この花もアカメも「赤い」ということに




◾️憩いの写真


アカメ








◾️出典:WikiYahoo!画像







◾️お読みいただきまして、ありがとうございました。次回作は暇がかかるかもしれません