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気がつけば、
神社の正式な参拝方法と呼ばれる
「神社の拝殿に向かって
柏手を打って参拝する」
という機会が
減ってきました。

どちらかというと、

鳥居でご挨拶して、
その境内の居心地の良い場所で
境内にある生命たちを眺め、
風景に神なる生命の営みを感じ、
その、生命の営みに共鳴し、
流れに加わわって
時間を過ごしています。

自分が境内の生命たちの
一部となって、
「神なる生命の目」から見える
風景を体験しているような。


「あなたが
自分の神なる生命を生きている分だけ
外なる神の生命は、共鳴し
あなたの神なる生命が
向かおうとしている流れに加勢する」

昨年から、ずっと続いている学びです。
神社や仏閣に行って
自分の願いをかけ、
叶えてもらう
という段から、卒業し、

まず、自分の内にある生命(神)に
意識を集中し、大切にしていく。
その流れの中で、
その時に加勢する
「神なる生命の営み」を宿す場に
導かれ、現実化するためのエネルギーを
増し加えていただく。
お互いがもつ「豊かさ」を
共有する。
それは、お互いの「神なる生命の豊かさが
現実化し合ったもの」です。

神なる生命を生きている分、
というのは質も含みます。

自分が自分の「神なる生命」を
しっかり養っているなら
神社や仏閣の神なる生命も
自分の生命と出会い
交流することで、
その場所を進化させることができるよう。

そのことを、八幡宮にいるネコたちが
教えてくれました。

この感覚は神社のみならず
普通の生活の中でも
充分活用できるもの。

そして、
その感覚からお金を使っていくと
神なる生命の豊かさの象徴としての
お金が、自然と自分の世界、
特にお金の世界を
整え始めます。

なぜなら、
目の前に現れるヒトもまた、
自分と同じエネルギーレベルで
「神なる生命」を生きている人。

そういう人が生み出したモノにしか
お金は流れなくなりますし
自分の豊かさが表現されたモノ
(言葉・思考含む)も
お金との交換はおろか、
与えることさえできません。
そのモノに関する情報さえも
見ていても、聞いていても、
読んでいても、意識に留まらず
素通りしてしまうのです。

もともと、誰かの生命が持っている「神なる豊かさ」を自分が持っていて、
それを現実化している。
その誰かが必要になった時、
それを受け取るために目の前に現れ、
お金と交換していくのです。

そして、受け取ったお金は
自分の豊かさを表現しているものと出会い
体験し、進化を受け取るために
交換されていく。。。

これは子どもであっても
容赦ありません。

とってもシビアな共鳴の世界です。

物理法則に交渉は通用しない。

とは、スウェーデンの若き環境活動家
グレタ トゥーンベリーさんの言葉ですが、
コロナウィルスの流行も相まって
私たちが思い出すべきことかもしれません。

神なる生命の営みに
人の頭が自己都合でこしらえた
「ごまかし」はきかないのだと。